島原物語3


ここ↓松の間が角屋で一番広い部屋で42畳。こちら右側は重要文化財で当時の建物だが、左側の部屋半分は、昭和の初めに火災にあって復元されたもの。水をかけて鎮火するのではなく建物を壊して燃やさない様にしたんですね。

島原


ここ↓がその火災のため一度ぶち壊し当時と同じようにつくり直されたお部屋なのですが、実はここ新選組芹沢鴨氏の最後の宴会の間でちょうどあの掛け軸の前辺りに座って飲んでいたとか・・・・品行不良で会津藩から暗殺命令が出ていた芹沢氏に対し一計を案じた新選組上層部は、よく使っていた角屋で1863年9月18日、宴会を開き、ぐでんぐでんに酔わせ、ここは宿泊できないので籠で帰り、屯所八木家で暗殺。芹沢氏が嘗てお酒を飲んだであろう場所に座って庭を眺めてみましたがまさか殺されるとは思っていなかったでしょう。仲間に騙され殺されるって。。。

島原


さて正面の庭には、江戸時代、ガイドブックに角屋名物といって掲載されていた竜が寝そべっている形の一本松がある。と言っても初代の一本松は自然に竜が寝そべった形になっていたそうだが、今は枯れてしまったので今現在のは2代目で一本ではとてもできず二本の松の木で作ってある。当時ガイドブックを見た安藤広重や歌川国貞などの浮世絵師が京都に来た時にわざわざ立ち寄って浮世絵にしているほど有名だったもの。

そしてその奥に見えるのが、江戸時代の表千家の茶室の曲木亭でオープンカフェみたいなつくりになっている。他にも180年前に移築してきたが実際は築200年ほどの藪内流の茶室、大徳寺の慈光院の茶室と3つの茶室がありどれもが重要文化財に指定されている。春になると桜が一面に咲き誇り、また当時は周囲に背の高い建物がなかったので東山が見えなかなか風流な御庭だったみたい。

島原

昼間御庭を眺めながら和歌や俳句を詠み、その後お茶室にてお茶をいただき、最後にここで宴会をするというのが当時の風流人の遊びだったとか。与謝蕪村とか松尾芭蕉とか御公家さんとかも沢山遊びに来て賑わっていた。江戸時代はこれだけ大きい宴会場は他になかったそうなんですよねぇ。明治維新後、人々は東京に移り利用する人がいなくなり衰退していき、芸妓さんも皆辞めていって廃業。

花街は舞台で踊ることができ、そういうのが一切ないのが遊郭。吉原では花魁(身体を売る最高遊女)のみだったが、島原は太夫(深い教養を兼ね添えた芸妓の最高位称号)といって朝廷から位をもらっていたそうな。また、花魁は帯をだらっと垂らしているそうだが、太夫は帯で心という字を表していたとか。和歌、踊り、歌、書道、華道、茶道、香道、三味線、漢詩などなど教養を身に着けた太夫は吉原の花魁とは違う!との事。

美人で教養があり文化芸能に優れた太夫は、争って身請けされるほど人気で、灰屋紹益という豪商に見初められ結婚した吉野太夫は38歳で病死してしまうが、鷹峯の常照寺に御墓がありその赤門は吉野太夫が寄進したことで知られている。

それらを思うと、どうせ売られるのなら吉原ではなく島原がいいなと思うが、叶ったらビビる で書きました曾根崎心中で有名なお初さんは島原落ちの遊女なんですよねぇ。九州からきたのかぁとか思っていたのですがここ京都でした(^^; 島原で御姐さんに故意に火傷させられて体に痕残り島原落ちになったとか。太夫とかって文化芸能に精通し品良く美しい素敵な女性ってことですが、お初さんは器量が良く賢かったためそれに脅威を覚えた御姐さんがぶっ潰したんですよねぇ。自分が上に這い上がる為にあらかじめ汚い手を使って脅威をぶっ潰していくとかって見えないところで恐ろしい女の戦いが繰り広げられていたのかと思うと、恐ろしやぁ。怖ぇーーー!!


