隠れた遺産-西福寺とその控えめな表札の謎-

ー上狛散策ー
1・狛城の運命ー畠山義就の戦略と南山城地域の制圧ー
2・義就の反乱ー大和を制圧した畠山義就の戦術と影響ー
3・過去の井戸が現代の庭にー大里環濠集落の忘れられた遺産ー
の続きです。

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畠山政長の忠実な部下たち、筒井氏や十市氏が「おやじの命令だ!」とばかりに再び立ち上がりました。宇治田原の岩本城にいた全国人衆も、幕府軍に加わり出撃しました。対し、斎藤彦次郎も伊賀の忍者たちを引き連れて、いざ、出陣!両軍の足軽頭が討死するというほどの激戦となったものの幕府方は御厨子城の奪還には至りませんでした。政長の主力部隊は「ここはやばい、逃げよ」とばかりに京都へと逃げ帰り、地元の国人衆はまたもやバラバラに。


そして、畠山義就は「おい、興福寺から年貢が来てないぞ!」と斎藤彦次郎に200人の兵を引き連れさせ、宇治田原を攻撃させました。しかし、彦次郎は「もう嫌だ!」とばかりに石清水八幡宮で髪を剃り落として仏門に入ってしまいました。これには味方も敵もびっくり。ここで登場する幕府内の派閥争いもドタバタ劇。将軍の直属武士団と実務派官僚が街道の関所で税金を巡ってケンカ。これがさらに混乱を招き、結局多くの官僚が「もう辞めた!」と職を投げ出しました。その間にも将軍・義尚は「こりゃダメだ」と出家してしまい、幕府はもはや機能停止寸前。


さて、細川政元は密かに策を練り、「賊軍を倒したら南山城は君のものだよ」と斎藤彦次郎を誘惑。これにより彦次郎は幕府側に寝返り、畠山政長の旧臣たちは大慌て。この動きによって南山城の情勢は更に混乱し、狛秀盛の平和的な呼びかけは、戦の準備に忙しい周囲には完全に無視されてしまいました。結局、狛秀盛は再びどこかへと姿を消し、彼の平和への願いは幻と消えたのでした。
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西福寺

さて、普通自動車一台がギリギリ通れるほどの細い道で入り組んだ上狛環濠集落内は、まるで迷路のようで、家々は互いに寄り添うかのように密集。そしてここは狛どんの愛称で民衆から慕われ、山城国一揆を組織した狛氏とゆかりのあるお寺の壁です。

道沿いにある表入口は厳重にしまっており、さらに驚くことに、小さな表札には、西福寺と一番最初に書かれそのあとには家族全員の名前がズラリ。セキュリティリスクを心配しながらも、昔ながらの小さな表札からは地域の温もりが感じられます。

西福寺

道路を回り込むと、かすかに見えるお寺の屋根にしゃちほこらしきものが見えます。「あれ?本当にここが西福寺?」と思いながらも、案内板はおろか、ちゃんとした看板すらありません。小さな表札には「西福寺」と家族全員の名前がぎゅっと詰まっていて、まるで「もうこれ以上人来ないで!」と言わんばかり。お寺というよりは、どう見てもただの民家です。

裏玄関を見ても、やはり「普通の家」の風情。

西福寺

しゃちほこらしき飾の付いたお寺らしき建物は普通の家で隠れていて、「西福寺に来ましたー!」と言いながらズカズカ侵入するのはとてもできない状況です。だって、完璧に誰かが住んでいる家ですから。


この西福寺は、狛氏一族のお墓があります。また、時代を下って、織田信長に仕えた狛秀綱の位牌や画像も伝えられています。信長から狛野内の知行を安置された狛秀綱は、本能寺の変で信長が討たれると、「二君に仕えず」と上狛に隠居しその2年半後に静かに生涯を終えました。


その子孫・狛忠政は1671年に織田家との縁をたよりに、大和国宇陀郡松山藩織田家に出仕し、1695年の織田家の丹波氷上軍柏原(現丹波市)への転封にも供をし知行100石を与えられ、明治維新を迎えました。

「知らんけど、大変だったのかもね」と思いつつ、西福寺の控えめさには、なんとも言えない味わいがあります。

西福寺 上狛環濠集落

しかし、たとえ事前連絡をしてアポを取って敷地内を見学できるのだとしても、このような歴史的遺産が一般には見ることが難しいのは本当に残念で、もったいないことです。やはり、観光地としての役割や入場料を徴収することは、その存続を支えるために必要不可欠だと改めて感じました。山城国一揆は歴史的にも有名で、地域おこしにも十分活用できるはずです。

一方で、ここの地元の市議会議員が「愛国教育を!」と訴えているのを聞き、ほぉー!っと思いましたが、果たして彼女は自分たちの地元の価値を理解し、実際に地域を歩いているのでしょうか? 私は、愛国教育よりもまずは郷土愛を大切にするべきだと感じています。地元の歴史や文化財を守り、次世代に伝えることが何よりも重要だと思います。

特に山城国一揆のように、権力に抵抗した歴史は消されがちです。それだからこそ、地元の人々がその歴史や文化遺産を守り、愛する心を育てることが大切です。郷土愛を育むことこそが、真の愛国心につながるのではないでしょうか。

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100円グッズで高級かき氷!? 我が家のスイーツ革命

上狛散策の記事は置いといて、本日は脳の報酬回路にギンギンくる絶品スイーツの話で行きましょう!



