ここは、當麻蹴速之塚と彫り込まれた石柱、そして由来書が刻み込まれた石碑がある。そして、写真には載せていないがここの資料によると、當麻蹴速を偲び鎌倉時代に建てられ地元の人たちに大切に守られ続けてきた當麻蹴速のお墓だという五輪塔がある。
だが、この當麻蹴速の御墓と伝えられてきたものは、奈良時代後半にこの地で生きた、豪族當麻八郎為信氏の御墓だった、としてこの地の郷土史家さんにより立証がついているとの説もある。が、公式では、ここの五輪塔は當麻蹴速の御墓とされている。

さて、當麻蹴速とはどのような人物だったのだろう? 當麻蹴速は心根のとても優しい人物だったと伝承されている。しかもとても力の強い人物で、素手で角をへし折ったり、曲がった釘を伸ばしてしまうほどの怪力だったとの事だ。力は強いが、大変に心根が優しい人物だったので、里の誰からも好かれ慕われていたという。
第11代垂仁天皇が當麻の里に使いを出したところ、里の人々は皆口々に自慢げに答えた。「當麻蹴速様のお蔭で皆平穏無事に暮らしています。日本一の力持ちで、国広しと言えども、蹴速様にかなう者はありますまい♪」 と。
使いの者が帰り、天皇に 「(當麻の里の當麻蹴速は) いつも人に語るのに、日本の国ひろしといえども、とうてい自分の力にかなう者はあるまい、なんとかして力の強い者にあって命懸けで力比べをしたいものだ、と豪語しております。」 と報告したと日本書紀に記されている。
尋常ならぬほどに里人たちが安心して暮らし、里人たちに慕われて愛されている蹴速のことを、腹立つわーー! と近侍たちが妬み僻みで嫌~な感じで垂仁天皇をそそのかしたのかねぇ。垂仁天皇は、「當麻蹴速に勝る怪力を探し出して相撲をとらせてみてぇーー!」 と言った。
すると、家来の一人が 「出雲の国(奈良県桜井市出雲)に野見宿禰という怪力がいてどんな大岩でも持ち上げると評判」 という事で、「おもろそっ! 二人に相撲を取らせようぜっ。」 っとなった。
當麻蹴速と野見宿禰の相撲決戦の日は7月7日。天皇がご覧になる天覧相撲ということでとても多くの人が集まってきたという。二人とも互角に戦っているところ、一番前にいた子どもが突然泣き出した、とも、土俵に飛び出してきたとも伝えられているが、とにかく心優しい蹴速は、その子どもに気をとられ動きが一瞬止まってしまった。その隙に、野見宿禰は當麻蹴速の手を払いのけ、當麻蹴速に飛び蹴りをくらわし、あばら骨を折り、腰の骨を踏み砕き蹴速をぶち殺した。
垂仁天皇は、「あぁおもろかった! 當麻蹴速の領地ぜ~んぶ没収するわ~。宿禰、おめえに全~部やる♥」 と、當麻蹴速の領地をすべて野見宿禰に与えた。
心優しく慕われていた當麻蹴速の事を、里人たちは里の誇りとして今も伝承し続けている。かつて當麻蹴速の領地だった地では、このように當麻蹴速がとても優しい人物だったこと、里人たちに慕われていたこと、とても力が強かった事、などが伝わっている。

