善き手本


ここは、岡山県和気町。俗界と聖界の境にある橋と言われる霞橋を渡るともうそこは聖域。

そしてこの赤い霞橋の左側の場所、藤公園は日本一の藤の名所。各県の藤一本ずつ植えられていて更に全国各地の100種類ほどの藤が植えられている。春には一斉に咲き誇る藤の花を愛でる藤まつりが行われ賑わうそう。また目の前を流れる日笠川には、蛍が生息しているんですって。

このあたり、和気町藤野という地名なので、もともと藤が咲き誇る地だったのでしょうね。721年時点では藤原郡という地名でしたが、726年に権勢を謳歌していた藤原氏に遠慮して藤野郡と郡名変更したと伝えられている。

和気神社


見る限り和気駅もとても小さな田舎の駅ですし、見渡す限りお店らしきものも一軒もなくここの町に住む方々は一体どうやって暮らしているのだろう??って不思議に思うほど静かな町。ここ和気神社の入り口に降り立った時、空に虹がかかっていて見惚れてしまった。



和気神社はもともとは和気氏の氏神で、古代和気氏一族をまつっている御宮だったんですね。ここ和気町藤野は和気清麻呂・和気広虫の誕生地と古書などから推測される場所だ。1871年(明治4年)の神社明細帳には猿目神社と記載がある。1909年(明治42年)には藤野坂本の小社大内社と小社国造社を合祀し、この際に和気清麻呂、和気広虫(和気清麻呂の姉)、弟彦王(主神鐸石別命の曾孫)が祭神として加えられた。日清・日露戦争を終え、韓国併合がなされる少し前あたりでしょうか。


明治維新の後、明治政府は必死だったんですね。皇国史観を全面に出し歴史上の人物を忠臣と賊臣に分け、見事忠臣と認められた和気清麻呂は、京都の護王神社に祭られるとともに、ここ彼の生誕地でも大々的に祭られたんですね。なんだよ、明治時代かよ~ってちっと白けてしまいますがまぁしゃーないですね。いろいろ事情というものがありますから。ハハハハハ


1914年(大正3年)に和気神社と名称を変え、1919年(大正8年)には、村社だったものが異例の出世???をし県社に昇格している。”和気清麻呂の忠烈無比を顕彰することは国民教化の上で是非とも必要である” だと。

ここ和気町藤野の村誌によると、1591年(大正19年)には、藤野田ケ原の田ケ原八幡宮をこの地に移し、天鈿女命、猿田彦命をまつり、武運の神として崇敬を集める応神天皇(八幡大神)を相殿にした、と記述されている。そしてこの和気神社は、今でも清麻呂の末裔が代々宮司をつとめているとされなんか感動するぅ。

和気神社


で、これ↓が和気神社入り口におわします和気清麻呂像だ。んん~、なんとも思慮深そうで凛としていやぁ素敵ですなぁ、こりゃ良い男ですなぁ。んん~、実に格好良い☆

当時は、郡司の子息は朝廷への貢進義務があったので、和気広虫(清麻呂の3歳年上の御姉様)が貢進されたのですが、ずば抜けて素敵な女性だったのでしょうか、後宮の役人である葛木連戸主に見初められ都で異例の結婚をし、またとても優秀だったのでしょうか、女官に昇進してしまい藤野郡は無貢進郡となってしまったので、和気清麻呂が朝廷に貢進されこの地から都に旅立っていったのだった。

和気神社


和気清麻呂は、朝廷務めの義務年限が終わっても帰郷せず官人採用試験を受け見事合格した。男性の場合は官人採用試験に受かったとて、当時の生まれによる差別の壁は計り知れず、いくら優秀だとしても出世には限りがあった。高官の子息なら面白いように昇進できるが、和気氏は貧郷郡司の子ですからねぇ。でも御姉様である和気広虫女史が孝謙天皇に気に入られ側近女官として重要任務に携わっていたので、このツテと己の能力を使えば出世できるかも!と踏んだのかもしれない。知らんけど。

見事大当たり。通常ならいくら頑張ったとて和気家の家格では50年はゆうにかかるとされる位階に清麻呂は33歳で昇格している。あり得ないほどの昇進スピードの清麻呂ですが、それでも、わずか5年で法王にまでのぼりつめた道鏡には全く及びませんが。