ここ最近、天気がまるでジェットコースターみたいで、ある日は「真夏日が来たぞ!」と思えるくらいの暑さだったり、次の日は「冬に戻った?」と驚くほど肌寒かったりして、本当に忙しいですね。

この間、あん団子を作ったのですが、餡が余っちゃって、「これどうしようかな~」と考えているうちに、たまたまその日が暑かったので、「これはかき氷に使うしかない!」と閃きました。でもね、材料をそろえたはいいけど、その後に肌寒い日が続いて、かき氷を食べる気分じゃなくなっちゃって。結局、数日放置してから、かき氷を作ることにしました。



先ずは、これを見てください。100均でゲットした「ふりふりクリームメーカー」です。これ、生クリームを入れて振るだけで、簡単にクリームができちゃうんですって。大絶賛している記事を読んで興味を持ち、電動ミキサーをわざわざ出すよりずっと楽だな、そんなに便利ならば!と100均で購入したものです。その威力たるやどんなものなのか、ついに試すときがきたわけです。

かき氷


裏面の説明によると、この「ふりふりクリームメーカー」は、一回でたったの100mlしか作れないんです。まるで哺乳瓶みたいなサイズですよね。そして、3分から5分振り続ければ、生クリームができるとのこと。さっそく振ってみたんですが、全然トロッとしないんですよ。どうやらこの商品、電動ミキサーを持っていない人、電動ミキサーの音が騒音問題になる家庭、あるいは腕の筋トレがしたい人向けのようです(笑)

かき氷

振っても振っても固まらないので、途中で「もういいや、電動ミキサーでやれば早いし!」と思い立ち、このふりふりマシンに入れた生クリームと、まだ箱に残っていた生クリームをボウルに移して、電動ミキサーでグルグル。あっという間に完成しました。一体全体、何のためのふりふりクリームメーカーだったのか?と思いつつ、もう使うこともなさそうなので、ゴミ箱へいれるしかないかな。

実は、ふりふりクリームメーカーなんかじゃなくても、蓋付きの容器でシェイクすれば同じことができるんですから、わざわざ買う必要もなかったんですよね。



さてさて、本題のかき氷のお話です! こちら、トッピングには練乳をたっぷりかけました。

かき氷


中身のほうはというと、泡立てたての生クリーム、残った餡、そしてサンフルーツをゴロンと入れたんです。この組み合わせがなんとも言えず美味しい!まるでお店で売ってるような高級かき氷が家で楽しめちゃいました。価格もお手頃なのに味は一級品、大満足です。夫も「美味しいね、フルーツが効いてる。これなら1000円出す価値がある!」と大絶賛。

かき氷

子どもも「美味しい!」と大喜びで食べてましたが、食べ終わると「1000円だったらもう少し大きいな」とぼやいてましたw


8月にもう一回、今度は、ほうじ茶かき氷つくろうかな~♪
去年の散々だったかき氷の記事『出会い。そして、永遠の別れ』のリンクはっておきます(--;

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過去の井戸が現代の庭にー大里環濠集落の忘れられた遺産ー

ー上狛散策ー
1・狛城の運命ー畠山義就の戦略と南山城地域の制圧ー
2・義就の反乱ー大和を制圧した畠山義就の戦術と影響ー
の続きです。

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狛秀盛は南山城地域に深く根ざした山城三十六人衆のもとを一軒一軒訪れ、「皆の力を合わせてこの土地を守ろう」と呼びかけました。もちろん、これはお互いが長年にわたって牽制しあっていた古い国人たちに対する、なかなかハードルの高い提案でした。しかし、彼の提案は「幕府派でも義就派でもなく、地元民の手でこの地を治めよう」という、なかなかにユートピア的なビジョンでした。

一方、狛野荘は畠山両軍の戦いで荒れ果てていました。斎藤彦次郎をはじめ、椿井氏、木津氏、古市氏といった有力な地元の国人たちが関所を次々と設置し、京都と奈良を繋ぐ重要な交通路には、まるでETCゲートのように通行料を取る関所が乱立。通行料は一人につき5文から10文で、2、3里進むだけで10箇所もの関所が! 安く見積もっても往復で100文(現代の数千円相当)が必要に。馬や荷物を運ぶにはさらに高額な関銭が課されました。

御厨子城を掌握してから斎藤彦次郎(義就派)の振る舞いはさらにエスカレート。彦次郎の盟友である多賀孫七は、彦次郎の夜襲によって家族を失い、絶望の中で切腹を決意しました。彼は最後に狛秀盛と会うために宇治田原へと向かい、そこで彦次郎によって城を焼かれた他の国人たちと合流しました。この地は、かつては交通の要所として栄えましたが、時代とともにその役割を失い、隠れ里のような静かな場所となっていました。ここに逃れた国人たちは、狛秀盛のもとに結集し、彼の呼びかけに応じました。狛秀盛は、その後さらに南山城の国人衆の説得のためにその地をあとにしました。
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大里環濠集落大井戸

上狛は「大里」という通称があるのですが、ここにはなんと昔の共同井戸、大里環濠集落大井戸など当時使われていた井戸が今でも残っているんです。ただし、驚くなかれ、この井戸、今やどう見ても普通の民家としか思えない家の狭い庭にひっそりと存在しています。井戸にピッタリ寄り添うようにしてその家の壁が。そう、完全にプライベートプロパティのようです。

その家には普通に人が住んでいる様子で、近寄ることもおろか、井戸の側に行くことさえできない状況。微妙に家の敷地奥にあるので、せいぜい敷地内に侵入してから10歩?くらいは歩かないとたどり着けませんので、勝手に侵入するわけにもいきません。ピンポーン!とやって人を呼び出すのもなんだか悪いですし、結局、遠くからズームで井戸を撮影するしかなくて、近くでちゃんと見ることは叶いませんでした。

歴史的な重要物が、ただの家の庭にぽつんと存在しているなんて、なかなかシュールな光景です。地域の大切な遺産としてこの敷地を行政が買い取り公共の場所にするとか、観光地としてちょっとでも補助金を出すなりしてなんとかして守った方がいいのではないかと思うのですが。本当に、もったいないと思うんです。

