上書き保存~西大寺~


この地はかつて、孝謙ちゃん(称徳女帝)&道鏡くんによって創建された壮大広大な寺院だった。道鏡LOVEとなり、邪魔者でしかなく且つ権力を持ち過ぎた藤原仲麻呂をシッシッ! と排除。道鏡とウハウハするのもつかの間、淳仁天皇と組んだ藤原仲麻呂の乱が勃発。

孝謙ちゃんは、口うるさい淳仁天皇や邪魔な藤原仲麻呂をぶっ倒し己が道鏡とイチャイチャするために、戦勝祈願として四天王像の造立を思いついた。孝謙ちゃんは、嘗て仏教排除を願う物部守屋との戦いで、四天王に祈願した聖徳太子勢が勝った歴史を思い出し、四天王に祈ればいいんじゃね?っと軽~く閃いちゃったんだと思う。


現存する西大寺の建物の中では、南門がもっとも古く室町時代初期につくられたものだが、後はいずれもこの建物含め江戸時代の再建だ。藤原仲麻呂をぶっ倒すために造られた金堂四天王像も後世に造り直された物。ちなみに、創建時に安置されていた仏像はほぼ全滅で、現存しているのは、銅造四天王像の足に踏みつけられている邪鬼、木心乾漆造の四仏坐像と吉祥天立像だけ。

西大寺


国土の四方を守護する四天(持国天・増長天・広目天・多聞天=毘沙門天)は、仏教を信仰する国土の領土を守り、侵略せんとする勢力を滅亡させる力を持つとされる。そう考えると、仏教を広めんとする聖徳太子が四天王に祈願したのは、もっともだと理解できるが、孝謙ちゃんの方は私利私欲にまみれすぎている気がする。

まぁ道鏡を傍に置いておきたくて道鏡=仏教=四天王像って思ったんかいなぁ。少しでも天下国家を憂いたり、民衆の幸せを願う君主としての想いがあったのだろうか。



でもまぁ下半身だけで成り上がった等と揶揄されがちな道鏡だが、彼は、咒術・医術の能力が高いと評判で、また修験道の祖と仰がれる役小角が修業した葛木山に籠って苦行に身を費やしたこともある方なので、屈強で男前だったのだろうと、まぁ孝謙ちゃんが惚れちゃうのも仕方がないことなのかもしれないなぁと思ったりもする。

でも、続日本書紀によると、道鏡は西大寺の伽藍造営のために金をつぎ込みすぎて国家財政が足らなくなった等と記載されているから、金勘定にはうとかったのかもしれんな、やっぱ惚れる意味わかんないや。まぁ理屈ではなく感情の分野なんで好きになっちゃうのはしゃーないっちゃぁしゃーないのかもしれませんがね~。


西大寺

西大寺は、法隆寺、薬師寺、元興寺、大安寺、興福寺、東大寺とともに、南都7大寺の一つで、しかも創建時期がもっとも遅い寺院だ。710年に平城遷都され、752年の東大寺の大仏開眼が行われたが、既にこの時には平城京内の一等地には広い空き地など見つけることができなくなっていた。

寺院に使おうとする広大な土地が必要なら今あるものをどかすしかないのだが、出遅れた西大寺の31町(約41ヘクタール)という広さの土地をゲットするためにどんな手を使ったのだろうか??? と妄想が膨らんでしまう。ちなみに、大安寺は15町、薬師寺10町4分の1、元興寺15町、興福寺20町だった。31町とは、とびぬけて広いのがわかる。


ちなみに、藤原仲麻呂は、お気に入りの鑑真に唐招提寺を建てさせてあげよう♪ っと思った時、平城京にはもう土地ねぇよ、どーする?? ってなって、知恵を巡らせ策謀によりまんまとはめ橘奈良麻呂の変を引き起こさせ、皇太子だった道祖王と兄の塩焼王が父新田部親王から受け継いでいた土地を没官地とさせ奪い取ったのだが。仲麻呂もなかなかの腹黒で随分汚い事していたねぇ。

西大寺


でぇ、東大寺の東にある飯盛山の巨石を、西大寺の東塔の心礎石にしたのだが、石の祟りによって称徳女帝が病に伏したとかなんとかで、巨石は小片に砕かれ、東門前の石落神社に置かれた。鎌倉時代に叡尊が造営し、魔除けの効能があるとかいわれている小さな祠、祟りがあった石が魔除けの効能とは毒を以て毒を制すみたいな感じなんだろうかな????

