支配


京都駅から徒歩10分くらいでしょうか。西本願寺の唐門。すっごい豪華ですね~。さすが日暮門と言われるだけの事はある。すごい、凝っている。見た瞬間、ド肝を抜かれるという言葉がピッタリのような気がした。まぁ実は、こういうド派手系のものよりもシンプルで素朴な感じのが好みなんですけれどね(^^;

西本願寺

2年続きの大飢饉で、京の鴨川には餓死者の死体が川の流れをせき止めるほどに打ち捨てられ、一揆で30町四方が焼け野原になるほどの混乱の中、蓮如が布教を始めると、行く先々で民衆たちの支持を集め一大勢力になっていった。”四海の人間みな兄弟”っと、身分や貧富の差や職業の貴賤を否定し誰にでも分け隔てなく接し教えを説く蓮如のお人柄でしょうかね。死後の世界どうたらだとかよりも、今目の前で暴利をむさぼる権力者が、生きることさえままならないほどに民衆をいいように使い搾取する、そんな苦しむ民衆たちを救い出す方が蓮如にとっては大事だったのだろう。

暴力や強制や圧力や脅しで人を従わせる人もいますが、蓮如のような自然に人が集まってくる指導者が理想ですが、キリスト然りそういう人は一大勢力になったころ排斥されその後、強暴で賢い支配者に利用されるのが世の常のような気がする。イエスキリストなんて未だに利用され続けているし。とことん良い人で賢いというだけではなく、ありえないほどの残虐さなどの狂気や、陰謀策略裏切り捏造など平然とできる利己主義、ぶっ飛んだ異常性などを内包していないと支配者として君臨することは出来ないようだ。気のせいだといいのだが。。。。


蓮如の教えを聞き門徒が団結。自尊感情を高め疑問を持つようになりあまりにも賢くなってしまったせいでしょうか、農民を主体とする門徒たちは蓮如の一揆制止の声すら聞かずに一向一揆をおこし、傍若無人でやりたい放題で苛酷な重税を課し富のほとんどを奪い取り贅沢をし武力で民衆を圧迫せんとする戦国大名をぶっ潰していく。



”加賀国は百姓と坊主の持ちたる国” といわれる一向宗徒の自治政治地区になり、その自治国はなんと100年間も続いた。金やらなにやらを搾取する荘園領主もいなくなり、農民や漁民や手工業者たちは仕事にも精を出せるし、生活が豊かになるし、その豊かになった余財を本願寺へ寄付する、という形で皆で潤っていったんですね。本来は、これが理想的な国の形なんだろうなぁ。

西本願寺



30年近く布教をし75歳になった蓮如は、息子の実如にあとを譲り、自身は1496年に今の大阪城のある地に石山本願寺を建てた。しかし、実如のあとを継いだ証如の代である1536年におこった法華の乱で山科本願寺は、疑心暗鬼になった裏切り者の策士である細川晴元の命で焼かれてしまい証如は石山本願寺にうつり、石山本願寺が一向宗の本拠地となる。


石山本願寺と側坊を中心にし、工業生産は増大し商業は栄え人々は潤い、その経済力、富の増大はそのまま石山本願寺の繁栄につながった。側坊寺院の周囲には道場があり、それはそのまま砦の役割を果たしていた。強力な求心力で人々をひきつけ、自由闊達な民衆たちが潤う事でその財を自ら寄付し共に繁栄していく、そんな姿が気に入らなかったんでしょうかねぇ。

信長は室町幕府再興を理由に本願寺派の寺院に御金を要求してきたので顕如(証如の子)は、5千貫を支払った。5千貫を今のお金にすると5億円から7億5千万円になるそうですが、それでも2億5千万の開きはデカい、2億5千万ほしい~♪ その後も、信長は寺の明渡しを要求してきたり無理難題を吹っ掛け難癖をつけてきたり等してきた。信長が堺の町衆に矢銭を要求し、堺町衆が断ったのを機に、ついに顕如も信長にブチ切れ全面対決となり、10年間にもわたる石山本願寺の戦いに突入していく。



さて、信長陣営は一体、どんな戦い方をしたのだろう。一例をあげると、加賀越前で捕らえた一向一揆の残党は12,250人以上いたのだが全てぶち殺し、さらに逃げ隠れた者を生け捕りにしその3万から4万人もの人を奴隷として尾張や美濃に連行、味方をしたと思われる寺院なども焼討し、其の地に住む一向宗徒をほぼほぼ全滅させた。

