安土城4
さてさて、大手道に戻りさらに石段をのぼっていくと、信長の長男である織田信忠邸跡地があった。本能寺の変の時、勝ち目無とみて自刃した彼の最期を暗示するかのようにめっちゃ狭いうえに暗くて草木で覆われ、ひどい扱いだと思った。おまけに写真までぶれているため扱いの悲惨さに拍車がかかってみえるであろう。まぁぶれた写真を撮ったのは私なのだが。
とはいえ、その近くにあった同じく酷い扱いとしか思えない武井夕庵邸跡の写真は載せないので、写真がぶれていても許してほしい。ウーム ちなみに私は、武井夕庵氏とっ~ても気に入ってる♪ なんかとっ~ても好きなんですよね~キャッキャ💗💕 信長の右筆であり信長への諫言をよくしたことで知られる武井夕庵邸跡地からは信長家臣団の屋敷跡と思われる廓の中で唯一、井戸が見つかっている。

そして、さらに石段をのぼっていくと、今度は左手に、織田信澄邸跡と森蘭丸邸跡が、全くひでぇ扱いだよ、と嘆息してしまう状態であった。周囲は草木が生い茂り、しかもほぼ同じ場所に2つの表示である。でもまぁこうして表示してもらっているわけですしねぇ。。。明智光秀邸跡なんちゅうもんはどこにも見当たりませんでしたし・・・・。
本能寺の変の時、信長と共にいた森蘭丸は信長を守るために壮絶な最期をとげた。生きた時代が悪かったよなぁと非常に気の毒に思うが、織田信澄も悲惨過ぎて名を見るだけで泣けてきますね。信長との家督争いで2度謀反を起こしたとされ謀殺された信長の弟(織田信勝=信行)の嫡男が信澄だが、信澄は信長に信頼され重用されていた。しかも明敏と後世まで名高い明智光秀の娘婿でもあった。
そんな信澄氏は、本能寺の変勃発時、四国遠征軍の副将として大坂城にいた。が、光秀の娘婿+実父を信長に殺された=光秀と共謀して本能寺の変を起こした、という噂が広まり、織田信孝(信長の三男)と丹羽長秀により攻め入られぶち殺され、謀反人として堺の町はずれに梟された。全くの無実だったようなのですが。。。。とばっちりにしてもあまりにも凄惨過ぎますね。酷い時代だ。

さて、もっとのぼっていこう。

ここまでに続く石段の両脇には家臣たちの家があったが、ここ↓黒金門を通った先は、信長が日常生活を送っていた場となる。防衛機能を備えた通路を屈曲させたつくりの食い違い虎口となっており、そこを抜けると左右に道が分かれる。右へ行くと本丸へと続くが、左へ行くと長谷川秀一邸である。残念ながら黒金門は、天守と共に燃えてしまったのだが、金箔瓦などで造られていた。

信長の側にいつもいる=森蘭丸 ってイメージがわくが、森蘭丸邸よりも長谷川秀一邸のほうが天守閣に近くしかも黒金門内にあるんですね。
本能寺の変勃発時、長谷川秀一は、信長に命じられ徳川家康の接待をしていて堺滞在中だった。本能寺の変を知ると、家康を守りながら共に伊賀越えをした。
更に行くと、いよいよ天主、本丸、二の丸、三の丸などで構成される、信長が日常生活を送っていた場所となる。おおよそ東西180メートル、南北100メートルの範囲を高石垣で取り囲んだ御城。
二の丸跡には、秀吉が信長供養のために信長の太刀、烏帽子、直垂等の遺品を埋葬し本廟とした織田信長本廟がある。そしてこの道↓を行くと、本丸跡、そして天守台へと続く。


↓⭐❀ ❁*✲゚* ✿.。.:*♡クリックしてね❀ ❁*✲゚* ✿.。.:*♡↓⭐

