牙の向けどころ
私は、暴力反対です。
焼身自殺について思うところ。
焼身自殺は何らかの主張があって至ってしまうことと推察。
そのベースには身を焼き尽くすほどの激情があるはず。
しかしその激情は誠に残念ではあるが周囲に一瞬だけ伝わり風化する。
もちろん縁者や近しい人へは、尋常ならざる心の楔を打ち込むことはできる。
焼身自殺をしたとて、激情を引き起こした対象には何らダメージを与えることはほぼ叶わない。何故なら共通とする思考の基盤が異なるから。共通するのは ”人間の三大欲求と死” ぐらいなものか。
そのため焼身自殺は、はっきり申し上げると無意味に等しいと言える。それどころか自陣営の状況を悪化させてしまう。ランチェスターの法則でいうところの「兵力差」を自ら生み出し、自陣営を不利にしてしまう。
焼身自殺で何を訴えたいのか。それはその身を焦がすのほどの激情に対して「同情」をしてほしいのか。否、きっと彼ら彼女らは焼き尽くされた自身の姿を見た者に「行動」してほしいのだろう。焼身自殺をすれば誰かが自分たちを苦境から救い出してくれる!と。
だがそれはきっと叶わない。絶対とは言わないが極めて難しい。どんなに美辞麗句を並べ立てる人権屋も我が身がかわいいことは誰もが知るところ。己の身を真に犠牲にできる者などいない。
それがニュースになって世界を駆け巡ったとしても、(最近ではもうほぼニュースにすらならないようだが)それらを見聞きした人たちは、へぇー、怖いわね、酷いね~、くらいの感想だけで一瞬にして忘れ日常に戻る。せいぜい何かされたとしても各国から声明が一応形だけ送られるのみだ。誰も自分の生活や命を犠牲にして助けに行ったりはしない。要するに他人事。
「そんなことはない、多くの人が気づき立ち上がれば!」
…焼身自殺のニュースを見聞きするたびに、そのあとの「立ち上がり」とやらが起こったことは見聞きしない。もしかしたら起こってるのかもしれないが、封殺されているのだろう。ということは自陣営の不利、または敗北につながる。
思うと、自然界の猛獣は人間なんぞ、その牙や爪で一捻りだ。
だが、人間はそれ以上の力「武器」を使ってそれを一方的に屈服する。
己を身を焼き尽くすほどの激情の猛獣が自身の内いるのならば、
その激情を引き起こした対象を道連れにすればいいのに、とつくづく思う。
少なくとも数人から数十人単位の敵人員や、そのトップを守っている側近を巻き込んで道連れにし、敵の戦力をそいでいく。それを仲間数十人で方々で行えばかなりの敵人数を減らすことが出来るしダメージを与えることができるだろう。
信仰からなのか、他者を傷つけてはならない、と教わっているのか。そしてその信仰は「己を傷つけてはならない」と教えていないから、焼身自殺という表現に至るのか。これではあまりにも不憫だ。何故なら「教義(=ルール)に書いてないことを実行する」というのは、焼身自殺に至らせた側、権利を踏みにじっている側も思考していることだからだ。
つまりここに悲しい共通の認識が存在する。ただただこのルールが信仰の篤い弱者側に不利に働きすぎている。それがゆえに不憫極まりない。
それがゆえに残念でならない。それだけの信念、信仰、行動を持って何故「他者依存」のままで終わるのか。己をその境遇に追い詰めた勢力よりも強い何者かに 自分たちが救い出され助けてもらうことにかけ他力本願だけに頼っているのは何故なのか。激情の猛獣の爪と牙を持って戦うことを何故諦めるのか。
己が権利を踏みにじる相手は、その信仰を、その思考基盤を持っていないのだから、
話の通じない猛獣を道連れにして自陣営を有利にすればいいのに。
そして「復讐は何も生み出さない」という言葉が自分の中に湧いた。
だがそれは本当だろうか? 焼身自殺は、自分自身を傷つけて何もできない無力な自分に復讐しているだけではないのか。そして縁者や近しい者、共感性が高い者だけに復讐心を植え付けるだけではないのか。
焼身自殺では誰も行動せず風化する。
これもハッキリと申し上げよう。焼身自殺では奴らは何も感じない。むしろ陣営の有利に働くことから「ご苦労なこった」とほくそ笑むだけなのではないか。
であれば、焼身自殺するほどに追い込まれたのであれば、自殺を選択するほどに行動力があるのであれば、相手陣営の戦力を削ぐ作戦行動をすることが必要なのではないだろうか。
自爆テロを礼賛はしない。しかし 「他者に脅されず」 「己の信念をもち」 「対象以外を巻き込まず」 に至った自爆テロは焼身自殺よりも自陣営を有利にするはずだ。
対話のできない獣には、激情の猛獣で相対すること。
対話が通じるのは共通の思考基盤があるからだ。そこに至るまでに武力を示すのは必要と考える。
なお武力を示すことと、暴力を執行することは別だ。
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