児童相談所と論破
内海聡著 ”児童相談所の怖い話” を読んで、前々回の”児童相談所と薬” 前回の”日本国の最高権限所持?児童相談所”に引き続く続編である。

しかし不思議なんですよね。警察よりも検察よりも裁判所よりも強権を持つ児童相談所は、「事後に騒動を起こしそうな家庭」(=社会的立場や経済力がある家庭)を避け拉致を続けているらしい。数百万円払い子どもが返却されたケースもあるようですが・・・数百万円って庶民家庭からするとかなりの額だが・・。しかも虐待ではなかったとしても徹底的に妨害し己の否を認めず、人違い以外では児童相談所圧勝!家庭裁判所のお墨付きにより施設入所させることができる、という。だとしたら、予算確保のために枠を増やしたいとか減らしたくないとかの場合は、その辺から適当に弱者家庭の子どもを拉致してくれば済む話のような気がしてきた・・・。
まぁ新しく弱者家庭の子を見つけて子どもを拉致してくるのが面倒くさいと言えば、確かに面倒くさいですよね・・。ってことでもしかしたらそういう理由なのかもしれませんが???
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親のほうが全面的に折れて、もう児相職員の言いなりになって、すべて認めます、すべてゴメンナサイしますと謝ってても、子どもが保護されたままの親というのも結構いるんです。
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まぁそーだろーねぇと思った。だって、この本に書いてありましたから。数百万という金を秘密裏に支払うか、虐待親改善プログラムを終了して契約書に署名押印というプロセスを踏んでいなければ子どもが保護されたままになるって。言いなりになって謝ってるだけだからいけないんですよね。そもそも契約書に署名押印しないのは、児相職員の言いなりになっていませんしね・・・・。
病院もひどいそうだ。病院は、医療過誤とか都合悪いことが起き親が面倒なことを言いだすと、病院側の非を隠ぺいするために、児童相談所に通報して子どもを保護させごまかすケースが多いそうだ。
そして、児童相談所に通報され保護されると子どもが家庭に返ってくることはほぼほぼないらしい。このように子どもを拉致監禁する恐ろしい組織だという児童相談所だが、どうしても疑問に思ってしまうことがある。児相被害者連絡会の代表である松島氏は、教育上、必要な体罰を行うという信条をお持ちの御方で、お尻をバットで叩くというケツバットを子どもに行っていた。アザもできていた。
=引用開始
子どもの権利というものがあるのなら、子どもには体罰を受ける権利があるということになると思います。体罰を含めた教育をもってして、子ども自身が一人前になっていくことを、親なり、国なりが責任をもっていくという考え方からすれば、教育のための1つの懲戒手段として体罰を制限してしまっては困るんだともいえる。学校になんで体罰がないのか、それはおかしいじゃないかともいえる。さらにいえば、学校教育で体罰を禁止していること自体は子どもの体罰を受ける権利を侵害するんじゃないかという論理もありうる
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子どもには体罰を受ける権利がある。
???? 体罰をする側の人間が、子どもには体罰を受ける権利がある、と言うのには?????? となってしまう。あなたには黙秘権がある、とか、あなたには生活保護を受ける権利がある、とか相手が得をする有利になる利益を得ることに関して、あなたには~の権利がある、というのは分かるが・・・・。
つまりこれは、自分がしている体罰が、相手が得をする有利になる利益を得る結果になる、と考えているという事なのだろう。親や学校が絶対に正しいから親や学校の言う通りにし守らない場合は体罰をする。己の考えが絶対に正しい、とぶれずに思えるのはすごいが・・。
確かに、教え諭したり共に考えたりすることもなく、甘やかして好き放題させていたら増長しとんでもないことになってしまう子もいるだろう。故に、しめるところはしめとかないといけないのはわかるが、子どもには体罰を受ける権利がある、というのは?????である。
ただ、闇雲に道路に飛び出していく子どもをとっつかまえて怒鳴りつけるとかお尻をひっぱたいたりする、とかも体罰と言えば体罰だし、遊びたい盛りの子どもを学校に通わせ教育を受けさせるというのも教育自体が洗脳であり体罰ともいえるだろう。
その境目がどこまでが体罰でありどこまでが許されるのかということが曖昧なのが問題なのかもしれないが、
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「許された有形力の行使」のことを「体罰」と言うんですよ。これは進歩を目的とする有形力の行使です。反対に、目的にしているものがまったくない、単なる暴力・暴行脅迫といった「許されない有形力の行使」がある。これはもちろんあってはいけない。
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進歩を目的とする有形力の行使=許された有形力の行使=体罰
なんか格好良い言葉を使っているが、己の言うことを聞かない6歳の子どものお尻をバットで叩く、というのは、言葉で子どもを納得させる能力がないのか、面倒だから手っ取り早くぶっ叩いて恐怖で支配しようとしているのか、いずれにしろ自分は正しい、自分を認めろ、承認しろ、言いなりになれ、という支配欲と承認欲求のようにしか思えてならなかった。
教員の前で教育論をぶちかまし学校長を論破し黙らせた、というのも自分はこんなに凄いんだ、認めて認めて、という承認欲求が極めて強い人物という印象を感じてしまった。子どもを取り戻すため仕事を辞めその問題を追い続けている。子どもに会わせろ、子どもを返せと、子どもは自分の物ではないし、自分とは別の人間なのだが、子どもを児童相談所から奪い返すことが子どもの幸せだと決めつけているように思えるあたりにも所有物という概念が透けて見えるように感じてしまった。6歳の子どものお尻をバットで叩く自分の元に子どもが返ってくることが本当に子どもの幸せなのか、と私が同じ立場だったら考えてしまう。
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たとえば子どもが熱を出して病院に担がれて来たときに、医者が診察しながら、体を親が押さえて無理に子どものノドを開けて診察したら、これは虐待になるのか、と。そしたらグチグチと要領を得ないことを言って質問に答えない。
子どもの立場に立ってイヤなことは虐待と言うなら、その医療行為も全部虐待になる。教育の現場でのそういうふうな有形力の行使もすべて虐待と言うのなら、もう医療行為も虐待にあたります。児虐法には別に「医療行為は除く」とか書いていないから。
通常の問診で聴診器をあてるとかでも、子どもが泣き叫んでも親が羽交い絞めにして、医者がちゃんと診察できるような体勢を取ったら、親と医者が共謀して虐待したということになりかねない。
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こういう風に教育論を教員の前で学校長にぶちかまし、論破したのでしょうが、確かにこれはちょっと黙ってしまいますね。ウームー続くー
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