この二人の戦いの行われた日、垂仁天皇7月7日が、相撲の起源とされている。で、ここ↑が、相撲館。
でも、実は、蹴速と宿禰の戦いよりもずっと前に、葦原中津国(出雲)をおさめていた大国主命の二男建御名方神と、天照大神から命じられた国譲りの交渉役建御雷神との 国譲りの大相撲 の話が古事記におさめられており、これが、日本の相撲史の最初だ。相撲に敗れた側の建御名方神は信濃国(長野県)の諏訪に移り、彼は祭神として諏訪湖畔にある元官幣大社、諏訪明神に祀られ、武神、相撲の神、農業の神、などとして尊崇され、その地では古くから奉納相撲が行われている。
この時、相撲に負けた建御名方神は、相撲の試合でぶち殺されたりはせず、国を譲り自分の根拠地の信濃国に居住をうつした。建御名方神と建御雷神との相撲試合が、日本の相撲史の一番最初の記録となるのだが、相撲と言えど負けた方の命を奪う、などいう事はなかった。
が! 當麻蹴速のあばら骨を折り、腰の骨を踏み砕きぶち殺した野見宿禰ををよくみせようとする勢力がいたんですねぇ。。。当時の相撲は、相撲といえども、どちらかが死ぬまで行った、そういうものだった! 等とまことしやかに伝えられているが、な~んか変だと思いません? そもそも建御名方神は殺されていないし、しかもこの蹴速と宿禰の相撲が日本の相撲の起源!なのだとしたら、以前にそんな試合なかったのですから、相撲はどちらかが死ぬまで行う事!なんていう取り決めもなかったんですよねぇ。ねー、変ですよねー。
この地に伝わる伝承では、當麻蹴速と野見宿禰の試合の時に従者がかけた言葉が、「どちらかが降参するか、精魂尽き果てて倒れるまで相撲を取り続けろ」 との事だったそうですねぇ。降参するか、疲れ果ててぶっ倒れて闘う気力をなくせば、済む話だったんですがねぇ。宿禰はそれをぶち殺した。
つまり、残虐な野見宿禰が、當麻蹴速の腰骨を踏み砕いてぶち殺したのを、さぞ当時はそれが当たり前だったんだからしゃーないやんけ~♪ と思わせているという事ですよねぇ。まぁ生き残ったのは野見宿禰の方ですからねぇ。
そうでなければ、もし本当に当時の相撲はどちらかが死ぬまで行う事! という取り決めがあったのを知っていて相撲をとらせて楽しんでいたのだとしたら、どちらかが死ぬのをわかっていて天覧相撲を行わせた垂仁天皇があまりにもバカで軽薄軽率すぎるあまりにも物を考えないパッパラパーの人物だったという事になる。それか、根っからの残虐好きで人が死ぬのを見て楽しむサディスティックな病んだ人物だったのか、それとも人々に愛され慕われている當麻蹴速に己の心の醜さから勝手に脅威を感じて、ぶち殺しておかねぇと俺ヤベェな! と策を練ったのか、どれかという事になる。
では、ちょっと中に入ってみよう。なっ、なんと! 相撲の伝統的な稽古方法の一つで、柱に向かって左右の突っ張りを繰り返す、これを体験できるとの事だ。


ハハハハハ。マスクさせてらー。大草原
コロたんが危険!ってことで受付で個人情報の提出を求められた。うわ~、旗がいっぱい!

この土俵↓は、国技館の土俵と同じにつくられているとの事。「ただ、神様も祀られてないので女性もあがっていいんですよ♪ 塩もまいていただいて大丈夫です♪ 写真も撮っていただいて構いません。ごゆっくりしていってくださいね♪」 と、とても優しく感じの良い受付の方だった。感じの良い方と会うと気分良いですね~(^^♪

そして、こっそ~り塩を手にとり撒いてみたり、土俵にのぼってみたりした。意外と小さな丸で、ここから出ちゃ負けかぁと、こりゃすげぇな、と体感した。
このような丸い土俵ができたのは江戸時代に入ってからで、それ以前は、観覧人がつくる丸型の人垣だったそう。江戸時代になり相撲興行が盛んになり、四本の柱を立てて紐で結んだリング状土俵となり、それが次第に丸い現在の土俵に変化していったという。
1階に土俵があり、左右に観覧席が階段状にずらっ~とあり、2階の回り廊下っちゅうのとも違うし、キャットウォークとでも言うのでしょうかね、体育館の2階にある細~い廊下みたいな所は展示室みたいな感じで、写真や資料などがずらっと細かく展示されていた。
これ↓は、十両以上からしか所有できない! と説明書きに書いてあった。自分の化粧廻しや締め込み、下がり等を入れておく行李で、巡業の時には旅行鞄になるんですな。でけぇーー!

ここ↓は、相撲館から車で10分かかるかな?数分の所にある 相撲発祥伝承の地、腰折田だ。腰折田って地名になっているのですが、どう思います? 野見宿禰の人柄がよーくわかると思いません? 蹴速をぶち殺し、蹴速の領土を全部もらいウハウハの宿禰。その蹴速の領地に、わざわざ腰折田なんて地名にしているところが性格の悪さが露呈し過ぎているように感じませんか?