あっ、ここ?↓ 何かなーって思ったら、宴会でお酒飲み過ぎてベロベロに酔った人が酔いを醒ますために涼みに来る場所だったそうですよ。それでまた飲むんだって。アホか??ww

島原


2階はねぇ、別料金なんですよ~。すっごい急階段なんですが、昔の人、和服でこんなところのぼったなんて・・・。二階は撮影禁止なので写真はないですが・・まずは網代の間の真上なので床が抜ける危険があり立ち入り禁止の緞子の間。金襴緞子の部屋でとにかく角屋は装飾品から調度品まで全部御目出度い物で揃えていたんですねぇ。床の間の欅の一枚板には亀甲六角形が細かく彫り込まれていたり、格式が高く縁起の良い吉祥文様である立涌文様が障子につかわれていたり。

釘隠しも各部屋御洒落に七宝焼きだったり源氏香の図だったりと趣向を凝らしてある。

そして隣は、部屋一体に簾の絵が描かれている御簾の間。原画は240年前に描かれたものですが煤で真黒で何も見えません。昭和46年に塗り替えたり、模写した絵だけは綺麗ですけれどね。当初、この御簾の間2間で奥に50メートルという建物で始めた角屋は、増築しまず緞子の間をつくり、更に240年前に増築し扇尽くしの間をつくり、京都で一番間口の広い町屋になったそう。最盛期にはここ揚屋町には向かいに10軒、北や西側には20軒ほどの揚屋があったそう。



お隣の扇尽くしの間は、欄間、火鉢、御膳、襖の引手、燭台も全部扇形で、更には天井には扇型の和紙が一面に貼られている。遊びに来た御公家さんがしたためた和歌が書かれた紙。和歌をしたためるのが遊びだったなんて、なんちゅうか。。。まぁすることもないですしねぇ、昔ですからねぇ。


襖を全部外して4つの間を続けると70畳くらいになるのですが、ここで大宴会が行われたりしていて、浄瑠璃の舞台などもあった。



約400年前に建てられたという角屋で一番古い部屋は草花の間。芸妓さんたちの通り道に使われていて2階のあらゆるところに行けるお部屋。ただ天井板を抑えている竿打ちの形が半丸だったり四角だったりバラバラなんですよねぇ。六条からバタバタ引っ越ししてきたとき材料がなくてあるものでつくったからだそうですが、あとは、着物で袖が触れても壁が落ちないオーツの壁だったり工夫が凝らしてあって感心した。



徳川幕府で奢侈禁止令が出た時、大阪の新町や江戸の吉原などの花街の金襴豪華なものは全部禁止となり、京都の島原にももちろん役人がチェックに来たそうですが、そのころにはもう蝋燭の煤で全部真っ黒で 「これは贅沢にあらず」 と言われスルーされたとか。でも実は、金箔の下にシワシワの檀紙を貼ると光らない金箔となるのですがそれで贅沢しているとわからない細工が施されていたり、床の間に香木の紫檀を使いいかにも虫喰いのように細工を施したりなど見えないところにお金をかけていたみたいで面白い。


私がここ角屋で一番気に入った部屋が、角屋で一番お金がかかっていると言われる青貝の間。キラキラキラキラ部屋全体が螺鈿で光っていてなんとも美しい。その部屋には小さなベランダみたいのがあって右手に嵐山、正面には京都の町の風景が見えたそう。ただ残念なことに青貝の間にも新選組が刀で傷つけた跡が柱にがっつり残っていて、新選組って・・・・ってここ角屋に来てからイメージダウンし過ぎてなんか気分的に新選組の事が嫌になってきている(ーー;

島原

今は、普通に生きていれば変なお店に売られないし、法で守られているし、良い時代になったなと深く感謝する。大和郡山の遊郭見学で免疫ができているし、太夫といって吉原とは違う教養も品性もある最高の女性がここで働いていたということが強調されていて、文化サロンだった!という事で、気分はそんな暗~くはならなかった島原散策だった。でもそういう仕事はしたくないな。もし自分が売られたら気が狂ってしまっていただろうと思う。

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島原物語2


こちら↓が当時のお客さんの入り口で、この垂れ幕というか暖簾はこちらではなく入ってきて見える位置、真正面にかけられていた物。今はここ入り口として使っていないのでこんな感じで展示しているのでしょうかね~。

