石上神宮を気に入り物部氏の味方であり物部側の人間である私としては、元興寺と言えば、蘇我氏が創建! とか蘇我氏の氏寺! とかで、まさに敵寺である。なので、元興寺にはさしたる興味はない。敵寺ですからね。とはいえ、蘇我氏には同情してもいる。歴史上の勝者の常、己の行為を正当化するために敗者を徹底的に極悪人として宣伝記録し歴史に残す。大悪党ばりの人物として蘇我氏は嫌われてきた。

しかし、対する中臣鎌足は、後のあの藤原ですからねぇ。。。。。。ただでさえあの藤原は良いイメージがないのに、政治権力を握るために中臣鎌足のやったことといえば、クーデターを起こし蘇我入鹿をぶち殺し、遺体を蘇我蝦夷のいる甘樫丘の邸宅に届け、蘇我氏が日本で最初に造った本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)を占拠し反乱者を募り本陣とした。甘樫丘の邸宅からその様子をみた蘇我蝦夷は戦うことなく自殺し火を放った。
それだけではなく、うま~くそそのかして共に蘇我入鹿斬殺事件を起こさせ蘇我本家滅亡に追い込んだ蘇我倉山田石川麻呂を、クーデター後、用済みとして、政治権力略奪仲間である中大兄皇子(天智天皇)と共に自殺に追い込んだりもしている。
中臣鎌足が蘇我氏滅亡計画を練ったという
談山神社は、門から続く参道とかとても味わい深い場所なのだが、普通は神社って入場料みたいのとりませんよねぇ、、、、なのに談山神社は拝観時間も決まっているし拝観料もとる神社であり、金のにおいがする。そして人もいなく寂しい。
また、藤原氏の氏神である春日大社は、車で行き駐車場に停めると、車に貼れる春日大社 交通安全ステッカーを無料で貰える。鹿形で可愛いし交通安全のだしっと貰ったらついつい車に貼りたくなってしまうステッカーである。そして、それを貼った車をよく見かけるが、広告費無料で皆に宣伝してもらっている状態で、頭良いなぁ、さすが藤原の教えを受け継いでいる!って思えてしまうと同時に金のにおいがただよってくるように感じる。
一方、蘇我馬子が埋葬されているといわれている石舞台古墳や蘇我入鹿首塚、蘇我入鹿を祀る入鹿神社など、綺麗に花が添えられ地元の方々に大切に守られ手入れされていることが感じられる。また、蘇我氏の拠点だった一帯は、談山神社のある多武峰の人たちとは交流せず、戦前まで婚姻を結ぶこともなかったという。慕っていたボスをぶち殺されれば絶縁したくなる気持ちもわかる。蘇我氏は物部氏をぶっ殺した敵ではあるが、流布されているほどの極悪人って感じではないようにも思う。

平城京遷都にともない、飛鳥付近にあったお寺たちは皆さっさと移築したが、飛鳥寺(法興寺)は移築を嫌がり無視。仕方なく平城遷都8年後に朝廷は新寺を建立し飛鳥寺(法興寺)の名を改め、元興寺と称した。うぁ~って思ってしまうのが、平城の宮ー天皇が住む内裏を見下ろし眺め渡せる高台に藤原氏は自身の氏寺である興福寺を建て、また、滅亡させ政権を奪い取った蘇我氏の氏寺である元興寺も興福寺の下位置場所にした。
まぁなにはともあれ元興寺は、南北四町、東西二町の広大な寺地に、金堂や五重大塔をはじめ七堂伽藍をもつ大寺院として新天地で再スタートをきった。また、飛鳥にあった飛鳥寺(法興寺)は本元興寺として、15大寺の一つとしてその後も朝廷の保護をうけた。同じく飛鳥から平城に移転した薬師寺の前身・飛鳥の地にのこされた本薬師寺などとは違う待遇である。

