正木坂陣屋跡
近頃はこの柳生地区、天乃石立神社の柳生一刀石 が、アニメ ”鬼滅の刃”の名シーンを再現するのに最適♪ っと コスプレイヤーたちに一躍脚光を浴びているようだ。なのに柳生の方々は、先人の名を使い柳生観光で積極的に金儲けしてやるぞ(*`▽´*)ウヒョヒョ とかはあまり思っていないような印象。
綺麗に手入れされているのにほぼすべての史跡が無料で見れるだけでなく、先日行った芳徳寺でも入り口に拝観料入れる箱が置いて有るだけで完璧人を信じているし、神社の賽銭泥棒なんかもいる世の中では見ているこっちの方が心配になってくるくらいだ。
みたところあまりお店も無いんですよね。柳生茶屋とか十兵衛食堂とかあるんですが開いてなかったしなぁ。あっ、あまりの早朝にちょろちょろ移動してる私が悪いんか(^^; ”柳生殿様めし” とか食べたい(笑)
心が美しい人の住む所とは、こんなん↓ 太陽に見られて困る事はしない!そういうところ。

ここ↓は、愛洲移香斎の陰流 の流れをくむ上泉信綱から新陰流を学んだ柳生新陰流創始者の柳生宗厳(石舟斎)の5男にして徳川家兵法指南となった柳生宗矩が建てた正木坂陣屋の跡地。

1641年に宗矩がこの正木坂陣屋の建立を始めた頃は、ちょうど厳しい築城禁止の時で、屋敷替や石垣が立派過ぎるとか表門の造りがどうのこうのとあらぬ風聞がたち老中から尋問を受けるほどだった。ならばと、素直に 竹の枝折門に造り直し1642年に一応の完成をみ、1644年に書院も竣工した。

1643年と1645年秋には宗矩が大和の柳生屋敷でのんびり暮らした記述が残っている。春と秋には近郷近在の郷士、僧侶、農商人まで呼んで申楽を開催し見物させ珍膳をふるまい、1月1日から9日までは家臣たちと闘鶏に興じたりもしていて、まぁ一言で言うとリア充ですわな。剣だけでなく風雅の道にも詳しくその分野のお友達も沢山いて諸大名家へもよく出入りしてたり。

宗矩とよく対比される宮本武蔵とは同じ剣豪とは言え生まれ育ちもそうだしまるで違う生き方だなぁ。チャンスを活かし売り込んで政権中枢に入り多くの人々と家族子孫に囲まれて賑やかに過ごす宗矩。霊巌洞にこもり書物を執筆したり、禅に没頭したり、木彫りをしてみたり、ひたすら内に向かう武蔵。

その後、柳生藩3代目宗冬が増改築したが、7代目俊峯の代の時1747年12月10日の夜に発火し全焼。復興にとりかかったものの完成をみることなく明治維新となり、明治6年には奈良県によってこの大和正木坂陣屋の建物石垣の一切を競売にかけられ売却されてしまった。
さきほどの坂を下りてぐるっと道に沿って歩いて2分くらいでしょうか、正木坂陣屋へのもう一つの入り口↓がある。ダッシュで駆け上っていくのにちょうどいい階段。頂上までのぼりきると上でさっきのところとつながっている。今は史跡公園としてこうして跡地が大切に保存されているのが嬉しい。柳生って良い所だわ~。「十兵衛が好きでさぁ、来るの夢だったんだ」 っと嬉しそうに語る60代後半くらいのリュックを背負い帽子をかぶった男性もいた(笑)

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