九度山
徳川方についた真田信之の決死の覚悟の助命嘆願により、死一等を減ぜられ高野山蟄居となった真田昌幸、幸村父子。幸村が妻子を伴っていたため、高野山蓮華定院のすすめで高野山麓の九度山で暮らした。九度山にはいつか行ってみたいと思っていたのですが、幸運なめぐりあわせでついに訪れる事ができた。
真田昌幸・幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺だという善名称院(真田庵)。真田昌幸・幸村・大助の3代の御霊を地主大権現として守護神として祀っている。福徳を授ける幸運の神・知恵の神として慕われているもよう。高野山の僧大安上人の前に白鷺が飛来し、「被屋敷を開いて地蔵尊の堂を建て、真田公を地主権現と仰ぎ祭るべし」 とお告げを受けひらかれたそうな。
今はこじんまりとした敷地におさまっているけれど当時は真田屋敷なかなか広かったそうなんですよねぇ。幸村はここ善名称院ではなく、ここから徒歩数分の所にある遍照寺の下方で暮らしたと言われている。

一見、綺麗なんですが、こうやって見るとちょいと修繕が必要のようだ。広々とした敷地に見えるけれども実際はこじんまりした質素な感じ。お父さんの真田昌幸はここで11年暮らし65歳で病没している。高野山追放となった際に16人の家来を連れて来ていたが、昌幸が死んでしまうと14人が上田に帰ってしまい、高梨内記、青柳清庵のみが幸村と共に九度山で過ごした。お父さんの昌幸氏を慕ってついてきた家来が多かったんですかねぇ。
しかし、御兄さんの信之に散々お金の無心をし、お金だけでなくお酒までくれ~と窮乏を訴え催促ばかりしていた逼塞中だった幸村のはずだが、
九度山での14年に及ぶ暮らしの中で幸村は子どもを11人も作っている。連れてきた正室と側室の間に5人(男2人、女3人)、側室にした隆清院(秀吉により切腹させられた豊臣秀次の娘)との間に2人(男1人、女1人)、そして出自が分からない側室との間に4人(女2人、男2人) の計11人。
自力で養えないで兄貴にたかり続けるならそんなに側室増やすなよ! とか 子どもそんなに作んなよ! とかツッコミを入れたくなってしまったりもするが、本来は死ぬところを兄貴の嘆願で生きながらえる事になったのだから、生きているのは兄貴の責任だ! だから面倒みろ!って感じだったと思うと理解ができなくもない。ん!? なんかちょっと変だな?? ん!???

また、九度山に蟄居中の幸村は、車で行ってもここから40分くらいかかる距離にある蓮華定院を往復し、ついに得度し好白という僧名までもらっている。僧侶になってまで戦闘を!?って一瞬思ってしまうが、まぁ昔の僧侶はそういうおっかない者だったり戦闘集団だったりするんでねぇ、おかしくないですわな。
さて、この戸↓を開けると、無人お土産売り場になっていた。戸を開ける前にエンマ様を意識するように貼紙がしてあるので、盗難は最小限に抑えられているものと思われる。

敷地内にすっごく小さな建物ですが真田宝物資料館というのがあって、開けると真っ暗で無人。完全に性善説にのっとった入場料入れにお金を入れ、自分で電気のスイッチを押す必要有。幸村の子どもたちが遊んだ手まりだとか日本人形、幸村が愛用していたという鎧兜や槍先やら、書状やら高野紙製造用具やら等などが展示されていた。正室の奥方が自ら真田紐を織りここでの貧しい生計を支えたなどと言われている。また諸国にこれを売り歩かせ情報収集していただとかも。

村の人たちとも仲良くやっていたようだし、ここで皆で楽しく静かに暮らしていればいいものを・・・・大阪城から使者が来て頼み込まれたからと言って引き受ける必要なかったのにねぇと思うのだがねぇ。ことのほか病身になっただとか歯が抜け白髪が増えたとか兄貴に手紙でしたためていたほど老いてきていた実感のあった幸村だったはずがまた戦いの道を選び49歳で討死するとは。。。
でも、ここで静かに村の人たちと暮らしていたら、真田の名はここまで後世にまで響き渡ることはなかったんですよねぇ。。。。最後に大暴れして天下に名をとどろかせてこの世を去ったという感じでしょうか。。。しかし、幸村は実は死んではいなかった説などもあるが、だとしたら結局逃げ落ちた先で静かに暮らしたのだから九度山での暮らしと何が違うのだろうとか、九度山での暮らしの方がよくね? とか思ってしまったりもする。
まぁ、負けるつもりで戦にうってでたわけではなく、なんとかして勝利をつかみ一発逆転を狙ったのだろうから、勝負にでた!って事なんでしょうけれどねぇ。あとは、大阪城から来た使者が当座の支度金として黄金200枚・銀30貫を当座資金として持参してきただろうことを考えると、この金で家族楽になるな♪ とかグラッときたのかもしれんが。
大阪城落城したのが5月8日、幸村の妻と娘は警護の3人と共に浅野長晟に捕らえられた際に、幸村の妻が大判57枚を持っていたということなので、大判57枚って相当な額ですよねぇ。
電柱の絵(笑) 幸村ってこんな可愛かったんですかね?? で、ここが真田の抜け穴伝説が囁かれた、大阪城まで続く秘密の抜け道と言われていたところ。和歌山県にあるこの九度山から大阪城までの地下道を作ったのだとしたら凄すぎるが、実際は地下に造られた石室で横穴式古墳だったとの事。今では本来の埋葬者には失礼だが真田古墳と呼ばれているもよう。しかし、人の想像力って凄いですね~。蟄居させられていた真田氏が住んでいた地ということでいろいろ考えたくなってしまうのもよ~わかる。確かに大阪まで続く抜け穴を作っていたとしたら壮大なロマンですよね~。

