伝説の地~頭塔~
狭い道の住宅街の中にひっそりと存する奈良県奈良市の史跡 ”頭塔” お釈迦様の骨、舎利を納めるためにつくられた、と言われているが、しかし、お釈迦さま、ご自分の遺骨や遺灰をばらばらにされあちらこちらに納めらるってどんなお気持ちなんだろう。まぁ、お釈迦様レベルになるとそんなのお気になさらないのかもしれませんが。
思わず素通りして通り過ぎてしまいそうなところに小さな門があって300円を払って入ることが出来る。今はキャンペーン中?(笑) だそうで、ファイルもらえちゃった(^^♪

階段をのぼって上に行くと無料でおじい様ガイドさんがおられるんですよ~。奈良市は、以前寄ってみた ならまち格子の家でも、無料でおばあ様ガイドさんがおられたし、しかも外国人の方には英語で説明していたしなかなかに優秀ですね。90歳や100歳越えの御方が大学卒業したりもしていますし、幾つになっても学ぶことをやめない限り、人は成長し続けますよね~。人間って凄~い☆
ここは5~6世紀頃は、このあたりを治めていた春日氏という豪族さん一族のお墓、春日山古墳だったのですが、奈良時代760年に東大寺の僧である実忠さんが、東大寺別当の良弁さんに命じられて、その春日山古墳の上に三重の、そして更にその上に七重の土塔(土で作った塔)をつくり767年に完成した、と東大寺要録などに記述してある。

ここ頭塔には、伝説があるんですよねぇ。奈良時代に東大寺にいた玄昉さんというお坊さんが、政治の世界に入り込んでしまいすぎたために恨みをかい不運の死を遂げるんですが・・・・717~735年まで18年間、唐に留学をして勉強した玄昉さんは、かなり優秀な御方だったようで当時の皇帝玄宗に才能を認められ目をかけられていたもよう。経論5千巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国した後、藤原宮子(聖武天皇の母)の病気を呪法祈祷により回復させ、また聖武天皇からの信頼も篤く、天然痘で死亡した藤原4兄弟に代わって勢力をつけてきた橘諸兄政権に吉備真備と共に登用され腕をふるいます。
それが面白くない九州に追いやられていた藤原広嗣(藤原不比等の孫)は、玄昉と吉備真備を政権からおろすよう働きかけ、それにより九州に討伐軍を送った橘諸兄らの軍に捕まり藤原広嗣は処刑されてしまいます。
↓頭塔からの眺め、さぁっーっと奈良一帯が見渡せます。↓

その後、力をつけてきた藤原仲麻呂(藤原不比等の孫)によって、玄昉は大宰府に流され746年に暗殺されてしまう。玄昉死後、空から手が出てきて玄昉の遺体を連れ去り、玄昉の遺体をバラバラに引きちぎり頭を放り投げられ、玄昉の頭が落ちた場所がここ頭塔だったという話がまことしやかに伝えられている。
まぁ、以上は伝説で実際は、土塔がなまって頭塔となったのではと言われているそうですが、伝説って案外バカにできませんよね。ちなみに、留学前、岡寺の義淵僧正のもとで学んでいた玄昉は、行基や、良弁などとともに七上足と言われる非常に優秀な教え子の一人だったそうです。頭塔をつくるよう実忠に命じた良弁と玄昉は同窓生なんですね~。
土塔がつくられた当時はこの7段の土塔の上に小さな社があってその上に相輪が空高くそびえたっていたもよう。ここはこのように高台にあり、ちょうど平城京から見ると、ランドマークだったと言われている。東大寺からここは900メートル離れた地にあるのですが、東大寺がこんなもんありますよ~と周囲に魅せる為にこのような目立つ変わった物を東大寺の一部として作ったんですねぇ。今でいうスカイツリーみたいなもんですな。
↓こんな感じなんで↓ 東大寺は平城京の東側にありましたね~。