また、長島の戦いでは、どうしようもなくなり降伏を申し出た一向衆徒と信長は講和締結。だが、武器を捨て長島から退去する一向衆徒を不意討ちで皆殺しにした。それだけではなく、長島に残っていた老人や女子供ら2万人あまりも全員ぶち殺した。

他にも甲山に隠れていた老人や女子供らを発見すると、それらを惨殺し皆殺しを楽しんだ。また堂塔や伽藍までをも全てを焼き尽くし僧侶も斬殺し、甲山から30数キロ以上も離れた須磨・一の谷の地までをも全て焼き払ったという。


他にも、上月城攻めでは、お城周辺にいた女性をとっ捕まえて磔刑にし、幼子は槍で串刺しにして楽しんだ。見るに見かねた城兵が城主を斬首し、その首を差し出し助命を願った。が、城兵を生け捕りにし磔にして皆殺し。石川の牛首でも300数人を磔刑にしたりなどなど。


城主荒木村重は自分だけ逃亡したのではない!という説もあるようだが、城主が逃亡した在岡城では、お城に残された女子供122人が磔刑となった。また城兵の妻子388人、女中若党120人を4軒の民家に押し込め周囲に干草を積み上げて、生きたまま火を放ち焼き殺した。それを楽しそうに眺めていたという。また、城主の妻はじめ女子供36人を京都六条河原に連れて行き見世物にしたうえで斬首した。一向宗徒を徹底的に皆殺しにしていく織田軍の凄まじと執念にはやり過ぎ感が否めない。




食糧も尽き、顕如は、信長の使者と講和し、石山本願寺開城の調印をし、次男顕尊や三男准如らと共に紀州鷺ノ森御坊に行った。が、徹底抗戦を叫ぶ教如(顕如の嫡子) と一部の抗戦派は石山本願寺にそのまま残ったが結局翌年には無条件降伏し、教如ら一行は紀州雑賀に向かい、石山本願寺には火が放たれた。紀州でおちあった顕如と教如父子は和解したという。


西本願寺

賤ケ獄の戦後、秀吉は、石山本願寺があった場所に、大阪城を築く。顕如は使者を大阪城に挨拶に行かせたのだが、秀吉はその使者に大阪城を自ら案内してまわったという。もともとは自分たちの石山本願寺があった地ですからねぇ、なんともいえない微妙な複雑な気持ちだったことだろう。


1592年7月、秀吉は、顕如に京都烏丸六条の寺域を寄進して本願寺の再興を許した。本願寺(今では西本願寺) を再興した4ヵ月後、顕如は脳溢血で他界。それで、秀吉は、顕如の嫡子である教如を本願寺法主12代目に任命した。が、翌年、

顕如の三男准如の生母が、遺書をたてにとり大奮闘。それにより、1593年、秀吉は教如をやめさせ准如を本願寺法主に任命した。なんでもその遺書は捏造品だったとも言われているのだが、顕如の3人の息子は全員、如春尼が生んでいるので、一夫多妻の面倒くさいゴタゴタってわけでもないですし、相性ですかねぇ?如春尼は准如が一番可愛かったのでしょうかねぇ???長男をぶっとばすほど???んん~、よ~わからんなぁ。

秀吉の策略工作ですかねぇ??? 秀吉は、本願寺を大切にし手懐けながら、一方では、刀狩りをして一向一揆をできないようにし、太閤検地、荒田対策令、兵農分離、全国戸口調査などなどを行った。荒田開墾をする人には、夫役や年貢を半分にしたという。



お母さんに引き立てられ本願寺法主になれた准如はいいですがねぇ、実母と弟にその座を奪われ追い出された教如は寂しく北陸に行ったという。だが、石山本願寺でも徹底抗戦を貫こうとしたような性格ですからねぇ。。。そんな教如は、関ケ原の戦いが始まると陣中見舞いに出向き家康に接近。

1602年、家康は京都烏丸六条に本願寺別院を建てて教如に与えた。これ↓がその東本願寺だ。東本願寺と西本願寺はまさにお隣さんといった地にあり、歩いても徒歩10分とかそんなもん。

東本願寺



散々自分たちを苦しめた思い通りにならない一大勢力一向宗を、本願寺を、東と西に分裂することによって、一向一揆勢力を2つに分裂させ反目させることで、家康は反抗の目を潰し、権力の安泰化をはかった。本流とも言える後継者の准如を初代門跡とする西本願寺。そして、教如はじめ東本願寺は、徳川幕府肝いりの御用寺院として発足した。

