密談その真意は??
いろいろな説もあるようだが。。。聖徳太子没後、山背大兄皇子(聖徳太子の息子)を攻め滅ぼした蘇我入鹿、蝦夷親子は更なる実権を誇るようになり、そんな世の中に疑問を持ち国家の理想像を強烈に思い描くようになった中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、飛鳥の法興寺で開催される蹴鞠会で19歳の中大兄皇子(後の天智天皇)が参加する情報を入手し自身も参加。
中大兄皇子の靴が脱げ毬と共に転がった靴を一早く拾い掌に置いて捧げた中臣鎌足。丁寧に礼をのべ敬して受けた中大兄皇子。2人は意気投合し(ダメだ、詐欺師がよくやる手法だよね、とか思ってしまう私は心が穢れているかも)645年5月、この多武峰の山中にて二人で大化の改新の密談を行うにいたる。

ここでその密談が行われたのか。。。故にこの山は、”談い山”とか ”談所ヶ森” と呼ばれるようになった。桜や紅葉の季節は絶景で関西の日光と呼ばれるほど美しい噂だが今はこんな感じ。早朝のスケジュール後、折角なので近くにあるこの談山神社に来てみたのだが、怖いくらいの真っ暗の山中の細い道を通り辿り着きようやっと日が昇り明るくなったところ。誰もいませんよ~。あの円柱型赤ポストと電話ボックスが昭和時代にタイムスリップしたかのような錯覚誘発。

ここでの中臣鎌足と中大兄皇子の談合により、蘇我入鹿を一か月後に暗殺することに決定。その一ヶ月の間に、蘇我入鹿、蝦夷に不満を抱く蘇我倉山田石川麻呂(蘇我馬子の孫)を同志に加えるなどして仲間を増やしていった。
645年6月、中大兄皇子は、三韓進調の儀を飛鳥板蓋宮で行うと公言し、百済からの上表文を読む役割を演じる蘇我倉山田石川麻呂の読唱中に蘇我入鹿を斬り殺した。翌日には蘇我蝦夷は家に火を放ち自決。
この談山神社の拝殿には、刀を振り上げ襲い掛かる中大兄皇子と、弓を構え動きを制する中臣鎌足、そして蘇我入鹿の首が飛ぶ様子が描かれた蘇我入鹿暗殺シーン ”多武峯縁起絵巻”が展示されている。んんー。。。
この働きにより蘇我本家に代わって分家の蘇我倉家が重用されるようになったが、蘇我倉山田石川麻呂は異母弟日向の讒言によって謀反者とされ自決に追い込まれる。死後、彼の身の潔白が証明され、讒言した日向は筑紫に追放されている。
利用され用済みになったので死に追い込まれた蘇我倉山田石川麻呂、邪魔者の日向も追い出し上手く唆し諮り蘇我氏一族同士討ちに成功したとしか思えない中臣鎌足と中大兄皇子、黒々とした何かを感じてしまう私なのであった。

中臣鎌足の死後、唐から帰国した長男の定慧和尚が678年、この地にお墓を移し十三重塔を建立。680年に拝殿と講堂が建立されて ”妙楽寺” と号された。701年には、神殿が創建され藤原鎌足の木像を祀り、後に本尊として釈迦三尊像が安置され大化の改新発祥の地、として今に至る。神仏分離令の発令により廃仏毀釈によって神社となった。
この↑談山神社と刻まれた石柱の隣辺にある大木、御神木なんかいな~。身が引き締まるような感じ。素敵な神社だ。そして鳥居のもっと先の入り口に設置されている手水舎は流水が龍の口から流れ出る素敵な造り。浄めさせていただきましたー。可愛い龍ちゃんだわ〜っと思い感動しながら中に進もうとしたら。。。

はい! 早朝過ぎて無理ーーーーー! 後1時間ちょい待てば正々堂々、鳥居をくぐる事が出来るだろう。拝観料を受付台に置き勝手に入って参拝と見学をする事もチラッと脳裡に浮かんだがバチが当たりそうに思え即却下。あの入り口の大木はきっとすべてを見ている(; ̄ー ̄川 で、帰りましたよ~~ww なんかここまででもうお腹いっぱいな感じ。ここまでですっごい変な満足感がある神社だ。
そういえば、鎌足の聖霊がこの地に降神して以降は、国家・藤原氏に異変が生じる時、藤原鎌足氏のお墓である御破裂山が鳴動し神像に亀裂が入り時には異光を発し、その光は三笠山まで至ったという伝承がある。その数なんと35回!まで記録がある。

