島原物語


京都市下京区西新屋敷(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)このあたりってちゃんとした地名で呼んでも京都の人はどこだかわからないそうなんですよねぇ。。。一方、”島原”っていうと皆即わかるとか。

私は島原って聞くと、島原の乱のイメージがあって長崎とかあちらの方を思い浮かべてしまって。吉原と島原って昔の花街で有名ですが、花街の島原も九州の方にあるんだとず~っと思っていた。まさか京都だったとは! 丹波口駅付近に用事があって、帰りついでに散策して、生まれて初めて気づいたという。

島原

京都には嘗て六花街(島原、上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町) があって京文化の一翼として賑わってきて、島原は京都で唯一の、そして日本初の幕府公認の花街だったんですねぇ。今ではその島原が花街から撤退し、確かにここ島原を歩いても普通の人家のところどころに歴史を感じるこういった石碑などが残っているだけで花街って感じではないですねぇ。

これ↑は、島原歌舞練場の石碑ですが、1673年(明治6年)に設立された芸娼妓に刺繍や裁縫などを教えていた島原女紅場と言われていたところで、遊里を離れても仕事をし生きていくことが出来るようにとの教育・勧業施設だったんだとか。使い捨てとしてではなく遊女のその後の人生を考え教育を施してくれた人もいたんだなぁっと地獄の中でみる情けみたいに感じる。ここには1927年(昭和2年)に新築移転され劇場施設となったそうですが、1996年(平成8年)に解体されたそう。平成8年まで存して使われていたというのにもちょっとビックリした。


島原

輪違屋という説明看板が立っていて、大夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で元禄年間(1688~1704)創業、と書かれている。安政4年(1857)に再建され、その後増改築がなされ明治4年(1871)に現代の姿となったとの事。入り口は固く門が閉ざされていて、小さな木札には ”観覧謝絶” と書かれている。

看板によると、1階南半分が居室であとは客室だったんですね。酷いなぁって思うのが ”その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。” などと説明されているのですが、せめてすすけた写真でもいいから載せておいてくれよ~って感じだ。教えるだけ教えて実物を見せないとは、まるで生殺しですわーーー。



これ↓が島原大門で、島原の東入口にあたる大門。

豊臣秀吉の花街公許により、二条柳馬場、御所の近くで商売していたそうですが、貴族の中の貴族といわれる五摂家の別邸地などもある地区で場にそぐわないということで移転。東本願寺北側の六条三筋町に240メートル四方の傾城町ができそこに移り40年商売したが、町が賑わいすぎてゴチャゴチャになり、「この場所悪いから引っ越せ」 と言われて、1641年にこの地にバタバタと引っ越ししてきたとの事。

島原

そのバタバタの引っ越し騒動のちょうど4年前に天草四郎率いる島原の乱があり、3代将軍家光の時に7万人の戦死者が出ている大きな乱だったんですねぇ、その島原の乱の幕府側の第1回目の総大将が京都所司代板倉重宗の弟板倉重昌で戦死している。

そこから京の町の人たちがバタバタの引っ越しを 「まるで島原やなぁ」 と言い、未だにそれが残り、京都市下京区西新屋敷揚屋町と聞いても京都の人はわからず 「どこそれ??」 って聞かれるんだとか。島原っていうとわかるとか(^^; マジかいなぁ??w


島原


実は、2年ほど前に奈良県大和郡山市の遊郭の跡地である町家物語館(旧川本家住宅)を訪問してもうその鉄格子とか、遊女の人は銭湯に行くのにも逃げない様に監視付きだとか聞いて身の縮む思いがして、監禁され性奴隷となっていた彼女たちの名前の残る食器棚を見た時はもう居た堪れない気持ちになった。その後、一週間は涙がとまらず人目を忍んでずっと泣いていた。その経験があるので今はもう免疫ができたのでこういうところにきても大丈夫だと自信がある! ちなみにその記事はこれ↓

遊郭1~鉄格子~
遊郭2~囚人
遊郭3~種族

その大和郡山の遊郭の続編なんですが後で地元の人に聞いたところ、ヤクザが運営していたんですね。そうですよねぇ、普通の人にはなかなかし難い商売でしょうし、まして商品である女の子を守る必要もありますからねぇ。で、とにかくそれで免疫がついたんで今はもう大丈夫。遊郭が実際に営まれていたところなんて実際に見るのあのとき初めてだったんですよね。。。



これ↓は、長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋 と石碑が立っています。ここが角屋さんですね。1641年の島原開設当初から続いている揚屋(今でいう料亭で、江戸期京都では民間最大規模の宴会場)。ちなみに揚屋は江戸の吉原にはなく、ここ京都島原と大阪新町にのみあったそうです。揚屋には、置屋から太夫(傾城の最高位)や芸妓を呼び、遊宴をするところとの事。遊宴ーーーー??っていうと変なイメージがあるのですが、遊宴のみならず和歌、俳句の文芸の席やお茶の席があって文化サロンとしての役割を果たしていたんだそうです。だから吉原の牢屋のような格子造りではありません、と説明されています。

島原


ではその江戸吉原にはなかった、京都島原と大阪新町にしかなかった太夫や芸妓を呼んで遊宴をしたり、文化サロンとして使わていたという角屋に入ってみましょう。重要文化財なので夏と冬は開けられず、春と秋の2回だけ見学可だそうですが、それでも昨今は新コロちゃんの威力によって人数制限をしているんですと。

島原

新選組刀傷の角屋 という不穏な石碑がたっていますが。。。。新選組はここで宴会を開いたりしていたんですねぇ、あとは隊士が勤王派を探しに来たりしたそうですが、乱闘などはここでは起こっていず人の血は流れていないそう。料亭だったのでお魚さんとかの血は流れたでしょうが。。。

ちょっと疲れたので少し休んでから続き書きます。

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