あとは、道鏡が金を使いすぎて国家財政も底をついたので、左大臣藤原永手は、西大寺の塔を八角から四角にしたりしている。



まぁ、しかし、周囲の承認がなくLOVE道鏡と強引に事を進めてもうまくいかないんですかいねぇ。称徳女帝亡き後、道鏡は下野(栃木県)の薬師寺に追放され5年後にお亡くなりになられている。また藤原仲麻呂一族の怨霊を封じ込める的意図で、西大寺伽藍の金堂院の東方の小塔院堂内に、10万基の木製の小塔を安置したりしていたので、やっぱり私利私欲のために人をぶち殺して孝謙ちゃん(称徳女帝)も心穏やかではいられなかったんだろうなぁと勝手に推測している。


当時の西大寺伽藍は平城京のなかでも髄一の大きさで、金堂の屋根には豊富な装飾が施されていた。壮大な伽藍が建ち並んでいたのだが、今となっては、周囲に建ち並ぶ民家の下に埋もれていて発掘すらできない状況である。

西大寺


孝謙ちゃん(称徳女帝)亡き後の西大寺は、孝謙ちゃんと道鏡の事で皆が嫌気をさしていたからなのか、衰退の一途をたどるのみだったが、都が平安遷都されてしまうと更に衰退加速。そして、846年12月には、西大寺の講堂(金堂)仏像が焼失。927年にも塔に火災が発生し、928年7月には雷震で塔一基焼失。962年の台風で食堂倒壊。

1048年になると、ぶっ倒れた鐘楼から落ちた鐘や、倒壊した四天堂の金銅四天王像なども野ざらしで風雨にまみれていたという。1118年には、西大寺諸堂は大破しているものの放置状態。礎石だけが残っているような地だった。


1138年に別当済円が四天堂を再建し、食堂も修復。1153年にも修理が加えられ、鎌倉初頭になると西大寺は興福寺の管理下におかれるようになり、1206年に東大門を造ってもらえた。1218年には、興福寺別当雅縁が導師となり、塔の千僧供養が行われた。

嘗てほんの短い期間だったが栄華を誇った記憶の残る西大寺の転機は、1235年叡尊が35歳で入寺してから。寂れ具合の半端ない西大寺の寺領や寺務は興福寺が取り仕切っている状態だったのだがそんな時、興福寺の宗徒が寺領の山城大住荘(京都府綴喜郡)の用水のことで石清水八幡宮の神人と争いとなった。神職についているような者同士がそんなことで争いになるなんて変なの、って思うがまぁ所詮人間なんてもんはそのあたりが実態だろう。

西大寺


幕府は面倒事を防ぐために興福寺支配圏内の大和国に守護を置き、興福寺荘園領内にも地頭を入れた。で、当然ながら西大寺にも地頭がはいったのだが、地頭がはいったのになんで???って不思議でたまらないのだが略奪などがあったために、叡尊は海竜王寺に逃れた。

36歳の叡尊は、戒を授ける伝戒僧がいなかったため自らが仏との間に誓う自誓受戒をした。1238年8月叡尊は西大寺に還住。ここから西大寺の驚異的な復興が始まる。


まずはじめに、八角五重石塔の再建をし1238年9月に完成。その後、叡尊は1240年~1246年にかけて、大和・和泉・河内・摂津などの各小寺に出向いて数多くの 授戒 をおこなっている。

1244年には、今里野に仮屋をつくり非人千人に食事を与え、非人に戒を授けている。叡尊と弟子忍性はこのように1千人以上の窮民に粥を施したり沐浴させたりしていて、忍性などは、手足が不自由で自立歩行不可の癩病患者を一日おきに背負って町へ運び、乞食の日課を過ごさせてあげ、夕方に背負って施設に連れて帰ることを数年間続けたりしている。