和気神社

道教と淫らな関係となったことを淳仁天皇に諭された孝謙上皇は怒り、保良宮から奈良の法華寺に移り尼になったが、側近だった和気広虫(清麻呂の姉)も共に尼となり、法均と名乗っている。ここから孝謙ちゃんの反撃が始まるわけですが・・・。

宇佐神宮については嘗て記したことがありましたが、それよりはるか昔、嘗て経済的に行き詰まり東大寺建立が危ぶまれた折、宇佐八幡の神託により金鉱が発見され東大寺が無事建立し、それから宇佐八幡宮は、朝廷から多くの喜捨をもらえるようになった。806年の記録では、宇佐八幡封戸1660戸に対し、伊勢神宮封戸1130戸であり、宇佐八幡宮が伊勢神宮よりも特別扱いされていた重要な御宮と認識されていたことがわかる。



神意を世俗の人々に伝える神託は、神宮の巫子の口を使いもたらされるものであったが、大分県の宇佐八幡の大宮司は宇佐氏。その宇佐八幡の主神は大宰府の神社担当の長だったのだが、その長というのが弓削清人(道鏡の弟)の子分の習宣阿曽麻呂。また、大納言兼大宰府の長官となった弓削清人は、道鏡の弟であり、神託は、

孝謙ちゃんの愛人の道鏡→大宰府の長官の弓削清人(道鏡の弟)→宇佐八幡主神の習宣阿曽麻呂(清人の子分)→宇佐八幡の大宮司宇佐氏→宇佐氏の子飼いの巫子ちゃん

という図式で行われるものになってしまい、どんなバカがどっからどうやってみても神託もなにもあったもんではなかった。


和気神社

769年、宇佐八幡の神託 ”道鏡をして皇位に即かしめば天下大平ならん” がおろされ都に伝えられた。

広虫と共に孝謙ちゃん御側に仕える右大臣吉備真備の娘である明基が孝謙ちゃんに、「宇佐でもう一度同じ神託が出れば誰も口出しできないわよ♪」 とささやいたことをきっかけに、孝謙ちゃんは「広虫を宇佐八幡に行かせろ」 と夢で見、広虫は、「弟の清麻呂に行かせた~い」 と言い、清麻呂の宇佐八幡行きが決まったのだった。


そこで神託が朝廷に伝えられた1か月後に37歳の和気清麻呂は都をあとにし、宇佐八幡宮に到着。沐浴潔斎してあらわれた清麻呂を前に巫子の口からおろされた神意とやらは、「道鏡をして天位に即かしめば天下大平ならん」 だった。失笑の限りだが、都出発前に道鏡から更なる出世を約束されウハウハに暮らせるはずだった清麻呂。そのまま大人しくしていればよいものを性格なのでしょうか、曲がったことが嫌いだったのかなんなのか。正しい神意を!! と言って譲らず祈り続け気絶。

道鏡無道♪ 天之日嗣は皇緒に♪ とか神の声が聞こえてきたという・・・・。


でもこれって、人間が極限まで追い詰められ意識を失った恍惚状態になると、普段から自分が自分に語りかけている言葉や思想が自分に語りかけてくるようになるという、それですよね。孝謙ちゃん勢力の一員として名を聞かせていた清麻呂も心の底では、道鏡無道♪ 天之日嗣は皇緒に♪ とか思っていたということなのでしょうかね?

まっ、素直にその御神託とやらを伝えた清麻呂と広虫は二人そろって官位を剝奪され罵詈雑言を浴びせられそれぞれ別々の地に流刑となった。また広虫の先輩である吉備真備の娘の明基も「広虫と身は一つ」とされ女官をやめさせられている。今は倉敷市に合併され倉敷市真備町となってしまいましたが、吉備郡真備町という地名を知った時は、すげー、名前がそのまま地名になっとるわ~!と感動したことを付け加えておこう。


広虫女史のこんな可愛らしい像がおかれていますが、彼女偉いですよね。折角ウハウハに暮らしていたのに弟のせいでひどい目にあったのに弟に恨み節を語ったとか、何かしたとかいうのは見聞きしません。弟ガチャとか言わないところもいいですねw

和気神社

日本後記にも ”広虫は貞純な人柄で、節操にかけたことがない” とか ”桓武天皇が役人たちに言われたことがあった。『お前らは平生さんざん悪口を言い合うが、広虫だけは一度も他人を悪く言ったことがないぞ』天皇はこれを従容をして仰せられた。” などとあるので彼女のお人柄はこれで十分わかりますなぁ。こういうのを素敵な女性というのでしょうね~。