島原


入るとこんな↓感じで、中国では立身出世を意味する槐の樹が2本植えられている。今は枯れてしまったので上の方が切られていますが。2階の窓は櫛型でなかなか可愛い。また赤い壁は高級壁で神社とかお寺に使われていたものですが、高級感を出すために角屋でも使われている。なかなか粋な感じがする。

島原


入って右側を見るとこんな↓感じ。お客さんはここから入ったんですね。

島原


入ると、お客さんはここで刀を刀掛けに預けるのですが、新選組だけは決して刀を預けなかったそうですよぉ。

島原


で、更にびっくりなんですが、新選組って、まぁ気の荒い荒くれものだったのでしょうかねぇ、まぁ、やってることもいくら良く取り繕って言っても所詮殺人ですしなぁ。新選組の刀の跡が史跡?として残っています。乱闘はなかったとは言え、腹立ちまぎれにバン!っと刀を打ち付けたりとかはしたみたい、新選組が。

島原


あとは、昔の冷蔵庫がありましたよ~。ここ大型の宴会場だったのでお料理も作っていたので冷蔵所があるんですね~。

島原


中をのぞいてみると、こんなん。階段があって下に降りて石の所に置いたのでしょう。今の時期だったら野菜とか入れておくと十分にもったそう。見るからに寒々しい感じ。しかも手すりもないですし急な石の階段を和服で野菜などを抱えて上り下りするってなかなか大変そうで危険そう。

島原


あと、ここは宿泊は出来ないので、どんなに酔っ払っていても帰ってもらっていたのですが、そのための酔っぱらい送り用の籠が備え付けられていた。

島原


ここは展示してある史料類と2階は撮影禁止なのですが、1階の建物とか景色は撮ってもOKとなっています。左側が台所で向かいが帳場。

島原


上を見上げると明り取りの窓があってロープで開け閉めできるようになっていた。水場は昭和まで使っていたとのことで水道の蛇口が一つだけありましたが、並んで井戸もあり、基本井戸を使っていたそうです。ここ下が石なので冬場は足場が寒いんだそうです。

島原


台所を通って上に上がりますと、目に入ったのが床のところについていた扉。床下収納だそうで、こんな昔から床下収納なんてあったんですね。あと驚いたのが、ここ全~部バリアフリーだった。料理を運ぶときに段差があって躓くのを防ぐために段差がいっさいない。あと、蹴とばし防止のために灯りも床にはおかず、丸型や四角型の入れ物が御洒落~につるされていた。油を入れて灯りをとっていたんですね。


展示史料の写真はNGなので撮らなかったのですが、螺鈿の容器などが展示されていたり、当時の献立表なんかもあった。今食べても高級な物ばかりなんですね~。あと、感心したのが、どこそこの誰さんは、どの部屋で掛け軸はどんなので花や器はどんなのを使ったのかという事を詳細に書き記した物が残っていて、次来た時には違う趣向を凝らし前回と重ならない様にするなどの演出もされていたことが史料から読み取れて面白い。

島原

この帳場↑は、そういうことを書き留めていたところ。ここはツケのお店で、月末に一斉に請求して払ってもらっていたそうですが、やっぱり新選組って・・・・かなり好き放題していたようで、唯一、新選組だけはお金を一向に払わなかったそうなんですよねぇ、それで、新選組の掛け売り禁止 なんていう新選組禁止の触書なんてのがガラスケースに入って展示されていた。ドン引き。



西郷隆盛が月照和尚と共に鹿児島に帰り、二人で錦江湾で入水自殺をし、月照和尚はお亡くなりになられたが西郷隆盛は助かりましたね。その鹿児島行きの前に西郷隆盛がここ角屋で使った大きなたらいが展示されていた。こんなに大きな宴会場は当時ここにしかなく、また、一番格が高かったのもこの角屋で、西郷隆盛も豪商の接待とかでここを何度も使ったそうです。んん?たらいって何に使ったんだろう??? とにかく!西郷隆盛が来た場所にきちゃった♪アハッ



で、新選組だけは刀を預けることはしませんでしたが、他の皆は刀掛けに刀を預けて店内に入りますが、その預かった刀はここ刀箪笥に入れて保管していたそう。ちゃんと刀がきちんと入りやすいように工夫されていてちょっと驚く。