真田父子は、家康に赦免を願い許してもらい故郷に帰るのを手紙にしたため頼んだりしているのだが、許されることはなかった。実は赦免を願ったのは単なる目くらましであり、徳川打倒の為に臥薪嘗胆で過ごした等と言う説もあるようだが、残念ながら負け惜しみのようにしか聞こえない。ここでの貧しく不自由な暮らしから抜け出したく故郷に帰る事を願いながら叶わず死んでいった昌幸。
しかし、ここ九度山で誕生した幸村の息子の大助が立派な武人に育っているので当時の価値観やら武芸やらをしっかり叩き込んでいたのだろうなぁというのはよくわかる。
お次は、真田ミュージアム。ちなみにここまで全部徒歩数分圏内。このように順を追って詳しく簡潔に真田家についてまとめられていて、ここに来れば真田ってなにそれ?って人でもいっぱしの真田通になれるというよくできたミュージアム。

文字を読むのが苦手な場合はこういった映像も用意されているので子どもでも楽しめるだろう。前方にある映像ボタンを押して席に着こうと振り返った時に、うわっ!ってビックリしてしまったのだが、実は秘かに人と同じ大きさの忍者の人形が隠れている。どこだかわかるかな??

大坂夏の陣・冬の陣についても詳細に説明がなされていて、またさらに映像も用意されているのだが、しかし、冬の陣での幸村の大奮闘を見て家康は、10万石をあげるし誓書も差し出す! と味方にしようと擦り寄りを開始。丁寧に断った幸村に、今度は、信濃一国を呈する! と言ってきたそうだが、幸村はそれすら断っている。んん~、なんとも人間的にはと~っても好きだが、もっと器用にうま~く生きれなかったのかと思ってしまったりもするが、でもこういうところが幸村の魅力の一つでもあるんですよね~。

しかし、痛々しいのは幸村の長男である真田大助氏も九度山から父と一緒に大坂冬の陣・夏の陣を戦い、最後には自害したとされている。14歳だったんですねぇ。

幸村の戦いぶりは、徳川方からの絶賛され 日本一の兵! と称された。個人的にはそんな称されなくていいから九度山で楽しく静かに暮らしとけば良かったのに。。。って思ってしまうのだがねぇ。。。男のロマンは私にはわからないや。
しかし、幸村は130人~150人と共に秘かに九度山を脱出。さらに高野山僧集団123人も山伏の装束を着て脱出、また那賀郡武士30人~50人程度も九度山を脱出し、天王寺でこの3集団が合流し幸村軍は総勢300人にもなったというから驚きだ。

ここから先は真田の抜け穴をイメージして作られていて、石壁の洞窟のような中を進んでいく。ここ九度山にあった真田の抜け穴伝説は間違いだったとしても、真田丸に通じる複数の地下道を幸村が作ったという話は有名だ。安居神社や一心寺や三光神社などの抜け道が有名である。
また、真田といえば忍者が浮かぶが、ここ九度山でも屋敷のいたるところが忍者屋敷になっていたという想定で、複数の仕掛けを楽しむことができる。徳川打倒の悲願を持ち臥薪嘗胆の真田父子の家ならば大いにあり得る設定ですね。真田十勇士の中でも幸村の影武者として死んでいった者も複数いますしねぇ。

そして、実は、真田幸村は生きていた! 説や 徳川家康は大坂夏の陣で死んでいた! 説などが写真付きで説明展示されていた。幸村が最後逃げ延びて鹿児島で山伏として生を全うしたなどは非常に夢があり良いなぁっと思うのだが、お母さんの淀君に翻弄されたお飾りの操り人形だったのかもしれないが、しかし、仮にも大将であった豊臣秀頼までもが鹿児島に逃げ落ちたという話にはなんだかなぁって思ってしまう。あれだけの人を巻き込んで人を沢山死なせておいて自分だけさっさととんずらして生きながらえるってねぇ。。。な~んかモヤモヤする。そこで更に力をつけて反旗を翻すとかでもなく、静か~に暮らして一生を終えているんですからねぇ。
また、逃げ落ちたのが鹿児島の地ではなく、実は奥州で、秋田県大館市の一心院には真田幸村とその長男真田大助の御墓があるという。鹿児島にも御墓があると言われているし、果たして何が本当なのか???? 幸村と大助たちは生きていてほしいが。
あと、近頃はなんでも可愛いアニメにしたほうがいいのかもしれませんね~。真田十勇士の可愛いイラストや動画が流れていて、アニメ好きの人も逃がさねぇよ!的なお作りになっていた真田ミュージアム。
企画展だかで日本刀の展示がなされていた。

そしてここ、お楽しみコーナー。備え付けの手裏剣であの白黒の碁盤目状の的に、そして輪ゴムを弾に見立てた銃であの小さな的を撃つのだが、実は手裏剣は、以前、甲賀の里 忍術村で2回練習した事がありなかなかの腕前になっているのだ。で、やったら、やはりビシッと狙ったところに決まった! ふん! あと弾も銃を構え輪ゴムをぶっぱなし全部一発で倒していった。意外と使えるかもしれませんよ、私。クククク

真田紐やら六文銭やらを使ったりしたのも含めいろいろなお土産も売られていた。おっ! と目を引いたのが、”日本一の兵” と印字されたTシャツ。一瞬買おうかなって思ったが、しかし、戦う気ないのに ”日本一の兵” って書かれたシャツ来て歩いてたらどうだろう??と考えてやめた。いや、家で着る分として買っても良かったな。
しかし、あ~、念願の九度山に来れて良かった♪
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