でも、現実はそんなに甘くない。大井戸は依然としてその家の一部で、看板だけが証拠のように立っています。「まあ、看板があるから大丈夫だろう」ということなのかもしれませんが。しかし、これでは、歴史が日常に埋もれてしまいそうで、なんとも言えない寂しさがありますね。

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歴史のゴミ箱からトイレへー残念石の悲惨な旅路ー

今日は上狛散策から離れて、ニュースを目にした感想をお届け。



大阪の役でめちゃくちゃになった大阪城を修繕するために、藤堂高虎が命を受けて用意したものの、結局使われずにその地域に残された石、その名も「残念石」と名付けられた立派な石が、京都府に存在します。残念石の現地レポートはこちら! ミャクミャクの友達はこちら↓

大阪万博
出典: FNNプライムオンライン「友達の方がぶっ飛んでいる」大阪万博“ミャクミャク様”の友達にSNS衝撃…黄緑ボディに目玉多数で「大阪が宇宙生物に侵略されている」


さて、この残念石、なんと大阪万博のトイレに使われることになり、今月13日に大阪に向けて出発しました。トイレですよ、トイレ! 長い間風雨にさらされ、一度も使われずに放置された石が、ようやく使われる場所がトイレなんて、まさに「残念」極まりない。


そして、大阪万博のトイレでの使用後、そのトイレで使われた石が再び故郷に返却されるそうです。




木津川市に住む友人は、「トイレで使われた石が戻ってくるくらいなら、使用後に海に投げ捨ててくれないかな。」とか「いっそのこと爆発して粉々になって返却できなくなればいいのに。」とか言っています(笑) 確かにね、微妙ですよね。トイレで使われた石が返却されるって聞いたら、正直「返却されてもなぁ・・・」って感じになるよね。誰だって使った後のトイレの石なんかもらっても嬉しくないもんね。「あぁ、これはあのトイレの・・・」って思っただけで、なんか微妙な気持ちになるわ。




さらに、大阪万博会場は、産業廃棄物が埋められた毒の土地。トイレ建設中にガス爆発のニュースも流れていました。そんな場所に置かれるなんて、この石もたまったもんじゃないでしょう。




この石、掘り出され加工されたものの大阪城修繕に使われることなく、長い間風雨に晒され、かろうじて看板がたっているけれど地元での扱いも散々、はっきり言って存在すら忘れられていました。それだけでも本当に残念過ぎる残念石なのですが、そして、ようやく使われることになった場所が、トイレ。それも毒土地の万博会場のトイレです。



これが「残念石」の運命です。歴史に埋もれた存在が、ようやく脚光を浴びると思いきや、待っていたのはトイレ行き。そして使用後は、また元の場所に戻されるというおまけ付き。

結局、この石はずっと「残念石」のまま。歴史のゴミ箱からトイレに行くという、なんとも悲惨な物語でした。残念過ぎる残念石。

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義就の反乱ー大和を制圧した畠山義就の戦術と影響ー


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応仁の乱以来、南山城地域は、戦場として繰り返し焼き払われました。田畑は踏み荒らされ、辛うじて天災を逃れた少量の作物も、収穫前に足軽や野武士によって略奪される始末。さらに、前将軍足利義政が東山山荘(銀閣寺)の建設のために人夫役や普請料を要求し、働き盛りの男性は無理やり足軽や人夫として徴用され、地域は更に困窮。飢えや足軽の暴力が日常となり、他地域に比べて異常に高い年貢の重圧が人々にのしかかっていました。そして、女性や子ども、ペットから果樹まで、何でもかんでも略奪の対象になっていました。

このカオスの中で、荒くれ者たちは略奪と放火を仕事としてこなし、戦場では「身代金ハント」が開催され、女性や子供はオークションにかけられていました。好き放題やりたい放題ができるこの時代は、そのような性質をもつ人々にとってはまさに「フィーバー時代」だったと言えるでしょう。


上狛環濠集落

畠山政長が守り抜こうとしていた守口城、淀川と大和川が交差する低湿地にあり、なんと湖に面した絶好のロケーション。だけど、中身は大変! 城内は疫病がはびこり、秩序は崩壊。足軽たちなんて、出撃命令なんて聞く耳持たず、近くの農家を襲っては兵糧を強奪。ギャンブルと売春小屋が乱立する"アムステルダム"状態です。こんな時に、義就は「チャンス!」とばかりに日本史上初の大水攻めを敢行。結果、数百の村が水没し、数千もの命が失われました。

その後、政長軍は犬田城でちょっとだけ回復。しかし、兵たちは逃亡を繰り返し、補充する新しい兵も姿を消す始末。義就軍は待ち構えていたかのように攻め込み、犬田城は見事に陥落。戦死者は数百人、恐怖で死に至る者、狂乱する者、中はまるでホラー映画のセットのように恐怖と混乱が渦巻いていました。


そして、五ヶ庄。ここは肥沃な土地で、岡屋七郎という代官がいたのですが、裏切り者として幕府に土地を取り上げられ、彼の弟やらが後を継ごうとしたものの、「こいつらではダメだ」と地元民から一蹴。田村清左衛門という新しい代官が登場し、彼は百姓の一人として農作業に励みつつ地域の安定を図り、五ヶ庄の人たちと共に義就軍からこの地を守るために戦いました。

