備中聖人
古い井戸が残されていた。この施設一帯をぐるっと取り囲むように設けられている765メートルの石塀は、重要文化財。上部に出ているのと同じ高さ分が地下に埋まっているというしっかりした造り。上に乗って歩いて楽しむのにも最適♪ だったように思う。
ここは、1670年、備前岡山藩主池田光政が、庶民のために作った日本国初の学校。江戸時代は8割以上が農民だったが、その農民の子どもたちが閑谷学校で学ぶことが出来た。庶民のために藩主自ら学校をつくる。ここ閑谷学校に入学するのは庶民の子どもがほとんどだったが、中には武士の子どもや、はたまた他藩の子どもも入学している。

講堂、聖堂、飲室、學房(寄宿舎)、文庫(図書館)を持ち、この閑谷学校は藩校を上回るほどの規模の立派な学校であったという。熊本藩士で儒学者の横井小楠が閑谷学校を見て、「これほど壮麗な学校は幕府の湯島聖堂の他にはない!」 と感嘆したほど。
明治維新後に學房、習字所、教官宿舎が撤去され、1870年(明治3年)9月に閉鎖されるまで庶民のための教育は続いた。
庶民のための学校を日本で初めて開いた池田光政。彼は、日本での陽明学の始祖中江藤樹の弟子である熊沢蕃山と親しくしていた。また、閑谷学校では陽明学が講義されていた。熊沢蕃山と親しくしているとの事で、藩主池田光政は江戸幕府からにらまれてしまう。その後は閑谷学校でも江戸幕府が官学と認定した朱子学ばかりが講じられるようになった。江戸幕府は、いつ己に牙をむいてくるかもしれない陽明学を謀反の学とし忌嫌っていたんですねー。
手前が、ここ閑谷学校現存建物の中で最も古く重要文化財に指定されている小斎で、藩主が来られた時に使ったとされる御成の間。隣に見えるのが、国宝である講堂。

備中松山城とか高梁駅でもそうでしたが、ここ閑谷学校でも ”山田方谷を大河ドラマに!” といった旗が沢山あげられていた。地元の方が仰るに、「人物としては申し分ないのだけれど、大河ドラマとなるといろいろ難しい基準があるようでなかなか・・・」 とのことだった。きらきら光る湖面のようなあまりにも美しい心をお持ちの方々だ、と思った。えっーと、私が思うに、
山田方谷を大々的に広めてしまったら・・・・経済的にもどんどん落ちぶれていく一方の今の日本の政治に今以上をはるかに超える確信的な疑問を国民が持つようになってしまったら大変。華々しく表舞台に出ているもののハニトラやマネトラで籠絡され骨抜きにされた政治家たち、ギリギリの選択の中で少しでも日本の為に尽くすにも思うようにいかない極少数の政治家たち、学力社会で勝ち抜いたお勉強のできた官僚さんたち。その方々に任せていても一向に落ちぶれていくばかりの日本。それよりも、実は日本経済に奇跡を起こすような天才的能力をもつ人材が埋もれているかもしれないのでは!? 指導層の選び方に問題があるのでは!? と疲弊する国民たちに思われてしまっては大変。
って事で、「山田方谷を大河ドラマに出したらNHK受信料の強制徴収できないように法律変えちゃうぞ!」 みたいな~脅しをかけたり、な~んてね、思ってみたりぃ。クククク だってぇ、NHKが映らないテレビですら受信契約締結義務があると最高裁で判決がでてるほどNHKは守られた存在ですしねぇ。今の政府に連なる明治新政府からの度重なる誘いを頑として断り続けた山田方谷に対する恨みやプライドも現政権側にあるのかもしれませんねぇ。
いやいや、あくまでも私個人の脳内妄想ですので怒らんといて~。って、事で、やっぱ大河ドラマに起用しないNHKが悪いんか?
まっ、日本人が自信と誇りと国を護る気概を持ってしまい、今のメディアの在り方に疑問を持ち自分らが追い込まれてしまったりしたら大変!って事で山田方谷という偉人を隠しているのかもしれません。って、なんで大河ドラマに起用されないだけでここまで言われるん???って感じだ。あっ、言ってんの私か。ウーム

山田方谷は、地元の方々に大人気なんですね。”方谷” の名がついた施設や林や橋などもあるし、極めつけは駅名に人名をつけるのを禁止されていたのにも関わらず、地元の人たちが知恵を絞りあの手この手で諦めないで交渉し続け、ついに”方谷駅” という駅名にすることに成功したりしている。
方谷の藩政改革により、餓死することや娘を売り飛ばす必要がなくなった百姓たちは、方谷が道を通ると自ら自然に土下座をし感謝をささげたという。方谷の生祠があちこちに建てられた。人に慕われるというのは本来はこのように自然発生的になるものであり、偉そうに「御成り~御成り~」 等と言って土下座しない奴はぶった切るとかで服従させたり、信仰しない奴は牢にぶち込んだり集団リンチみたいな事などをしたり、毎日写真を拝ませたりして無理に従わせるものではないと思うんですよねぇ。で、
他藩の百姓たちは松山藩に生まれなかった己の不運を嘆いたという。当時は、山田方谷の名は彼の手腕と共に日本全国に知れ渡っていた。江戸幕府側の人間であり敵であった山田方谷に対し、明治新政府の大久保利通、木戸孝允、岩倉具視などの面々は、何度も何度も執拗に、方谷に明治新政府に入り大蔵大臣になるよう頼みこんでいる。
不思議な事に財政改革とか藩政改革というと、上杉鷹山が有名なように思う。1767年に上杉鷹山が改革に着手する時、15万石の米沢藩には 20万両(1,200億円) の借金があり、更にそれの利子の支払いもあった。20万両(1,200億円) の借金を全て返済し、5,000両(30億円) の余剰金が出来たのは、改革着手から100年後で、明治時代になる1年前の1867年。
1833年から1839年にかけておこった天保の大飢饉で、米沢藩は餓死者を一人も出さなかったし、私は上杉鷹山の人となりも好きだ。が、借金を全て返し終えるまでに改革着手から100年経っており、財政改革で有名な上杉鷹山はとっくに他界していたのが現実だ。