国指定の重要文化財がわんさかあり、鎌足の墓塔である日本唯一の木造十三重塔(高さ17m)が現存している。春秋には、古式ゆかしいけまり祭が行われていたりもするし、予約が必要だが けまり体験 もさせてもらえるようだ。まっ、もっとも拝観時間外に来たら入るのも躊躇われ けまり体験どころか鳥居すら通れないが(--; って事で、下山。

この石垣やこの道は当時のままのようだ、ここ通ったんだぁ。。なんか感動する~。と、言うのも、この談山神社は、藤原氏の菩提寺である興福寺とは宗派が違うという事で仲が悪く、焼き討ちにあったりもしてて、その後も更なる焼き討ちや戦乱の舞台として存在し続け、落ち着いたのは徳川の世になってから。権力の奪い合いとか本当嫌だわ〜。宗派が違うと争うのも変くない? 宗派や宗教は違えども、神という存在を信じている、よりよく生きる事を求めている仲間、同志のはずなのに。
かなり下った所に保存されている談山神社東大門。社寺の表門に城郭風の門が用いられた数少ない遺構の一つとして貴重なもの。今は談山神社の向いや隣にも家や御店が建ち並んでいるがこの辺りから一体がその境内だったんだなぁ。もう実物見ると感動しまくりの門ですわ〜。

しかし、乙巳の変、応仁の乱の後、唐から帰国した留学生らと共に天皇を中心とした新しい国づくりを行ったということで ”改新の詔”なども発令されてるが。。。。
天智天皇は、我が子可愛さに継承順位を故意に変えようとし、弟を追い出したりして、中臣鎌足と共に抱いた ”正しい国家の在り方” の理想とらはどこへいってしまったのだろうか? その理想の為に蘇我一族をぶち殺したのに結局は、私利私欲、己が権力を握り好き放題したかっただけの結果になったように思えてしまってならない。
又、中臣鎌足(後の藤原鎌足)も、蘇我親子が実権を持ちほしいがままに世を操るのに疑問と不満と危機感を持ち中大兄皇子を煽って乙巳の変に持ち込んだのに結局は、藤原一族が蘇我氏と同様に実権を持ち好き勝手出来る世を作るべく奔走し支配を満喫するようになり、結局のところ、鎌足が蘇我氏に抱いた想いは全くの己の投影であり、同族嫌悪みたいなものだったのではないか、と思えてしまうのが残念なところだ。自分もあーやって権力握りてぇーーー!みたいな。ご本人と会ったことすらないのにホント好き勝手言って申し訳ないですが、
後々も藤原一族が真に国家国民の事を考える一族だったなら国にとって有用な人物を死に追い込むなどしない。私利私欲極まれり。結局は己が権力を握りたいって事なんだろか。そう感じるのはそれこそ私の心の闇なのだろうか?(--; まぁもっとも自分が権力握るのが正しい国家のあり方♪あいつが権力握ってるのは正しくない!って事だったのかもしれんしな。。。とそこまで思うのはやはり私に問題があるのか。。。

この素敵な橋↑は、昔から談山神社の参道に架かっていた ”屋形橋” の名で親しまれてきた神社の神域入口に架かる橋で、昭和54年に再建されたもの。本居宣長も書き記している橋だ。えっーーー、この橋、渡ったんですかー!きゃぁ~♪って思うほど素敵にそして再建とは思えないほど年代物のように見えるその橋造りテクも感動的。川の水はとっても綺麗。

今度はちゃんと時間をとって拝観可能な時間に来たいとも思うが、しかしその一方で、これだけでももうお腹いっぱい胸いっぱいなくらいに感動的で満足しちゃった不思議。もう十分堪能しました~感が凄い。拝観したらもう何もかもがいっぱいいっぱいになっちゃうかも~。かえってここまででラッキーだった気がする満足感。これは一体なんだろう。
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