しかし、食料不足は深刻で、五ヶ庄の百姓たちは味方である畠山政長軍から襲撃される日々。そんな中、足利義政は、燃え尽きた土地からさらなる費用をふんだくり東山山荘の建設に夢中。一方で、義就軍は御厨子城を日替わりスペシャルで攻略し、略奪を公認。兵糧米や豆など食料を山ほど確保し、南山城を制圧しました。宇治橋以南の地域は、平等院と神明社を除き、すべてが焼け野原に。反抗する者は「ゲームオーバー」で、服従しない村は灰燼に帰しました。そして足利義政は、「もう見てられない」と政長をポイ捨て。残された敗残兵は京都で略奪三昧の日々を送っていました。
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上狛環濠集落

堀内に入るとさらによくわかる・・・上狛環濠集落の道は、車一台がやっと通れるかというほどの細さ、そしてまるで迷路みたいです。歩いていると、どこからかタイムマシンが現れて昔に戻ったのではないかと錯覚するくらい、古い家々がタイムスリップした雰囲気を演出しています。

信じられないことに、この紙一重の道を本当に車が通っていて、運転手の腕の見せ所です。車を避けようと思ったら、もはや地元民の家の敷地に勝手にお邪魔するしかない状況です。そして、それらの車は、電信柱スレスレを縫うようにして通り過ぎます。見ていて思わず「お見事!」と拍手を送りたくなる技術ですが、電信柱には、かつての失敗作たちのぶつかりっぷりが痕として残されています。おそらく、この道をマスターするための秘訣は、日々のぶつかり訓練にありそうです。

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狛城の運命ー畠山義就の戦略と南山城地域の制圧ー


ここは、上狛環濠集落跡、歴史の風が今もささやく場所です。この地にかつて栄えた狛城は、まるで巨大なお城のセットのよう。広々とした敷地に深い水濠と土塁がぐるりと囲んであり威風堂々としていました。敷地の広さは、東西約330メートル、南北約360メートル。今でもその水濠の一部がこの地に静かに息づいています。当時は堀幅が約5,4メートルもあり、その名も「浦の川」。堀というより、ちょっとしたボート遊びができそうなサイズですよね。

上狛環濠集落

そしてこの城内、ただのお屋敷ではなくて、まさに小さなコミュニティの中心地。土塁の内側には、ぎっしりと竹や木が生い茂り、その中にひっそりと民家が点在。人々は「郷」とか「垣内」と呼ばれるグループでわいわいと共同生活を送っていました。城主の狛秀盛さん、地元では「狛どん」と親しみを込めて呼ばれていて、その公正な統治で皆から愛されていました。ここでは名主や富裕層だけでなく、小百姓や商人、職人たちもみんなで政治や経済の重要事項について議論し決定していました。今の私たちにも見習いたい点がたくさんあるかもしれませんね。

上狛環濠集落

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畠山家の跡目争いから火がついた応仁の乱。これは、まるで一族のお家騒動が一大ドラマになっちゃった感じですね。応仁の乱の真っ最中1470年、畠山義就(西軍・反幕府)の大将・大内政弘が南山城を攻めました。このとき、狛城主・狛秀盛は田辺城で木津氏、田辺氏、井手別所氏と共に戦いますが、残念ながら敗れました。

狛秀盛が狛城を奪還できたのは、1477年でした。応仁の乱が形式的にでも終わったのは1477年ですね。



さて、11年間の大暴れ「応仁の乱」が一段落。いやいや、実際は畠山義就が「もう幕府(足利義政)の時代はおしまい!」とばかりに大軍を連れて大阪の河内へワープした話から始まります。彼の元には馬上で350騎、武士2000人、そしてまるで祭りのように万を超える足軽たちが集結。

対する畠山政長(東軍・幕府方)は、ただただ震えながら「行ってらっしゃい」と手を振るしかありませんでした。


義就はさっそく、天王寺城を含む主要な城をたった10日で次々と制圧。その後、羽曳野市の誉田城も一日で落として、敵将の首37個を政長の元に送りつけ「どうだ、こわいか?」と挑発。

そして、河内、大和、摂津を手中に収めた義就は、地元民を味方につけるため雑税を3年免除。「みんなのヒーロー、義就」が誕生しました。

上狛環濠集落

一方、政長は幕府や同志たちから「さあ、何とかしよう!」と煽られつつ、5年も何もせずにただ座ってました。やっと細川政元が「義就討伐だ!」と言い出し、政長も動き出しますが、細川さんはちょっとした策略で義就と密約を結び、あっさり撤退。政長、結局は一人ぼっちに。

最終的に、政長の軍は守口城でひたすら守るものの、ことごとく敗れ、義就軍は南山城にサクサクと侵攻。ここ、狛城からわずか徒歩1時間ほどの距離にあった草路城は、畠山政長軍の南山城地域の重要な拠点でした。1482年、この城は畠山義就軍の猛攻を受け、激戦の末に落城。その際、城内の数十人が切腹を命じられるなど、双方に多大な犠牲を強いた壮絶な戦いが展開されました。


草路城の落城から半年後、義就軍は南山城地域の最後の拠点である狛城へ斎藤彦次郎の精鋭部隊で奇襲攻撃を敢行。狛城主・狛秀盛の長男を含む一族郎党47人が命を落とし、生き残りは散り散りになりました。狛秀盛は辛うじて逃れることに成功しましたが、この一連の攻撃で、畠山義就軍は綴喜郡や相楽郡を含む南山城地域の幕府直轄領を完全に掌握しました。
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子どもたちの未来を守る/性教育の責任と課題


我が子が帰宅し、中学校の性教育授業について語り始めた際、その内容には深く驚かされました。教材として配られたプリントには、親に知られずに気軽に相談できる窓口のメールアドレス、電話番号、LINEアカウントが記載されていました。このようなプライバシーを保護する配慮は、孤独に悩むことなく気軽に相談できる環境を提供するという点で非常に価値があると思います。