一方、山田方谷はどうだっただろうか。
松山藩は、抜群の手腕を持つ水谷家が御家断絶となり城の明け渡しを行った際に、江戸幕府に山林を田畑として計上する等の杜撰な検地をされ実質2万石もない石高を5万石と計上されてしまった。1849年に山田方谷が新藩主の板倉勝静に請われ元締兼吟味役に就任した際、松山藩には10万両(約600億円)の借金があり、天災や飢饉など何もない通常の年でも利子だけで毎年9千両づつ増えていくというありさまで東海道の駕籠かき職人たちにも「貧乏板倉」 と嘲笑されるほど貧しかった。
そんな松山藩を山田方谷は、就任後わずか8年後の1857年には、全借金を返済し終え、更に10万両(約600億円)の余剰金までつくった。
どうだろうか。財政改革で有名な上杉鷹山の改革は20万両(1,200億円)の借金返済をし5,000両(30億円) の余剰金を貯えるまでに100年かかり、山田方谷は10万両(約600億円)の借金返済をし10万両(約600億円)の余剰金を貯えるまでにわずか8年しかかかっていない。山田方谷の方が断然にすっげーーー!! って思うのだが、まるで誰かが山田方谷の存在をバレない様にひた隠しにしているかのように 今の日本国では彼の知名度はあまり高くないように感じる。

そんな方谷は、財税改革のみならず庶民教育にも力を注ぎ、藩内に教諭所や学問所や寺小屋や家塾を75カ所も作り、優秀な生徒は武士身分に登用し、役人に登用した。
落ちぶれた農民の子として生まれたのに方谷(安五郎)は誠実さと賢さが評判で藩主に目をかけられ21歳で藩校で学べるようになり苗字帯刀を許され京都、江戸で学問研鑽をし、藩主に重用されている。そんな方谷は、既存の家臣たちから嫌われるだけでなく暗殺計画なども公然と囁かれていたが、護衛をつけず一人で堂々と行動した。己の俸禄を中級武士程度にとどめ、そのすべてを第三者の藩士塩田仁兵衛に預け家計の収支を全て公開している。
また、自ら津山藩や庭瀬藩に出向き、新西洋式砲術と銃陣を習い、帰藩すると二砲を製造。藩士たちは農民出の彼に武を指導されるのにプライドが許さない。そこで農民たちに銃と剣を教え農兵部隊である里正隊を結成。1855年には水軍の打砲を玉島沖で演習し、松山城下に水泳場をもうけ60歳以下の藩士全員に神伝流の水泳術の訓練を義務付けた。ちなみに奇兵隊はこの里正隊をパクったものだ。
幕末、征討軍は、近代的兵器で武装し、厳しい洋式訓練がほどこされた百姓軍隊ー方谷が15年かけて育て上げた日本最強軍である里正隊を恐れ、松山藩に手を出すことを躊躇した。
こちら↓は、學房跡に明治38年建設された私立中学閑谷黌本館。今は資料館となっている。先ほどの講堂にも注意書きがあったが、”地震発生の際は、すぐに建物から離れて下さい。” と。とは言え急激な大地震が来たら逃げるの無理ゲーじゃね、逃げる前に・・・と思いながら見学した。

征討軍に囲まれた藩主代行の山田方谷は1868年、備中松山城を明け渡し藩民たちの命を救った。彼は自分一人が切腹するつもりだったのだが、神の如くに藩民たちに慕われていたため死なしちまったらヤベェだろって事で、敵にとめられたのだった。方谷はその後、私塾を開くと入門者が殺到、明治新政府からの誘いを断り続けながら子弟教育に力を注いだ。
旧備前岡山藩士たちや旧備前岡山藩主池田慶政も山田方谷を岡山県(旧備前岡山藩)に招き入れたく説得を続けた。閑谷学校を再興するなら閑谷学校の教壇に立ってもいいよ、との方谷の一言で、池田慶政は2千両(2億円) のお金を出し、閉校されていた閑谷学校を再建。明治6年3月、69歳の山田方谷は閑谷学校で陽明学を教え始めた。1876年(明治9年)秋に方谷は閑谷学校での講義を終了し、1877年(明治10年)6月に73歳で他界した。

両親が立て続けに亡くなり、遺された弟と義母(父親の再婚相手、結婚して間もなく父親死亡)を養い家業を継ぐため5歳から入っていた塾をやめ14歳で家業に専念したり、安政の大獄で禁固刑となった京都遊学時の同門春日潜庵を救い出したり、徹底抗戦の構えで函館まで行った藩主勝静を手をまわして救ったのも方谷だった。娘小雪への愛情深さもひとしおだった。山田方谷の存在はもっと世に知れ渡ってよいと思う。住み慣れた地域に戻り周囲数人に聞いてみたが、やはり、山田方谷の名を知っている人はいなかった。
”山田方谷を大河ドラマに!” ヽ(≧∀≦)ノ
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