で、不思議だったんですよねぇ。なんでまるで自分と全く関係のない他人のためにそこまでする???? っと。妙に納得したというか安心したのが、叡尊と忍性のこれらの行為は文殊信仰からきているものだったということなんですね~。”文殊菩薩を礼拝し、その宝号をとなえるものがあれば、文殊菩薩はそのものの罪業を滅ぼし、無量の福を授ける。また、もし、文殊菩薩を供養し、福業を修めようとするならば、文殊は身を貧窮・孤独・苦悩の衆生にかえて、行者の前にあらわれるであろう” との教えが文殊信仰にはあり、それで乞食や癩病患者など衆生を供養していたのだなぁって。だよなーって思った。所詮、誰もが自分の為に動いているんですよねぇ。~のため を言う人こそ胡散臭いものはない。”自分のため” ですよね~。


我が子の為なら命捨てれるかなって思うけれどもこれも所詮は自分のためだろう。以前、小学生の登校班の列に車が突っ込み1年生が亡くなったのだが、それを先生方は 「上級生は助けようとしたがかばいきれなくて下級生が死んでしまった」 と無傷の上級生がいかにも下級生をかばおうとしたばりの話をしているのを聞いたことがあるが、んなことないだろ、っと思った。

自分の仲の良い兄弟姉妹とかうんと可愛がっている下級生とかだったらわかるが、まるで他人の登校班の下級生を命懸けで守ろうとするか??? っと。周囲に聞くと皆は「助けるよ~」 と当然のように言っていたので、「助けないな」 という私は周囲からはドン引きされた。が、よくよく話を聞いてみると、「自分の為だよ。自分の目の前で人が死んで自分が助けなかったっていうのが嫌だから助けようとするだけ」 と本音で語ってくれる人がいた。


叡尊レベルの人ですら、自分の為に、自分が救われたくて人を助けているのだから、誰もが自分の為に生きているって言ってよいだろう。同調圧力とやらで周囲に合わせる人の中には、周囲からの圧力と戦うだけの気力体力知識言語能力がなかったりして易きに流れているだけだったりする場合も多々あるようだが、それだって所詮、その方が居心地が良いから自分の為に選択しているわけだ。誰もが自分の為に生きているんですよね~。前から思っていたが、「~のため」 って言う人ほど胡散臭いものはない。正直に言え、自分の為だろっ!

西大寺


1245年には、行基の生家をお寺にした家原寺を再興し、自誓受戒の9年後に許されるさらに厳しい別受戒を叡尊はこのお寺で行った。叡尊は、生涯で97,070人に菩薩戒を授け、107,021の講を開き、非人・癩病患者・天皇・貴族・武家など幅広い人々に慕われた。また、西大寺や般若寺や白毫寺など約700を超える数のお寺を創建再興した。

面白いなぁって思うのが、例えば般若寺の本尊文殊騎獅像などは造り始めてから14年かかって完成している。自然に寄付が集まってくるのに応じて造っていっていて、途中で大仏師善慶が亡くなられたのでその御子息である善春が完成させている。1269年3月の完成の時には、非人など六千余人を集めて斎会を催して食事などを与え、室町時代になるまで貧者や病人を救済するための文殊供養会がしばしば行われていたという。


↓叡尊の書かれた自伝があるのもいい~。
叡尊


1246年、叡尊46歳、河内(大阪)磯長の太子廟で502人に菩薩戒を授けたのを機に、法隆寺をしばしば訪れるようになり、法隆寺東院で202人に菩薩戒を授けたりなどしている。

1248年、叡尊48歳の時、インドで釈迦の在世中に制作されたという釈迦像を本尊として安置する京都・嵯峨の清凉寺の釈迦像を摸刻し1249年に完成して西大寺四王堂に祀った。この仏師善慶らが制作した釈迦如来像は西大寺本堂の本尊として今も安置されている。叡尊は聖徳太子を仏教を守護し興隆させた恩人として崇め奉っているんですよねぇ。