さて、こちら↑が、東大寺西南院から室町時代に移築されたという国指定重要文化財である元興寺正門東門。そして、これが↓国の重要有形民俗文化財である元興寺極楽堂(本堂)。奈良時代の元興寺の学僧・智光法師が夢で見た極楽浄土を描かせた智光曼荼羅が御本尊。時代の推移とともに平安時代には国からの財政援助がなくなり大伽藍を備え威容を誇った元興寺も次第に困窮そして荒廃を深めていくことになる。平安時代中期には、元興寺金堂や講堂の天井は朽ち雨漏りがしていて、回廊の瓦は落ち、僧坊の一部の建物がなくなり大木が生えていたという。
しかし、平安時代末期には、極楽往生を願う浄土教信仰が広がり、智光曼荼羅への信仰から多くの人がおとずれるようになった。智光曼荼羅がおかれていた僧侶の居住施設だった伽藍僧坊の一室を改築し、鎌倉時代中期、東側半分を極楽坊本堂として独立させ、西側半分を禅室(春日影向堂)と2つに分離させるにいたる。鎌倉時代後期には、来世信仰の中枢となった。
室町時代1451年の土一揆で、元興寺金堂や小塔院、そして、智光曼荼羅原本などが焼失。荒廃はすすみ、戦国時代末からは元興寺境内域に町家がじゃんじゃん建てられるようになってしまった。この周辺の家々を見ると、後の時代にちゃんと買った人もいるのでしょうが、御先祖様が元興寺境内に勝手に家建てて土地ぶんどった人の子孫なんだなぁと見えてしょうがない。いくら荒廃したからとて寺院境内に家建てて住んじゃうんだもんなぁ、なかなかだ。
かつては広大な寺域をもち隆盛を誇った元興寺は、江戸時代初期には極楽堂と五重塔と観音堂のみとなっていた。江戸末期には、極楽堂南徒歩数分の位置にそびえたっていた70メートルの五重大塔も、町屋の火がとびうつり火事で焼失。実にもったいない。興福寺の五重塔でさえ50,1メートルですから。しかし、当時はこのあたりに建つと興福寺と元興寺の五重塔が見えていたんですね。


極楽堂まえには植木鉢がたくさん置かれてあって、これ、蓮ですよね。つぼみやお花はとても清楚で可愛らしいのですが、種はキモイっす。キモい方が嫌がられ近寄られないから種が守られて子孫を残せて良い、っていうことでこんなキモい姿にしているのだろうか。これからさらにグロテスクに変貌を遂げていくのを思うとゾッとする。怖ぁ~。


内部は撮影禁止ですが、極楽堂に入ると内陣の柱には文字がびっしりとある。平安時代末期から鎌倉時代の寄進状だという。また瓦には飛鳥時代の瓦が使われている。
戦国時代後期から町屋が元興寺境内に建てられ、それが後に ならまち と称されるようになるのだが、この周辺一帯では家の建て替えや堀崩工事の際に、元興寺でつかわれていた礎石がよく出土するという。さすが荒廃した寺域に勝手に家を建て住んだだけのことはありますな。過去に古美術商が買った土地から出土した礎石などは随分高値で売っぱらわれ土地の購入代金を上回ったそうな。
境内には町屋が次々に建てられ、元興寺は今では3つの寺院、この真言律宗元興寺、五重大塔跡にある華厳宗元興寺、真言律宗小塔院跡と徒歩数分のところにわかれている。売っ払われたり、家々の下に埋もれ未だに眠り続ける元興寺の礎石ではなく救出された礎石はこのように展示されている。

この佛足石とやらは、紀元前1世紀ごろのスリランカにあった古代仏足石を模作し2012年に造られたという。仏像がなかった古代インドでは仏の足形に礼拝していたという。なんか。。。。足形に礼拝、足形に礼拝、、、ウーム


この両脇↑に、そして境内のあちこちに石塔があるのだが、映していないが写真右側には石塔が所狭しと整然と並べられちょっと異様な感じがし、一瞬ギョッとする。禅室(春日影向堂)の北西部石舞台に積み上げられていた石塔を昭和63年にこうして並べ、浮図(仏)田と呼ぶらしい。僧侶の名が刻まれていたり、この近辺の当時の金持ちが金にものをいわせて造った石塔である。各々の思いのこもった石塔が昭和63年まで適当に積み上げられて放置されていたというのには苦笑してしまう。
こちら↓が、国宝である禅室(春日影向堂)。なんでも、禅室の経蔵に智光曼荼羅があったころ、修学している空海のもとに鹿に乗って春日明神が現われたという。空海はその姿を春日曼荼羅に描き、春日明神を拝する己の姿像を彫り経蔵におさめたという。空海が彫ったのかーーーー!っと感動するその像は境内内にある法輪館でみることができた。