この頭塔のある地の南側半分は森になっているのですが、南側は狭い道路に挟まれ人家が密集している地なので、構造的問題から南半分は発掘できず手付かずになっているし、今後も発掘予定はないそう。また、今も法要に来られるお坊さんがおられるので宗教施設という位置づけでとらえられているみたい。というのも、今は跡形もなくなっているが、明治の廃仏毀釈前まではここに江戸時代から続く日蓮宗の頭塔寺という御寺があったんですね。
頭塔寺は江戸時代の地図にもちゃんと載っているのですが、またそれが証拠に南側の森の中には何妙法蓮華経と記された石碑や五輪塔が残されて存している。で、それらはその頭塔寺のお坊さんの御墓との事で、それで時々法要に来られるそう。よって北側半分だけ発掘調査をし、それによって出土したものを並べ復元展示している復元遺跡となっている。
こういうピラミッド型の形式は日本では、大阪堺の土塔、岡山県熊山遺跡と、ここ頭塔の3つしか確認されておらず貴重なものだ。が、ここ頭塔は、2007年にテレビで紹介されてから一躍脚光を帯び見学者が殺到し長蛇の列になったりしたそうだが、それまではここ近辺の地元の人すら知らない史跡だったそうで、ガイドのおじい様は、小高い丘のようになった木草が生い茂るこの場所を頭塔の森と呼び、子どものころ皆で駆け回って遊んでいたんですって。
この頭塔は、良弁さんがつくるよう命じ767年に完成。大阪府堺市の土塔は727年に行基によってつくられたとされている。この日本有数のピラミッド型建造物をつくった二人ともが、玄昉と同じ岡寺の義淵僧正のもとで学んでいた二人って言うのがな~んかありそう。熊山遺跡は奈良時代前期に建造されたと思われる仏教遺跡ってことだけしかわからず、一体誰が作ったのか、岡寺の義淵僧正のもとで学んだ御方の一人かな~♪ とか一人で妄想していま~す(^^♪

頭塔は奈良時代に実忠さんがつくった後に燃えてしまい、その後、塔をつくったものの平安時代にまた燃えてしまい、その後、この辺一帯が興福寺の管理領となった。江戸時代になると興福寺が日蓮宗のお寺に売ってしまい頭塔寺がたてられ、明治の廃仏毀釈により寺がとりはらわれその後寂れ森になってしまっていた。大正時代になって露出した石仏をみて国が重要文化財に指定し、1987年から発掘調査が始まり、保存展示遺跡として2000年に完成。
面白いのが、発掘調査をした結果、1,3,5,7段目という奇数段のみに石仏が祀られていたことが分かっている。1つの面に各11基ずつ、東西南北全部あわせて44カ所に石仏が祀られていた。第一段は、東面に多宝物浄土、西面に阿弥陀仏浄土、南面に釈迦仏浄土、北面に弥勒仏浄土を表した図柄の石仏が安置されていて、頂上段は廬舎那仏浄土を表した石仏でそれぞれの四方物に対して廬舎那仏が一番上にあるという、どうやら立体曼荼羅をあらわしているという結論に達している。
その他の石仏にも、仏本生説話像、法華経の二仏並坐像、涅槃経の仏棺礼拝像、維摩経の文殊維摩対論像、華厳経の善財童子歴参像など様々な経典と類似点があり、奈良の仏教説話美術でもある史跡という。こんな巨大な建造物で仏教説話とか立体曼荼羅とかあらわしているって凄っ!
このように石仏を風雨や直射日光から守るために瓦がつけられているが、地層やまた発掘調査の結果、どうやら奈良時代には全面的に瓦がはりめぐらされていたことがわかっている。が、今は、発掘された石仏を展示し、その石仏のある場所にだけ瓦をつけたつくりになっている。

中にはこんな風に、仏さんの様子がまるで見えないものや、消えかかっているものもあるし、発掘したものを補修したものや、盗難にあって抜き取られてしまった石仏や石も結構あるそう。


驚いたのが、奈良って石が不足していたんですかねぇ?? お城をつくる時に石が足りない!って言って、有る石全部持っていかれたそうなんですわ。大和郡山城のあの立派な石垣にもここ頭塔の石仏がいくつか使われているそうだ。酷ぇーーー!っと思うのがあの羅生門の礎石ももっていって使っていたそうですよぉ。石がなくてあっちこっちから持って行って作ったそう。
なので、この頭塔を復元するにあたり、石をかなり補充したのだそう。補充した石が一目でわかるように補充石には鉛をはって区別しているとの事。こんな感じで。鉄板が貼ってありました。

まさか大和郡山城がその辺から石を全部かき集めてつくったなんて知らなかったから何気にショックを受けました。でもそれも含めてのすべてが、その時々を懸命に生き抜いた人たちの歴史なんですよね。構想からはじまり当時の人たちの息遣いが聞こえてくるよう。
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