ただし、驚いたのは、そのプリントに緊急避妊薬の処方施設の情報がデカデカと載っていた事です。この情報は、性教育の中で適切に扱われるべきでしょうが、その使用には慎重な配慮が必要ではないでしょうか。緊急避妊薬は、名前の通り緊急時のみに使用すべきものであり、その誤解が無責任な性行動を助長しないよう、生徒には正しい知識が伝えられるべきだと思うのです。



しかしその授業で、緊急避妊薬の使用に関して、適切な情報が提供されていなかったと聞いています。副作用のリスクなど、重要な情報を省略した上で、「この薬を飲めば妊娠の心配はない」という軽い説明がなされたそうです。妊娠出産から逃れられる万能薬のような説明だったとのこと。故に、性行為への軽率な態度を助長する可能性もあります。適切な知識がなければ、若者たちはその薬の使用を誤解し、不適切に依存するかもしれません。



さらに、この授業が男女共1つの場所で全ての生徒に対して共通の内容で行われたことにも驚いています。女生徒だけを集めての情報提供なら理解できますが、学校から正式に緊急避妊薬の存在を男子生徒に教えることで、「薬があれば避妊の必要はない」という誤った認識を持つ男子生徒がでてくる可能性があります。


さらに驚くのは、性に関する健康リスク、責任ある行動、心理的な準備の重要性などについての話はいっさいなかったそうです。




私が中学生だった頃の保健の授業は、性病に関する恐ろしい写真を見せながら行われ、一つの強烈なメッセージがありました。それは、「特定の信頼できるパートナーとしか性的関係を持つべきでない」というものでした。この授業は、性格が明るく、生徒からの信頼も厚い30代の男性教師によって教えられました。彼は意図的に男女共同のクラスでこの重要なテーマを扱いました。

授業が終わると、私たち仲の良い女子生徒は廊下に出て、授業の衝撃について真剣に話し合いました。この授業は私たちに深い印象を残し、無責任な行動のリスクを深く理解させるものでした。その結果、私たちの中で、ナンパされたり合コンで出会った人と即座に関係を持ったり、軽はずみにパートナーを変えたりする者は一人もいません。



しかし、最近の子どもたちが受けている性教育は、どうやら別のアプローチを取っているようです。その内容は、むしろ性的な関係を煽るようなものでした。

教育は、若者が健康で責任ある選択をするための基盤を築くべきだと思います。正確でバランスの取れた情報と、深く考えることを促す環境が必要だと思うのです。




最近、大学生の娘を持つ知人から心配の声を聞かされました。彼女は自宅で娘の部屋を掃除しているとき、過去1年間に4枚の緊急避妊薬の処方箋レシートを見つけたのです。それも全部違う病院だったそうです。「どうすればいいのかしら」と彼女は私に相談してきました。

緊急避妊薬はその名の通り、緊急時に使用するものであり、頻繁に用いられるべきものではありません。その使用が何度もあったことは、計画的な避妊が行われていない可能性を示唆しています。これは、若者が適切な性教育を受けていないか、あるいは受けた知識を日常的な実践に生かしていないことを示しているかもしれません。




学校での性教育は、家庭内で性に関する対話が難しい環境にある子どもたちにとって、特に重要な役割を果たしています。しかしながら、緊急避妊薬を推奨し、あたかも性行為を助長するかのような教育内容については、その適切性を問い直す必要があります。性教育の目的は、若者たちに性的リスクを理解させ、健康で安全な選択ができるように支援することです。これには、性病の予防、心理的な準備の重要性、そして適切な避妊方法の利用が含まれます。

緊急避妊薬の使用について学ぶことはその一部であるべきですが、それが主体となるべきではありません。この薬はその名の通り「緊急用」であり、定期的な避妊方法ではないことを明確に理解させることが必要です。また、その使用がもたらす可能性のある心理的、身体的な影響についても、正確かつ包括的な情報を提供することが求められます。

最終的に、性教育はただの情報伝達で終わるべきではありません。それは、生徒たちが自己の行動とその結果を理解し、他人を尊重し、社会的に責任ある判断を下せるよう導くものでなければなりません。教育者は生徒たちが情報をどのように活用するかを見極め、適切な指導を行う責任があると思うのです。

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日本から韓国へ:逆転する売春行為の新現実


最近、日本人女性三人が韓国で売春行為により摘発され、さらに日本人女性十人以上が行方を追われているとの報道がありました。この事態は、かつては韓国人が日本人を装い売春行為を行うというニュースが主流だった時代とは大きく変わり、現在では日本人女性自身が海外でこのような行動に出る事例が増えています。これは、日本だけでなく、国際社会においても問題視されており、アメリカでは日本人女性の入国審査が一層厳格化される事態に至っています。


かつて日本では、親に売り飛ばされ強制的に監禁状態で遊郭で働かされるなどはありました。しかし現在、なぜこれほどまでに日本人女性が自らの意志で売春行為に手を染めるようになったのでしょうか。本質的には、単なる選択の自由を超えた社会的な問題が潜在していると考えられます。多くの事例で、売春に手を染める女性たちは、その収益をホストに貢いだり、美容整形に費やすといった消費行動を取っています。これは、単純な金銭欲ではなく、深層心理に根差した洗脳の問題である可能性が高いです。

かつてオウム真理教の事件で見られたように、高学歴のエリートでさえ、洗脳によって極端な行動に出ることがあります。今回の問題も、女性が社会からの圧力や偏見、孤独感によって疎外され、結果として自己価値を高めるために異常な行動に走るという構図があるかもしれません。



さて、ここに売春を行っている女性にインタビューした動画があります。この動画では、彼女たちがどのようにして売春の道に進むよう誘導され、その収入の全てをホストに貢いでいるのかが描かれています。このような女性たちの話を聞くと、一見単純な行動の背後には、洗脳や強い心理的圧力が存在することが感じられます。