昔々は、禅室って大部屋で共同部屋だったそうですが、時代と共に僧坊も個室化していくんですね。この禅室はその変貌を感じられる遺構だという。今では、東側3部屋が大部屋で古の僧房の様子を伝え、西側1部屋だけは個室化した僧房時代を復元している。飛鳥時代の瓦が使われていて、法興寺から運び込まれた飛鳥時代の瓦は赤みがかった色をしているものが多いという。そうでないのは奈良時代以降の瓦。
元興寺総合収蔵庫である法輪館にも入ることができ数々の国宝や重要文化財などを見ることができる。境内に勝手に町家が建てられ土地を分捕られていく前の、興福寺五重塔をしのぐ高さの五重大塔をいだく大寺院だった頃のかつての元興寺の古地図やジオラマで当時の大伽藍元興寺の光景を偲ぶことができる。目をひくのが、奈良時代後期の国宝である高さ5,5メートルもある五重小塔。
そして、平安時代中期10世紀末の作品と推定されている国指定重要文化財 阿弥陀如来坐像。あとは、室町時代1381年に書かれたDV夫からの離別を願う離別祭文なども展示されていて、いつの世も人のすることは変わらないんだなぁと溜息がでた。

非常に面白い解釈で唸ってしまったのを思い出したので、良い機会なので、関裕二著 ”
奈良・古代史ミステリー紀行” をここで紹介しておく。
=引用開始
元興寺の前身の飛鳥の法興寺は、蘇我氏の寺だった。その蘇我氏は、天皇家を蔑ろにした一族。だから蘇我入鹿は皇極天皇の面前で殺されたのだ。ところが、蘇我入鹿はその後鬼のような格好をして、祟って出ていたようだ。祟りは祟られる側にやましい心がなければ成立しない。蘇我入鹿は罪なくして殺されていたのではないかと察しが付く。興味深いのは法隆寺など(法興寺や元興寺も含まれる)聖徳太子ゆかりの寺々で、聖徳太子が童子の姿で祀られている例が多いことだ。これは大きな謎とされてきた。けれども、童子は鬼なのだから、ある時期、聖徳太子を鬼とみなしていたことがあったのではないだろうか。蘇我氏を滅ぼすことで権力を勝ち取った8世紀の藤原政権は、蘇我潰しを正当化するために、蘇我氏を悪人に仕立て上げる必要があった。そこで、聖徳太子という蘇我系の皇族を捏造し、蘇我氏の功績をすべてかぶせ、蘇我=悪人設をでっちあげたのではなかったか。つまり、聖徳太子とは蘇我氏の本来の姿なのであり、だからこそ、祟る鬼の姿で祀られ、また、蘇我氏の寺=元興寺は、鬼の寺になったのではなかろうか。
=引用終了
ひじょーに唸ってしまう面白い解釈だ。確かにそう考えると、ここ法輪館にも祀られている不思議でならない聖徳太子の童像、なぜわざわざ童姿の像がそこかしこにあるのかも納得できるし、聖徳太子一族も蘇我一族も共に滅亡してしまったのもうなづける。

ガゴゼ(童子、鬼)伝説の伝わる元興寺には、境内にユニークな姿をした鬼の像がところどころにちょん♪と置かれている。人食い鬼を退治するときに道場法師がむしり取った鬼の頭髪は、長らく元興寺の寺宝としておさめられていたというが、今はなくなってしまったという。

あと、面白いなって思ったのが、境内におかれている蛙石。豊臣秀吉が気に入り献上された巨石・蛙石は、大阪城落城後は、大阪城乾櫓の対岸に投げ捨てられた。その蛙石だが、
蛙石から堀に入水する人が相次いだ。また、堀で溺死した人の遺体はすべて蛙石に流れ着いたという。たまたま水の流れと堀の形状上そこに流れ着いているだけなんじゃないの?って思うのだが、しかし、昭和15年に、大阪城の堀で溺れているところを救助された人のニュースが新聞紙上をかけめぐった。蛙石でスケッチをしていると十二単の女性が現われ導かれたので着いていくと堀に転落していたという。この不吉な蛙石には淀君の怨霊がとりついているという噂だったがこの事件で再び脚光を浴び、見物人で大層にぎわったそうだ。
わざわざ不吉な噂のたつものを群がって見物に来るというのも面白い。やっぱいつの時代も人間のすることは変わらない。大阪城に司令部があった陸軍は、大量の見物人がウザ過ぎて蛙石をどこかに捨てた。行方不明になっていた蛙石だが昭和32年に大阪市で発見された。発見者は知人の元興寺和尚に相談したところ、元興寺和尚は供養をしてくれ、いわくつきの蛙石は極楽カエルへ成就し元興寺に置かれることになった。極楽堂に向って誓願をたてた極楽カエルは、今では信仰対象になっている。
無事帰る♪ 福帰る♪ お金が帰る♪
人々が元興寺境内に好き放題勝手に町家を建て、土地を分捕られめっちゃ狭くなってしまったので、現在の元興寺は、世界遺産ではあるものの近くに来た際のちょっとした隙間時間に気軽に散策できる良スポットとなっている。
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テーマ : 主婦の日常日記
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