島原


中居さん用の箱階段があって収納ができて便利そう。急な階段で料理を持って着物であがったって凄い。あとは、ガラスケースに入って与謝蕪村とか芭蕉とかの手書きの本物の史料がいろいろ展示してあったり、面白いなって思ったのが、京都大阪で行きたいお店ランキングみたいな昔のガイドブックがあって昔も今も人がしていることって同じですね。あと、幕末には経済的に困窮していた二条家は和歌に免状をだして生活の足しにしていたとの事で免状だとかも展示されていてなかなか興味深かった。和歌の免状って(笑)


ここ↓客間なんですが襖が真っ黒。昔は灯りは蝋燭でしたが、京都の手作り蝋燭は灯りが何とも言えず綺麗なのが特徴ですが煤が出るんですね。この真っ黒なのは煤で真っ黒になったもの。本当は壁も襖も障子も煤で真っ黒だったのですが、昭和46年に塗り替えた壁とかは綺麗になっている。1階は塗り替えたところが多いみたいで黒くないところが多い。

島原


あと、薄~い板を重ね合わせて造った御洒落用の網代組でできた天井。この部屋の天井全部が網代組。で、重みに耐えられるつくりではなく、いつ抜けるか分からないという事で2階は人数制限されている上に、更に今ではこの上の部屋は入室禁止になっている。ここは網代の間ってところですが、網代って事で、障子紙も猟師さんの網の形になっていて統一感がある。

島原


また、今の建築ではほぼ見られない赤松の柱を使っていたり、奇をてらって御洒落に斜め造りの飾り棚がつけられていたり凝っている。でもその飾り棚、見た目重視で作ったので実際に物を入れることなどは出来ず完全な飾り専用なのですが。で、これ↓は、なんと! 江戸時代中期に丸山応挙の後に活躍した岸矩(がんく)の虎の絵。岸矩の絵は写真撮影OKだったんですよ~(^^♪

島原


ここに座ってお客さんは景色を楽しんだ。目の前にあるあの岩は富士山を模したもの。角屋さんはお客さんに目出度い物を見せるというのを大事にしていたんですね。また、廊下のちょうど角の所にある柱がないのは、お客さんに景色を楽しんでもらうために柱をわざと外してあるという心憎い演出。また右手奥の井戸の丸型の滑車部分は織部焼との事で、実用的ではないのでやはり観賞用につくられたものみたい。

島原

続きは少し休んでから書きますね(^^;

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島原物語


京都市下京区西新屋敷(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)このあたりってちゃんとした地名で呼んでも京都の人はどこだかわからないそうなんですよねぇ。。。一方、”島原”っていうと皆即わかるとか。

私は島原って聞くと、島原の乱のイメージがあって長崎とかあちらの方を思い浮かべてしまって。吉原と島原って昔の花街で有名ですが、花街の島原も九州の方にあるんだとず~っと思っていた。まさか京都だったとは! 丹波口駅付近に用事があって、帰りついでに散策して、生まれて初めて気づいたという。

島原

京都には嘗て六花街(島原、上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町) があって京文化の一翼として賑わってきて、島原は京都で唯一の、そして日本初の幕府公認の花街だったんですねぇ。今ではその島原が花街から撤退し、確かにここ島原を歩いても普通の人家のところどころに歴史を感じるこういった石碑などが残っているだけで花街って感じではないですねぇ。

これ↑は、島原歌舞練場の石碑ですが、1673年(明治6年)に設立された芸娼妓に刺繍や裁縫などを教えていた島原女紅場と言われていたところで、遊里を離れても仕事をし生きていくことが出来るようにとの教育・勧業施設だったんだとか。使い捨てとしてではなく遊女のその後の人生を考え教育を施してくれた人もいたんだなぁっと地獄の中でみる情けみたいに感じる。ここには1927年(昭和2年)に新築移転され劇場施設となったそうですが、1996年(平成8年)に解体されたそう。平成8年まで存して使われていたというのにもちょっとビックリした。


島原

輪違屋という説明看板が立っていて、大夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で元禄年間(1688~1704)創業、と書かれている。安政4年(1857)に再建され、その後増改築がなされ明治4年(1871)に現代の姿となったとの事。入り口は固く門が閉ざされていて、小さな木札には ”観覧謝絶” と書かれている。