これを単なる個人の選択や、考えが足りないための行動と解釈しがちですが、実際のところはもっと複雑です。このような状況に至る女性たちは、しばしば強い心理的操作や感情的な依存の中で行動していることが多く、これを単純な知能の問題と片付けるのは不適切に思えます。彼女たちがこのような選択をする背後には、社会的、心理的な要因が絡み合っています。

洗脳という言葉は、単に誤った選択をする個人を責めるためのものではなく、彼女たちが直面している状況の深刻さを示すものとして、より広い社会的な認識と対策の必要性を訴えるためのものです。



最近、ある知人から子どもが美容整形を望んでいるという相談を受けました。中学生の彼女は、整形しなければ人生が終わるかのように主張し、親が否定すると大泣きしたそうです。

同様の話は以前、インターネットで目にしたことがあります。小学生の子どもが美容整形をせざるを得ないと感じ、同じように大泣きしたそうです。これらの子どもたちが共通して示す行動パターン—絶対的な必要性を感じる様子、他人の意見を受け入れない固執、そして異常なほどの感情的な反応—は、彼女らがどれほど深く影響を受けているかを示しています。

考えられる一つの原因は、美容整形を美化し、必要不可欠であるかのように描くインターネット上のコンテンツかもしれません。これらのメッセージが子どもたちにどのように影響を与えるかは計り知れませんが、一部の動画が意図的に、あるいは無意識のうちに洗脳的な効果を持っている可能性があります。

この問題に対処するために、私は知人にデジタルデトックスを提案しました。さらに、美容整形のリスクや潜在的な負の側面についても教えることで、その子どもが情報の片側面だけでなく、全体像を理解する助けとなりました。情報のバランスを取り戻すことで、彼女は洗脳から解放され、デジタルデトックスを行う決断を下したそうです。




現代社会は情報が溢れ、人々の意識や認知に影響を与える心理戦が日常的に行われています。このような環境では、他人を単なる利益追求の手段、つまり駒として扱う人々も存在するのが現実です。そのため、私たちは特に注意が必要です。

私のように、純粋で信じやすい性格の人(アハッ) は、特に警戒する必要があります。操られることなく、自分の意志を保つことは、この複雑で計算高い社会を生き抜くために非常に重要です。情報を鵜呑みにせず、批判的に考える能力を身につけることで、私たちは自分を守り、より良い判断を下すことができるでしょう。まさに現代は、心と認知の戦場です。洗脳されないように、常に警戒心を持ち、自分の思考を鍛えることが求められます。

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MCTオイル、健康の救世主かトラブルメーカーか?  


かつて夫が夢中になっていたMCTオイル、ある日を境に使われなくなり、パントリーの奥でひっそりと眠りについていました。数えてみればその数、なんと4本。夫に尋ねてみると、「もう使わない。それが悪いような気がしている。」とのこと。悪いとは、なんとMCTオイルを使っているせいで体重が減らないってことらしい。まるで、ダイエットの敵役になったかのようなMCTオイル。

MCTオイル


捨てるのはもったいないので私がこの4本を活用することにしました。方法はというと、食塩・添加物無添加のトマトジュースに、MCTオイルをちょっぴり加えて毎朝のリッチな一杯に変身させるのです。こんな風にして、家計も助かり、健康にも良い(はずの)朝食ができあがりました。

MCTオイル



「100%ヤシの実由来ピュアオイル」って書いてあると、なんだか南国気分が盛り上がりますよね!このオイルは、ヤシの実から抽出された中鎖脂肪酸(MCT)っていうスペシャルな成分が入っているんです。MCTは、脂肪分解のプロ、リパーゼのお気に入りで、分解された後はサッと吸収されて直行で肝臓に送られ、あっという間にケトン体に変わってエネルギーになる優れもの。だから、体に蓄積されにくく、ダイエットの強い味方になるんです。

MCTオイル

このMCTオイル、オメガ3系脂肪酸の仲間入りをしています。オメガ3は、抗炎症作用や抗アレルギー効果、さらには癌の抑制など、スーパーヒーローみたいな効果がたくさん!でもね、オメガ3だけ食べ続けるのはリスクもあるので、食事のバランスは大事です。あ、肉や魚を食べない私が言うのも何ですが(笑)

私の場合は、「お肌すっごく綺麗!髪も艶々でサラサラで綺麗!」といまだに褒められることが多いんです。これも食生活のおかげかな?って思います。しかもね、詳細な血液検査で「ストレスに弱い」と出たんですが、それを盾にして夫をちょっと脅すのに役立っています(笑) なので何も困っていませんね~ww



そして、普通ケトン体は飢餓状態や糖質制限時にしか作られないのに、MCTオイルを使うと「食べてるのにダイエット中?」という不思議な状態が生まれるんです。ケトン体が活性化して長寿遺伝子もONになるかもしれませんが、多すぎると体がSOSを出すこともあるので、うまくバランスをとることが大切ですね。正常細胞がケトン体でエネルギーを得るのはスマートな生存戦略なんですが、ケトン体が多すぎると、血液が酸性に傾き、吐き気や倦怠感、心筋梗塞や脳卒中、さらには癌など、体にとってはあまりウェルカムでないお客さんが押しかける可能性があります。

健康な人なら大抵大丈夫ですが、糖尿病などの方はケトアシドーシスという、急いで病院に駆け込むレベルの症状を引き起こすこともあるので注意が必要です。



ヤシの実、それはまさに南国の象徴ですよね。インドネシアやマレーシアが主産地で、最近では沖縄でも見かけるようになりましたが、基本的には南国の木の実。日本のような温帯地域に住む私たちにとって、身土不二(その土地の気候に合った食材を食べるべきだという考え方)からすると、ヤシの実オイルはちょっと異邦人かもしれません。