蹴速は里の人たちに愛され慕われ、今でもこの地の方々は蹴速のことを大切に敬い伝承し続けている。でもそれを5000歩譲って、この里の人たちが 「蹴速、弱っ! ダッセー! 腰が折れて死んだから、蹴速を侮辱し続け宿禰を持ち上げるために、ここ、腰折田って地名にしようぜ!」 となったとする。
仮にも宿禰は、蹴速の領地を全部譲り受けた人だ。自分の領地で里人たちがそんな性格の悪い意地悪な地名をつけて、自分と戦った蹴速のことを嘲笑っていたとしたら、叱り飛ばすところだろう。本来なら命をかけて闘った蹴速を尊重し、「今後ここは、蹴速 という地名とする!」 などと宣言すべき立場だろうよ。まぁ、もうこれで野見宿禰の性格の悪さはもうバレバレですね。腰折田とは、宿禰がつけたんだろうねぇ。あばら骨と腰の骨折って蹴速をぶち殺したから、腰折田♪ ざまぁ、ププププ ってこんな感じだろかな。まぁこの地名がいつからなのかは知りませんが、
ほれ↓ 蹴速亡き後も、里人たちは未だにずっと當麻蹴速の事を大切に思い続けている証拠。

いやいやいや、野見宿禰はそんな奴じゃねぇぜっ! 人型埴輪考案し、殉死を止めさせたの宿禰だろっ! 宿禰は優しい奴だぜっ! 等と仰せの方がおられるかもしれません。
まぁ、いいですよ、そもそも殉死ってあれ酷くない? 位の高いとされている人が死ぬと、生前その人の従者だった人たちをその貴人とやらの御墓のまわりに生き埋めにしていたというではありませんかい。その人たちの泣き叫ぶ声が昼夜関係なく聞こえていたというではありませんか。酷っいよね。
まことしやかに伝えられているところによると、垂仁天皇の皇后日葉酢命が崩御した際、殉死に胸を痛めていた垂仁天皇が、周囲の者に相談したところ、野見宿禰は土器製造家300人を招き、粘土で人や動物など様々なものを作らせ、殉死させる代わりにこれらの埴輪を一緒に埋めましょう♪ と上奏し、垂仁天皇は喜び、これを機に殉死の風習がなくなった、等と言われている。
まぁ、殉死が酷すぎるだけに、殉死に胸を痛めた垂仁天皇だとか、人型埴輪を考案し殉死をやめさせた野見宿禰だとかが、良い人ー! 英雄ー! 機知に富んだ人ー! 優しいー! とかなってしまいますよねぇ。まぁ本当の事言っちゃうと、垂仁天皇が 殉死制度禁止! って命令すれば済んだ話ですよねー。殉死制度がおもしろいからってさー。

でも、ここはひとつ、冷静に考えてみましょう。Wikipediaにも記載があるように、人型埴輪が出現するのは5世紀後半以降、というのが考古学上から導き出されている。では、優し~い垂仁天皇や賢~い宿禰が生きていた時代というのは、まぁいい、5世紀後半とはいわない、せめて5世紀だったのだろうか。。。。
いや、違う。彼らが生きていたのは4世紀前半ではなかったかな?
はい、バレましたーww
野見宿禰が人型埴輪を作り殉死をやめさせたー! だとかは捏造だという事が。あまりにも有能な當麻蹴速に脅威を覚えた垂仁天皇が、そうですねぇ蹴速が会場に向かう途中に罠をしかけて怪我させたりした可能性も考えられますねぇ。。。ケケケケ で、野見宿禰と相撲を取らせ、あばら骨と腰の骨を折らせ殺させたと。蹴速の領地を全部取り上げ宿禰にあげ、宿禰は垂仁天皇のコマとして働き続けた、という事だ。
里人に慕われ愛された當麻蹴速をぶち殺しただけでは体裁が悪いので、優しく賢い垂仁天皇と野見宿禰♪ との印象付けのために、人型埴輪を考案した! だとか、殉死をやめさせた! だとか捏造したんだね。考古学が全てを語っているねー。
最後に一つ言っておく。私は、當麻蹴速の味方だ!!
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