日本一高い山城2
鎌倉時代に秋庭重信が大松山に城を築いたことから始まった備中松山城だが、1683年に水谷勝宗が3年がかりで修築している。国指定文化財になっている天守。その柱、昭和15年の解体改築の時に朽ちていた柱の部分だけを取り除き昔の古い柱と繋げているので継接ぎ柱になっている。昔の方が木材どっしりと良い丈夫な柱だなぁ。

天守内をぐるっとまわると柱や壁にけっこう穴が開いている箇所があって、どうみてもシロアリにくわれているんだと思うんですが、手入れしないとなんかヤバそう。
この階段をのぼると装束の間。籠城の際の城主の居間であり、万が一の時はここで自害するための部屋。床板敷の下には石が敷き詰められていて忍者でも忍び込めない造りになっている。

装束の間はこんな↓だった。出窓風なのがいい感じ。しかし、切腹想定をしあらかじめその為の場所が造られているというのがなんとも。今でいう災害想定みたいな感じなのかもしれないけれども。。。
備中松山城を乗っ取っていた上野氏を破り占領を始めた庄氏、庄氏を追放して城を乗っ取った三浦氏。こんな風に目まぐるしく分捕り合戦が繰り広げられる群雄割拠の地だった備中松山城。宇喜多氏に父家親を暗殺された三浦元親が備中松山城主となった。が、毛利氏と宇喜多氏が同盟を結んだのに怒り、毛利氏から離反。怒った毛利氏が周辺城を次々に陥落させ青田狩を行い、三浦氏側は備中松山城に籠城すること1か月。力尽き陥落し、三浦元親は切腹の願いを聞き入れられ松連寺で自刃。
なので実際はこの装束の間で、切腹は行われていない。

天守の中に囲炉裏があるのは珍しいんですね。説明書きでは、”籠城時の城主の食事、暖房用に用いられた” と書かれているが、聞くところによると囲炉裏は一度も使われたことがないらしい。とは言え誰もが当時から生きていたわけでもないからなぁ。。。実際はどうだったのか??? 当時の炊事場は天守よりちょっと下の位置に今はお手洗いになっているがありましたし。

窓の柵の角材の角を表に向けV字型になっている武者窓は、外からは中の様子を見えにくく中からは外を広域に見えやすくすると共に、鉄砲の可動域をあげるための工夫で、細部までがやはり戦いを想定した造り。石落としなどもありましたし。
柵についた黒い手形などのような黒い汚れは、臥牛山に棲むニホンザルさんの手の跡だと知って驚いた。猫城主が来てからはニホンザルもあまり姿を見せなくなったようだが、それ以前は雨が降るとここにきて手でつかまり足を城内に入れて腰かけて皆で体を寄せ合って雨を逃れていたって可愛い!

この急な狭い階段を上った先にあるのが、御社壇の間。途中に踊り場を設ける事で敵の侵入を防ぐ造りになっている。滑り止めがちゃんとついていて昔の人の丁寧な仕事に感心する。
1683年、天守の修築完成の時に水谷勝宗城主が、藩の守護として御社壇を設け、三振りの宝剣を奉納すると共に天照皇大神や羽黒大権現など10の神々を安置した。このお城は戦いの時に使われるだけで、城主が来るときはこの階段をあがり神様をおまいりに来られていたという。
両方に刀がついているレプリカの刀が展示されていて、本物は写真だけ飾られていた。
空き家だった御武家さんの家の蔵からボロボロの刀が見つかり、それが宝剣だったというから驚きだ。蔵からは沢山の物が盗みに盗まれたそうだが、ボロボロの刀だけはボロ過ぎたためか置き去りにされていた。それが6億円で売れたというのだから泥棒にも深い知識や真贋が必要だという事が分かる。6億円は大金過ぎて高梁市では買えず、岡山市の博物館に展示されている。

さて、備中松山城の最後の城主板倉勝静は、寛政の改革で有名な松平定信を先祖に持つ桑名藩主松平定永の八男だ。1842年に板倉勝職の養子となり、1849年27歳で藩主を継いだ。
勝静は1857年に寺社奉行になったが、安政の大獄の政策について井伊直弼に真っ向から異を唱え即刻罷免されている。1860年に井伊直弼が桜田門外で殺害されると、寺社奉行に再任され1862年に老中となった。
勝静は徳川慶喜の老中首座で謂わば現在の総理大臣のような役職。大政奉還の時も徳川慶喜の両脇に会津若松の松平容保と共に坐していたという。大政奉還の草案を作ったのは備中松山城主板倉勝静の政治顧問の山田方谷だと言われている。
大政奉還後、板倉勝静は徳川慶喜と別れ、日光東照宮に籠った後に会津入りし、更に北海道函館まで行き、五稜郭で新選組土方歳三と共に戦っている。徹底抗戦するところを説得され新政府軍に投降し終身禁固刑となり、のちに赦免され、上野の東照宮の神官などをつとめたりして天寿を全うしている。
板倉勝静殿、ちょいとこれ酷いんでねぇの? って思うのが、鳥羽伏見の戦いの時に、板倉勝静の親衛隊長として活躍した熊田恰に帰藩を命じ、熊田恰が戻るとさっそく明治政府の意を受けた岡山藩兵に囲まれ、戦うか従うかとなった時に熊田恰は己のみが自刃することで無血開城し皆の命を救った。今も残る柚木邸熊田恰自刃の間は、未だに天井や壁に切腹の時に飛び散った彼の血痕が残ったままだという。一方、板倉勝静殿は結果的に天寿を全うしている。勝清が死ねばよかったとか思っているわけではない。が、あんまりすぎる。
また、この高梁市からは新選組近藤勇の養子となった近藤周平(谷昌武)が出ていて、池田屋襲撃事件では近藤勇と共に切り込み、二階から逃げてくる敵を田楽刺にし武功をあげたという。怖ぇな。

帰りは裏道から下に降りた。命を懸けて城取合戦を行った壮絶な歴史を持つこの地も、今では猫を見に人が集まるのどかな場所になっていた。切った貼ったの血生臭いのは嫌だな。まぁ風邪を宣伝し恐怖をあおり、風邪に効くよ♪っと毒を体内に喜んで注入してもらい安心しているのに何故か死亡者や心身不調者やかえって風邪にかかりやすくさせるという一見平和で友好的に見えるのに実はとんでもない戦争なんてのもあり、結局は昔も今も変わらねぇな。怖っ!! でもまぁ、皆が安心して幸せを感じているだけ現代の方が全然マシなのかと思う、日本では一応任意だしなぁ。
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