さらに、比叡山延暦寺に対し関東天台宗本山川越喜多院、浄土宗京都知恩院に対し関東総本山増上寺、曹洞宗本山越前永平寺に対し関東総本山総持寺というように本山を分立させたりもした。

寺院法度によってお寺の関係を明確化し、寺請制度で強制的に民衆を檀家制度に入れ、寺請証文によって寺院は村民の一人一人を把握し、各戸の家族の登録を記帳し、それを庄屋が連帯保証人となり宗門人別帳を作製し、領主に報告させた。民衆と一体となって権力者にはむかうのではなく、権力者の思い通りの手先となって動き民衆を支配管理する側になった。


さらに、江戸幕府は、親鸞から8代後に登場し一向一揆を起こし100年に渡る自治地区を築き上げた蓮如がよほど恐ろしかったのだろう。その宗祖である親鸞をおそれ、親鸞の浄瑠璃の上演をはじめ親鸞の本などの発行すら禁止した。家康自身、一向宗徒には何度か死地に追い込まれた過去がある。

東本願寺


三河にて、信長と軍事同盟を結んだ頃、農民から苛酷な年貢取り立てや段銭(臨時税)徴収を始めた家康。だが、一向衆徒が多い三河の農民たちは反抗し支払わなかった。強靭で徹底抗戦をする一向宗徒にかなり手を焼き、おまけに己の家臣にまで一向宗徒がいたものだから家康はかなり手を焼いた。家康は一向宗徒と講和し、一向宗徒が武装解除し軍事組織を解体した。すると、家康は、松平の菩提寺である浄土宗への転宗を強要。言うことを聞かない場合は寺院などをことごとく破却し、それでもいうことを聞かなかったため、三河から追い出して一向宗徒を三河の地から壊滅させた過去がある。

また、本能寺の変後、堺にいた家康は堺周辺の一向宗徒に襲撃され命からがら伊賀越えで三河に帰った過去もある。一向宗徒に苦しめられた過去がある故に、その力が恐ろしく、徹底的につぶしにかかったのだろう。

東本願寺


やはり、信じられないような残虐な事もできる、そして物凄い策士で頭が良い、正々堂々だとか裏切りだとかそんなのものともせず騙し討ちだってお手の物、己に利するかただそれだけに焦点を当て考えられるような者が世を支配し生き残るとしか思えない。


嘗て、GHQが日本に施したウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム。要は愚民化政策ですが、これを日本で最初に行ったのは、GHQではなく、徳川家康だろうと私は思っている。

農民などの民衆たちに知識・知恵・勇気そして自尊感情などなどを与え賢民化??を行った蓮如によって、民衆は泣き寝入りをしたり諦めたりすることなく、徹底抗戦を挑んできた。それに対し、世を支配せんとする強権者は、素直に言う事を聞かない厄介な民衆は徹底的に皆殺しにする必要がでてきた。ただし教祖を殺すとマジでブチ切れると困るから生き残らせておいた。そして、利用した。


知というのは積み重ねである。江戸末期、日本に来た外国人は農民から女性子どもまでもが読み書きができる日本人を見て非常に驚いたと言われている。当時の日本の教育水準は世界一だった。だからこそ明治維新後、急速に近代化を図り植民地にせんとする欧米列強に果敢に立ち向かい徹底抗戦をした。しかし、家康が江戸幕府擁立初期に愚民化政策を行わなけば、日本人はもっと賢くなっていたのではないだろうか。まぁ本音では、260年間もの泰平の世を築くにはそうするしかなかったとも思いますが。。。。



やはり支配者側としては、民衆は大人しくて素直で信じやすく物を考えない良い子ちゃんであるほうが都合が良い、ちゅうことだ。だからバカ政策が必要なのだ。日本は未だに愚民化政策をしそれは大成功をおさめている⁽⁽٩(◍˃ᗜ˂◍)۶⁾⁾ 民衆バカ政策の証拠↓をあげておきますw

比較表 学校と刑務所

余談ですが、見た感じは東本願寺の方が見ていて落ち着く。門をくぐると右手に大きなお土産屋さんがあって心惹かれるものも売っていて楽しい。真っ金金の煌びやかなゴールド一色のクリアファイルがなぜか一番印象的だった。

最期に、”【替え歌】増税してごめん/可愛くてごめん feat.岸田文雄” 面白いので載せておくw


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