MCTオイル

ところが、一時期はどこを見ても「MCT入り!」と書かれたお菓子で溢れ返っていました。それがなんとなくブームも落ち着いた今日この頃。私が見つけたMCT入りビスケットも、割引セールでお手頃価格になっていました。試しに食べてみると、これがまた予想外に美味しい。糖質たっぷりのお菓子にMCTを入れるなんて、一体全体どういうこと?と思いつつも、美味しいから全て許されるような気もします。ブレーキを踏みながらアクセルを踏むような、矛盾した行動ですが、美味しいから、まあいいかって感じで(笑)

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アトランティスではなく、高麗寺!失われた伝説を現代につなぐ


JR上狛駅から徒歩10分程度のところに、歴史好きにはたまらない国史跡、高麗寺跡があります。寺域は東西に約200メートル、南北に約190メートルで、北方には高麗寺造営氏族のものと考えられる大規模な居館跡(上狛東遺跡)が発見されています。

この場所、かつての寺の敷地の約60%が史跡として保護されています。でも、その史跡指定エリアの隣には、そうですね、この写真の向かって左手側には、「ここは私有地です!」と書かれた看板がドンと立っている私有地もあります。看板を見る限り、何か厳かな場所を想像しがちですが、実はそこ、ただの空き地なんです(笑) なんとも言えず、歴史と現代の間の微妙なギャップを楽しむことができる場所です。

高麗寺


ここ↓が高麗寺の正門である南門跡です。今では広々としたよい草っ原ですね~♪

高麗寺

しかし、立ってみれば一目瞭然、木津川北岸の河岸段丘から見下ろす風景は、まるでタイムスリップしたかのよう。目の前に広がる木津川と、そこを渡る鉄橋を渡る電車が、まるで時代の結節点を走っているかのようです。このちょうど対岸の地は、木材の集散地として古くから賑わい、奈良時代にはなんと外港の役割まで果たしていました。そう、平城宮や南都諸大寺の建材を運ぶ船が行き交い、伊賀や近江からも建築材がせっせと運ばれてきたのです。

ちょっと上流に目を向ければ、元明天皇の甕原離宮や、さらに時代を追って聖武天皇の恭仁京が置かれ、日本の政治の中心地となったことも。この地域がどれだけポピュラーだったか、ちょっと想像してみてください。そして、驚くなかれ、日本で初めての貨幣鋳造所「催鋳銭司」もこの地域に設置されたのですから、お金の話になるとさらに興味が湧きますね!



高麗寺

こちら↑が金堂跡です。金堂というのは、寺院の中でVIP専用スイートルームみたいなもの。なぜなら、ここには本尊、つまりお寺のスターが安置されていたからです。基壇のサイズは、東西に約16メートル、南北には13,4メートルと、なかなかの広さです。周りには幅約1,7メートルの犬走りがあって、おそらくは高級感あふれる散歩道のように使われていたんでしょうかね。知らんけど。

そして、この基壇の高さが約1,2メートル。それって、ちょうどいい高さで本尊をちょっとずつ見上げる形になるわけです。



ここは↓塔があったところから先ほどの金堂のほうを眺めた風景です。塔跡の基壇は一辺約12,7メートル立派な正方形で、周囲を約1,7メートル幅の犬走がグルリと一周しています。それって、犬が喜んで走り回るようなスペースですね? でもこれは犬用のランではありません。基壇の高さは1,5メートル。これがあれば、当時の人々も「ここが高台だから眺めいいね!」なんて言いながら、周囲を見渡していたかもしれませんね。まるで古代の展望デッキです!

高麗寺


さてさて、昔々の奈良県東南部にあった泊瀬柴垣宮に、なんと570年のある春の日に、北陸地方からの使者、江渟臣裾代さんがやってきました。この裾代さん、ちょっとしたヒーローでして、風波に翻弄され漂流した高麗の使者が、あろうことか、北陸の権力者道君に物を横取りされ、拘禁されてしまった不正を暴くために大移動を敢行したのです。

何と、このドラマチックな展開を聞いた欽明天皇はさっそく詔を出し、「困ってる使者たちを救い、山城国相楽郡に住まわせろ」という、まるで映画のクライマックスみたいな命令を下しました。これにより、高句麗の使者たちは、山城国の高楲館で新生活をスタート。地元ではもともと高句麗から来た人たちが多く住んでいたため、まさに「帰ってきた!」という感じでしょうか。

しかし、当時、朝廷は百済と仲良くしていたため、新しい友達、つまり高句麗とも正式に国交を開き仲良くしようとした時、保守派の物部氏が「ちょっと待った!」と反対したんですね。結果、高句麗の使者たちは高楲館で、じっと大人しくしていました。さて、時は流れて572年、敏達天皇が即位すると、ようやく高句麗の使者たちは朝廷に正式に迎え入れられました。が、その喜びもつかの間、帰国の途中、なんと、高句麗の使者たちは暗殺されてしまいます。外交って、なかなかにドラマチックで危険なものですね。

その昔から政治は複雑で、一筋縄ではいかないものだったのです。

高麗寺


こうした国際的な(?)ドタバタ劇は、この地域だけの話ではなく、朝鮮半島からの渡来人が多く住んでいた5世紀後半には、百済や新羅からもたくさんの人々がやって来ていました。とりわけ山城国では、秦氏がメインストリームで、次いで高句麗から来た人々が南部に住んでいたわけです。秦氏と言えば藤堂高虎は秦氏の末裔で、築城術や鉱山発見などの貴重な技術を持つ人物でした。外様大名ながら江戸幕府の重臣会議にも参加し、その戦略的思考で政治の裏工作でも重用されました。

