金志虎著【當麻寺の歴史と信仰】


とある御方に教えてもらい手に取った一冊。金志虎著【當麻寺の歴史と信仰

當麻寺こんな素晴らしい本があるのか!と思う非常な良書だった。著者の金志虎氏は、韓国の御方で、日本の大学と大学院を出ておられる。當麻寺にご興味をもたれ自ら當麻寺を修士論文の課題とし研究された御方。東京から奈良県までこられ當麻寺にも足を運んでおられる。

以下、金志虎著【當麻寺の歴史と信仰】で特に感心した箇所を数個書き留めておく。


當麻寺創立を伝える最古の資料は『建久御巡礼記』(1191年)。當麻寺に伝わる伝世品や出土品から判定すると、當麻寺創建は7世紀後半創建が妥当。面白かったのが、

==引用開始
鎌倉時代初期には役行者の後胤によって役行者に関わる土地の回復運動が行われていた。
==引用終了

それで、役行者の本拠地である葛城山系に建つ當麻寺は土地訴訟に巻き込まれる可能性が極めて高かったんですね。

鎌倉時代初期には當麻寺は、興福寺の末寺となっていたので興福寺の実叡が、訴訟リスクを封じるために『建久御巡礼記』に、役行者にこの土地を譲ってもらった♪と作文したのではないかと。なるほど。



で、當麻寺金堂の弥勒仏坐像は今まで

==引用開始
その造形上の特徴ある表現から日本に類似が存在しないとみなされ、その源流についてはもっぱら中国や韓国の作例との比較によってもとめられてきた。そのため、日本彫刻史におけるこの弥勒仏坐像の研究は、日本よりは中国や韓国との関係が重要視されてきた。ところが、当麻寺の弥勒仏坐像は中国や韓国の石仏より遥かに進んだ様式がみられるだけでなく、材質や造形表現においても共通点はおろか相違点がより多く見受けられる。
==引用終了


と書かれている。韓国の学者さんにも史実に忠実な論を展開される『反日種族主義』の御著者李栄薫氏をはじめとする方々がおられますが、金志虎氏もそのお一人だろう。當麻寺金堂の弥勒仏坐像もやっぱり韓国が起源だった! とか言わずに、”中国や韓国の石仏より遥かに進んだ様式” だとか ”材質や造形表現においても共通点はおろか相違点がより多く見受けられる。” などと真剣に當麻寺金堂の弥勒仏坐像を研究していることがわかる。【當麻寺の歴史と信仰】の後書きでも、金志虎氏が謙虚で真面目で感謝の心を持つ好青年であることが読み取れる。


==引用開始
当麻寺本尊と韓国や中国の作例との共通点は認められず、660年代に造営が始まる日本の勅願寺第二号の川原寺に丈六塑像が安置されていたことから、日本国外との影響関係よりも日本国内との関係を重視すべきである。
==引用終了



と記述され、日本の勅願時第一号は百済大寺で本尊は乾漆の大六仏。勅願寺第二号である川原寺では出土から最新の初唐様式の丈六塑像がつくられていたことがわかっている。



==引用開始
葛城地域では、当麻寺をはじめ約10カ所の古代寺院が7世紀後半に造営されたことが確認でき、互いに類似する㙛仏が出土している。とくに二光寺廃寺からは丈六塑像の螺髪が出土しており、

(略)

大和の葛城地域でも、当麻寺本尊のような丈六仏が造られていた可能性がある。おそらく、川原寺で最新の初唐様式の丈六塑像が制作された後、㙛仏や瓦とともにその造形様式が川原寺の周囲へ波及し、塑像という安価で入手しやすい材料であったことも相俟って川原寺様式ともいうべき塑像が周辺からさらに地方へと造られたのであろう。
==引用終了

瓦の出土状況や文献記録から見ても7世紀後半には、多くの地方寺院に勅願寺川原寺のデザインが波及していたようだ。



あと、面白かったのが、

==引用開始
太子関係の伝承は太子時代の伝世品と出土品がないことからも信憑性が乏しい。おそらく当麻寺では、鎌倉時代に入ってからもますます隆行する太子信仰に乗りおくれないように当麻寺の創立を麻呂子親王の兄である太子と結び付けようとの意図で、太子関係の伝承を当麻寺の創立縁起に加えたのだろう。
==引用終了


聖徳太子関連のグッズがなかったことから、當麻寺出身の法隆寺の僧侶が太子廟に盗掘に入り流罪にされた事件などもあり、



==引用開始
当麻寺は太子信仰を利用しようとした意図があったようだが、当麻寺からは四天王寺や法隆寺のような太子関連の縁起が欠けるなど太子信仰の寺院として発展する要素がなかったため、これ以上発展することはなかったのである。
==引用終了


そこで登場したのが中将姫。なんとなく好きになれなかった中将姫の謎もこの本を読んだらやっぱりなっと確信に変わりましたわ。


==引用開始
綴織当麻曼荼羅図については中国の盛唐期に制作されたものが遣唐使によって請来されたという中国請来説が有力である。綴織当麻曼荼羅図のような高度の技術を要する図柄を織る者は絶無であり、後世に及ぶ技術的伝統が江戸時代までみられないこと、文様の様式が754年に遣唐使の帰国の際にもたらされた正倉院の錦文と一致していること、中国では初唐から盛唐にかけて綴織が新しい技法として制作されていたこと、そして、綴織当麻曼荼羅図の文様の年代観は盛唐期に相応しいので、原図から織るまでの時間と請来するまでの時間を考慮すると日本に伝わった時期としては平安時代初期が考えられるという。また、当麻寺では綴織当麻曼荼羅図を安置するために曼荼羅堂の第二次前身堂が改修された時期とも合致することを挙げて綴織当麻曼荼羅図の制作地が中国であることを述べている。
==引用終了


なんだよ、当麻寺ですら ”綴織当麻曼荼羅図の制作地が中国” なんて言ってたんかい。騙しとかないとダメやんけ。


==引用開始
興福寺も南都焼討では甚大な被害を受けており、その復興を進めていた時期である。興福寺の援助を待つよりも当麻寺自ら復興財源を求めようとする打開策に関する提案が僧侶たちによって積極的にだされたのだろう。当麻寺の僧侶たちはこの復興事業に対する財源を求める方策として、当麻曼荼羅を積極的に利用したと考えられる。
==引用終了


当時の僧侶たちの生き残りをかけた復興活動だったんだなと。

すっごいさらっとだけ金志虎著【當麻寺の歴史と信仰】について書いてみたが、非常な良書。

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