看板によると、1階南半分が居室であとは客室だったんですね。酷いなぁって思うのが ”その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。” などと説明されているのですが、せめてすすけた写真でもいいから載せておいてくれよ~って感じだ。教えるだけ教えて実物を見せないとは、まるで生殺しですわーーー。



これ↓が島原大門で、島原の東入口にあたる大門。

豊臣秀吉の花街公許により、二条柳馬場、御所の近くで商売していたそうですが、貴族の中の貴族といわれる五摂家の別邸地などもある地区で場にそぐわないということで移転。東本願寺北側の六条三筋町に240メートル四方の傾城町ができそこに移り40年商売したが、町が賑わいすぎてゴチャゴチャになり、「この場所悪いから引っ越せ」 と言われて、1641年にこの地にバタバタと引っ越ししてきたとの事。

島原

そのバタバタの引っ越し騒動のちょうど4年前に天草四郎率いる島原の乱があり、3代将軍家光の時に7万人の戦死者が出ている大きな乱だったんですねぇ、その島原の乱の幕府側の第1回目の総大将が京都所司代板倉重宗の弟板倉重昌で戦死している。

そこから京の町の人たちがバタバタの引っ越しを 「まるで島原やなぁ」 と言い、未だにそれが残り、京都市下京区西新屋敷揚屋町と聞いても京都の人はわからず 「どこそれ??」 って聞かれるんだとか。島原っていうとわかるとか(^^; マジかいなぁ??w


島原


実は、2年ほど前に奈良県大和郡山市の遊郭の跡地である町家物語館(旧川本家住宅)を訪問してもうその鉄格子とか、遊女の人は銭湯に行くのにも逃げない様に監視付きだとか聞いて身の縮む思いがして、監禁され性奴隷となっていた彼女たちの名前の残る食器棚を見た時はもう居た堪れない気持ちになった。その後、一週間は涙がとまらず人目を忍んでずっと泣いていた。その経験があるので今はもう免疫ができたのでこういうところにきても大丈夫だと自信がある! ちなみにその記事はこれ↓

遊郭1~鉄格子~
遊郭2~囚人
遊郭3~種族

その大和郡山の遊郭の続編なんですが後で地元の人に聞いたところ、ヤクザが運営していたんですね。そうですよねぇ、普通の人にはなかなかし難い商売でしょうし、まして商品である女の子を守る必要もありますからねぇ。で、とにかくそれで免疫がついたんで今はもう大丈夫。遊郭が実際に営まれていたところなんて実際に見るのあのとき初めてだったんですよね。。。



これ↓は、長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋 と石碑が立っています。ここが角屋さんですね。1641年の島原開設当初から続いている揚屋(今でいう料亭で、江戸期京都では民間最大規模の宴会場)。ちなみに揚屋は江戸の吉原にはなく、ここ京都島原と大阪新町にのみあったそうです。揚屋には、置屋から太夫(傾城の最高位)や芸妓を呼び、遊宴をするところとの事。遊宴ーーーー??っていうと変なイメージがあるのですが、遊宴のみならず和歌、俳句の文芸の席やお茶の席があって文化サロンとしての役割を果たしていたんだそうです。だから吉原の牢屋のような格子造りではありません、と説明されています。

島原


ではその江戸吉原にはなかった、京都島原と大阪新町にしかなかった太夫や芸妓を呼んで遊宴をしたり、文化サロンとして使わていたという角屋に入ってみましょう。重要文化財なので夏と冬は開けられず、春と秋の2回だけ見学可だそうですが、それでも昨今は新コロちゃんの威力によって人数制限をしているんですと。

島原

新選組刀傷の角屋 という不穏な石碑がたっていますが。。。。新選組はここで宴会を開いたりしていたんですねぇ、あとは隊士が勤王派を探しに来たりしたそうですが、乱闘などはここでは起こっていず人の血は流れていないそう。料亭だったのでお魚さんとかの血は流れたでしょうが。。。

ちょっと疲れたので少し休んでから続き書きます。

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いつも仕事を頑張っています。筋トレや楽器をひいたり、史跡巡りと自然を楽しんでいます。あと、読書も好きです。仲良くしてください。よろしく!

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