1254年には西大寺で太子講を行い始め、1258年には自分の事を調子丸(聖徳太子の従者の一人)の子孫とか言い始めたりしている。ここまでくるとオイオイとツッコミを入れたくなってきてしまう。



1261年には、再三請われていた北条実時からの誘いに応じ鎌倉入りを果たす。でもただ旅するだけじゃないんですよねぇ。途中、尾張の長母寺で僧侶33人、在俗者197人に授戒を行っていて、涅槃講には3千人を数える聴衆が集まり路地で梵網布薩を行ったという。鎌倉にはわずか半年だけしかいなかったのだが、北条実時や前執権北条時頼をはじめとする北条一族や御家人・非人・乞食・癩病患者などにも授戒をし食を与え道俗貴賎数千人に授戒したという。自由でいたいからと北条氏からの援助の申し出を拒否したところが好き♪

西大寺


1264年9月、叡尊は西大寺にて光明真言法会を始める。これは西大寺とその末寺の僧尼が集まり七昼夜絶え間なく真言を誦する会なのだが、効能として、様々な罪や病労苦が滅せられ、現世では長寿と富、来世では極楽往生を得られるという。またこの真言で加持した土砂を死者の墳墓にまくとその魂は成仏往生できるという素晴らしいもの。年に一度行われる光明真言法会は大評判となり、多くの篤信家によって田畑などの寄進があり、1268年から1298年の30年で73町もの田畑が西大寺に寄進されたという。

でもこの光明真言法会もどこかホッとする。だって結局は自分が楽に過ごしたいから七昼夜絶え間なく真言を誦するのであり、近親者の墳墓に土砂をまいてあげよう♪というのも理解できるし、ただただ自分を捨てて周囲の事だけを考えているのではないからだ。冷たい私には自分を捨てて関係ない他人に自ら己の命を捧げるなどは考えられないことだから。



叡尊は宇治橋の修造も行っているんですねぇ。竣功供養には亀山上皇と、後深草上皇もご臨席されたとのことで、非人・乞食・癩病患者などの上から下から全く幅広い人々に慕われたんですね。で、漁具一切を川底に沈め石造十三重塔を建てて殺生禁断のシンボルにしたのだが、生魚殺生禁止となり路頭に迷う数百人の人たちに茶の栽培(宇治茶)と布晒しで生計を立てるよう伝授したという。叡尊90歳で亡くなるまでに1356カ所を殺生禁断の場所と定めたそうだ。


↓ぶち壊れてて中にゴミが入っているのが見えるんですよぉ。
西大寺

1449年12月、細川政元の家臣に焼打ちされ、1502年5月7日には戦火で叡尊によって再建された主要な堂宇はことごとく焼失してしまった。大変な時代だったですよね。しかし、今現在、西大寺に残る寺宝の宗教美術の多くは、叡尊とその後継者の時代に結縁者たちの浄財によってつくられたものだ。

また1280年には不要だと何度も諭したのにも関わらず門弟たちが合力で叡尊の住房に♪ と、西僧坊を建立している。興正菩薩叡尊80歳の寿像(存命中に作られる肖像)は、火災の時も救出され当時の像が愛染堂に祀られている。その像内には、自誓受戒記や、釈迦の恩に報いるという目的で書写された悲華経や、授菩薩戒弟子交名(叡尊から菩薩戒を授けられた802人と418人の弟子たちの名)や、近住男女交名(叡尊を慕う千五百余人の名)が納められていて、彼彼女らは可能な限り喜捨したものと思われる。

20年間に6万人余人を収容した1287年に開設した鎌倉・桑ヶ谷療病所では、8割の人が回復したともいわれる。


本来はこのように自然に人に慕われる人が国の中心になっていけばよいのだろうなぁと思うのだがなぁ。

西大寺

孝謙ちゃん(称徳女帝)&道鏡くんの働きによって失笑でしかなかった嘗ての大寺院が、今となってはその敷地は大激減したものの尋常ならざる叡尊の働きによってイメージが上書きされ素敵なお寺と認識できるようになり、また、叡尊の言動によってどれだけ多くの人が救われたかと思うと暖かい気持ちになる。叡尊上人に合掌。

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