さてさてちょっと話がそれてしまいましたが、この山城町を中心にした地域は古代から超先進的で、後に恭仁京が築かれたのも、「ふむふむ、なるほど」と納得してしまうほど、地域の歴史と伝統がそうさせたのです。まさに、時代を超えて続くドラマの舞台といった風情ですね。


高麗寺


日本列島、これがまさに歴史の逃走ルートで、争いから逃げてきた人々の最終隠れ家、いわば「駆け込み寺の島」だったわけですね。そう、古代の「セーフハウス」みたいなものですね。だから、日本列島はただの島じゃなく、ちょっとした保護区! 歴史の渦中から抜け出して、「ここなら安全だろう」と息を潜めた人たちで賑わっていたんですね。


さあ、話題は今、高麗からやって来た渡来人のスーパースター達がどんな痕跡を残しているかです。舞台は高麗寺跡。この場所、なんと古文書「日本霊異記」や江戸時代の地誌にも登場し、どうやら高麗恵使法師が立ち上げた最初の伽藍としてその名を刻んでいます。他にも、上狛の善正寺や延命院、西福寺が高麗寺や狛氏に関連する寺として伝承されています。

高麗寺


ここで登場するのが、地元の郷土史家、中津川保一さん。彼の家業は瓦製造業。まさに「瓦取り名人」とでも名付けたくなる彼は、高麗寺の瓦をコレクションしていました。昭和9年、村道の工事で大量の瓦や建築金具が発掘されたときも、彼はそれを収集。さらに昭和13年には、塔の心柱の礎石を発見し、これが京都府史跡勝地保存委員会の目に止まり、本格的な調査につながったのです。結果、高麗寺跡は国の史跡に指定され、永久保存が決定しました。



調査で明らかになったのは、塔は東、金堂は西にあり、その背後に講堂がありそこから両方向につなぐ回廊が塔・金堂を囲み中門へと伸びています。この塔跡、基壇の上に建っていて、その周りは平瓦で化粧されたものでした。そして、この場所のクライマックスは、中央の中心礎石。礎石の横に舎利をいれるための穴が開いている非常に珍しいものでした。滋賀県の崇福寺跡でも同様の発見があり、そこからは、工芸美術の粋を尽くした、緑色ガラスの小壺が見つかり、これらは今や国宝に指定されています。

まるで歴史探偵物語のように、過去の謎を解き明かすこれらの発見は、ただものではありません。中津川さんがただの瓦集め好きだったわけではなく、彼の探求心が歴史の一大発見につながったのですから、まさに「掘り出し物」を掘り出したわけですね!

高麗寺

↑こちらが講堂跡。ここは僧侶たちが勉強や研修を積んでいた「お寺の大学」のような場所。想像してみてください、古代の修行僧たちがここで質問を投げ合い、知識の火花を散らしていたのですから、まるで学問の戦場ですね。

この基壇、東西には23,8メートル、南北には19,6メートルもあって、高さは約0,6メートル。それって、結構な広さですよね。修行僧たちも「今日の授業どうだった?」なんて言いながら、ここでの学びを楽しんでいたのではないでしょうか。

つまり、この場所はただの地面ではなく、過去に知識と精神性が育まれた場所。まさに、僧侶たちの知的な冒険が繰り広げられた「学びの舞台」だったわけです。



高麗寺の遺跡から、きらびやかな金銅製の破風拝み金具や装飾的な円盤などがポロポロと出土しています。これらの出土品から明らかになるのは、高麗寺が当時の人々にとって、文字通り「目を見張るほどの荘厳さ」を誇っていたこと。そう、この寺はただの寺ではなく、まるで古代のラスベガスのように派手で華やかだったわけです。


この瓦積基壇は、発掘成果をもとに本来の姿で推定復元したものだそうです。

高麗寺

高麗寺の歴史は、飛鳥時代(7世紀前半)までさかのぼります。なんと、日本最古の寺院である飛鳥寺の建設時に使われたのと同じ型の瓦がここで使用されています。そして時は流れ、白鳳時代(7世紀後半)には、さらに本格的な造営が進み、この時期には川原寺式の瓦が使用されています。ちなみに、川原寺は壬申の乱で天下を掌握した天武天皇が篤く信仰していたお寺です。この乱で活躍した狛氏の面々も、その功績をたたえて名前が記録されています。

さらに舞台は変わり、8世紀には恭仁京造営時に使用された平城宮式の瓦で高麗寺は修理されました。そして、平安時代前期には、ここでしか見られない独特の物が作られ、最後の大修繕が行われたのです。しかしその後、高麗寺は平安時代以降、徐々に荒廃していったと考えられ鎌倉時代には完全に姿を消した、と考えられています。


地元の郷土史家がこの遺跡を発見しなければ、高麗寺の存在は、まるでアトランティスのように神話の中の話になっていたかもしれません。今の日本を見渡すと、日本人や日本文化や伝統が次第に色褪せ、忘れ去られることに対する危機感が拭えません。高麗寺のように、一度失われたものは取り戻すのが難しいですね。


そして今、日本が抱えている問題と言えば、政府がちょっと外国人(移民)好きすぎることですよね。昔から日本人は4世紀頃から外国人を受け入れて、有能ならば政治の中枢にまで登りつめさせるほど、国際感覚に富んだ民族です。でも最近の政府は、その伝統をちょっとやりすぎちゃっている気がします。ならず者をジャンジャン入れすぎて我々の税金で保護し、まるで外国人受け入れのバーゲンセールみたい(失笑) さすがに、「みんな仲良く」の精神もほどほどにね。

衆院補選のウラで審議が進んでいた実質「移民法」のヤバすぎる中身…このままでは日本の「社会保障」が崩壊する(現代ビジネス) 「外来種」に「在来種」が「駆逐」される!

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