津田宗及の件が好き
嘗て、豪商が軒を連ね、”大和の金は今井に七分” と謳われるほどの繁栄をみせた今井町。重要伝統的建造物群保存地区に選定されたここ今井町に存する6百軒ほどの町家の約8割は江戸時代の建物。その内、9軒が重要文化財、3軒が県指定文化財という見どころ溢れる町。
じっくり堪能したい町だが、時既に夕方。取り合えず観光案内所?的な明治36年に建造された華甍に。なんとも素敵な建物!! 一つ一つの飾りも精巧。

入館は16時30分までだし外見を眺め雰囲気だけ味わって帰るつもりだったが、館内から出てきた上品な御爺様が 「閉めようと思ってたんだけどどうぞ」 と言って町案内のパンフレットをくれ中に入れてくれた。管理者だったんだわ~、しかし良い人やわ~。
入るとこんな感じ↓ 1階だけ開放。

階段の左にある図書閲覧コーナー。この地域の歴史書とかもあり読み応えありそう。通って全部読みたい~。この部屋の狭い廊下挟んだ向かいの部屋は映像シアタールームなんだけど閉館ギリギリの時間ではさすがに上映してなかったな。

この辺りは昔々、興福寺一乗院の荘園だった所。戦国時代の天文年間(1532年から55年頃)に石山本願寺の一家衆(石山本願寺の血縁者)の今井兵部豊寿が本願寺道場(称念寺)を建て、自衛の為に武力を磨き、濠を巡らし寺内町を形作り始めた。
1568年の織田信長の上洛以降は、本願寺と共に反信長を掲げ、幅5~7M、深さ2Mほどの堀をまわし土塁や見通しのきかない道路を築き称念寺を中心とした城塞都市化整備を進め、1570年の石山合戦の時には織田信長を攻撃!

1575年、明智光秀と親しい堺の豪商津田宗及が特別に光秀に懇願し今井に対し降伏勧告をもらい、津田宗及が郷民を説き伏せて豪民自ら堀を埋め武装解除をした。光秀は再度の武装蜂起を堅く禁じた。そして、織田信長から赦免される事となる。
大阪本願寺が再蜂起しても、今井は二度と決起しなかった。堀は埋まったままなれど、宗教も、自由な商工業も認められ、諸公事役免許等寺内町の経済的特権も保障されていたようだ。
ここの展示室には↓なんと、称念寺所蔵の複製品ではあるものの ”明智光秀今井郷惣中宛書状” や ”織田信長今井郷惣中宛赦免状” などが展示されている。もっと言うと ”豊臣秀吉 朱印状” や ”徳川家康 禁制” 等々も。達筆だったな~。

大阪と同じ様に検断権(自治権)が与えられ、自治都市として 海の堺、陸の今井 といわれるほど繁栄した今井町は、町の周囲に9つの門が配され、防備は厳重。夜は4つの門のみを開け出入りも厳重に管理し、外部からの侵入者を遮断。

江戸時代には、幕府領となっていて代官はいるものの、町に惣年寄や町年寄らがいてやはり自分たちで町を治めていた。今西、尾崎、上田氏の惣年寄が司法・警察権の一部を握り、町人が 町掟 を定め社会のルールを作って自らを規制。ちなみに司法・警察権を持った町というのは何でもありぃで極刑なども普通に行われていたそうでんな~、なめたらヤバいでんなぁ(`ー´) クククッ
茶道、華道、能楽、琴、書道、和歌、俳諧などの町人文化も盛んだったようだ。泊めた者の責任を明確にするために親類以外の外来者は泊めていけない決まりがあり、今井町内で宿泊する際は都度、町年寄への届出必須。
豪商が軒を連ね ”大和の金は今井に七分” といわれるほど富が集まる町で、1634年には ”今井札” の発行が許可され両替商が発展し大名に金銀を貸したりも。”今井で流通した銀札” や ”借用申銀子之” なども展示されていた。
江戸時代初めには家数千軒、人口4千になるほど繁栄した今井町。ってことで、江戸幕府が重税を課し、それを嫌がり町外に出る者が多くなり、少しずつ衰退を招いていったとはなぁ。堺との連携と交流は幕末まで続いていたという。
↓もしよかったら押してね↓


- 関連記事
-
-
伊勢上野城跡
-
あの杉の真実は。。。。
-
津田宗及の件が好き
-
萌える町の一風景
-
荘厳
-