15歳頃に見初められ葛木連戸主と結婚した広虫女史ですが、夫が若死にしその後働き続け、道鏡事件で流罪となったものの称徳(孝謙)ちゃんが亡くなると都に呼び戻され元の官位に戻され生涯働き続けたキャリアウーマンだった。また、都の孤児たち83人を集めて養い、葛木姓を名乗らせ養子にしたりしている。この福祉政策を実行したのは広虫が日本初!だったと言われている。先日書いた花街島原の太夫とかは、いくら最高の女性!とかもちあげられていても良いな~とか全然思わないのですが、広虫女史は心底素敵な女性だなって尊敬する。


階段下の拝門前の狛猪さんはノーマスクだったのですが、拝殿前の狛猪さんは2体ともマスクをしていて吹きました。ww

和気神社


拝殿横の小さな小道を行くと拝殿の後ろにひっそりと本殿があります。石柵とでもいうのでしょうか、それすら ”危険! さわらないでください” としなければならないほど老朽化しているみたい。もちろん本殿にも近寄ることはできません。

和気神社


重要文化財の貫禄が感じられます。掃除をしている宮司さんがおられるだけで誰もいず静かだった。

和気神社


もみじ山には、ところどころに短歌が刻まれた看板がたっていて情緒あふれる。

和気神社


こっ、これは・・・・! 写真が見づらくて残念なのですが、”清麻呂公の災難を救ったいのしし” と猪さんの剥製が展示されている。それも大きな猪さんから子どもの猪さんまで。

宇佐八幡宮神託事件に際し、清麻呂は官位剥奪の上、大隅国(鹿児島県)に流罪に処せられ、罪人用の輿で都を出発。道教は、裏切り者の憎っき清麻呂を血祭りにし殺すよう命令し刺客をはなった。突然の雷雨で到着が遅れたもののまさに清麻呂の輿に切りかかろうとしたその時、称徳女帝がはなった緊急勅使が間一髪で到着し ”追い討ち相ならぬ” との事でギリギリ助かった清麻呂。

脚を悪くし歩くことが出来なくなってしまった清麻呂のもとに300頭の猪があらわれ輿の前後左右を守りながら宇佐神宮までの道を10里ほど先導し山中に消えた、とか、猪に案内され霊泉に行き足を浸けたら足が治り歩けるようになったとか伝えられているが、とにかく参拝する時には歩けなくなっていた清麻呂の足は元通りになり普通に治ってたみたいなんですよねぇ。不思議ですねぇ。


和気神社


って、生まれも育ちも今も和気町という御爺様とお話しさせていただいたのですが、「猪は比喩だと思うんだけどねぇ、猪は比喩だなぁ。」 ってその方も仰っておりましたし、実は私もそう思っていたんですよねぇ。一説では、和気氏と親交の深い秦氏の配下の住人たちが清麻呂の護衛をかってでた、というのも読んだことがある。

でも、こうして 清麻呂公の災難を救った猪 と称した剥製が展示されているのですからどーなんでしょーねー。この剥製がイメージなのかマジなのかなんなのか。イメージかな? それとも本当に猪さんが!? とは言え、護衛したあと静かに山に消えていく猪の何匹かを、記念に仕留めたるわっ! とぶち殺し剥製にしたなんてのは考えられませんから、少なくともその時の猪ではないことは確かでしょうねぇ。。。多分ねぇ。。。まぁ猪好きの私としては猪さんがこうして崇め奉られるのは非常に喜ばしい事☆彡


称徳女帝亡き後、光仁天皇になると都に呼び戻された清麻呂。この時の権力者は藤川百川だったと思いますが清麻呂は冷や飯を食わされていたような。781年、桓武天皇即位と共に、藤原種継(自身を皇太子にするために奔走してくれた藤原百川の甥)と和気清麻呂(昔からの親友)を抜擢し政治改革を行っていった。


清麻呂が関与したのは主に福祉政策や公益事業のようだが、良賤通婚公認令や賤民廃止令を発布し、税を減らし利子を下げ、人民を不当に苦しめる国司や郡司を処罰し、浮浪人帳の作成を行い逃亡人や浮浪人を救済。和気氏は開墾した多くの私有地を寺社や賑給田(貧民救済の田)や大学などに寄付したり多くの秘伝薬を公開する等、公益のために力を尽くした。

和気神社

では、和気神社を後にする前に最後に撮った一枚、格好良い和気清麻呂像の後ろ姿をサービスしておきます。

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