草津駅


草津って聞くと、真っ先に、草津温泉が浮かんできてしまう私ですが、しかし! 同じ草津でも、こちらは琵琶湖南湖東岸に位置する近江国(現・滋賀県) 草津宿。古来から陸運・水運の交通の要衝であり物資の集散地としても栄えた地。



646年(大化2年) ”初めて京師を修め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く” と日本書紀に記されている。大化の改新に際して、中央政府と地方との連絡や通信の為に交通制度の全国的整備を行った。

都から放射状に伸ばし各地方の国府を結び、約30里(約16Km) ごとに駅を置き、官吏や使者などの官人の公用に供し、馬や船や食糧を提供した駅制。全国に駅路が完成したと言われる平安時代初期には401駅あったと読んだことがあるが、律令制の衰退とともに衰微していき11世紀にはもう機能していなかったとか。

また、荘園領主や地頭などが自領と居住地を結ぶ連絡網の為に配置するようになった伝馬も10世紀には最盛期の4分の1にまで減少してしまった。戦国時代には戦国大名が自領内街道に宿をつくり、本城と支城の連絡網として伝馬を設置したりも。今のようにネット回線なんてないですから何事も大変だぁ。




草津宿の始まりは、1362年、室町幕府2代将軍足利義詮が上洛する時に、宿所を本陣と称して宿札を掲げたことだった、と言われている。本陣って聞くとなんか戦場の将軍がいるところみたいな錯覚を思わず私は覚えてしまうのですが、御身分の高い方のみが泊まれる宿泊施設の事なんですね~。

草津駅 滋賀県


草津駅の改札を出ると、こんな風に昔の感じが残っていて嬉しくなります。今でも交通の要地点としてやはり重要な地であり、草津市民の方によりますと、「滋賀県で最も栄えているのがここ草津市!」 なんだそうです。どこかドヤ顔だったのが印象的でした(笑)

ビルやマンションが立ち並び、確かに人の往来も多く、ちょいと行くと工場なんかも多いそうです。滋賀県っていうと超ド田舎(しっ失礼! って、あん? 田舎が悪いんか?w 何で謝るねん!) ってイメージだったのですが、草津駅の賑わいには正直びっくりしました。あっ、この写真↑↓? 人の往来が途絶えた瞬間に撮りました。結構大変だったんっすよ(笑)

草津駅 滋賀県


このあたり一帯は、草津宿として随分賑わっていたんですね。あ~、目に浮かぶよう。


1601年(慶長6年)に徳川家康が、伝馬制(=幕府の公用の書状や荷物を、宿駅で人馬を交替して運ぶ制度) を制定し、公文書や旅人などを宿場町から宿場町へ運ぶために草津に伝馬36疋の提供が命じられ、慶長7年には草津は、家康によって地租を免除されるようになった。


1634年(寛永11年)、徳川家光の上洛の時に大名宿の主人が本陣職に任命され、参勤交代制度により本陣は固定化し代々世襲性となった。また、それぞれの大名は、各宿場で休泊する本陣が大体決まっていた為、参勤交代などで利用する大名とは契約関係となり、これぞまさに安定収入!


江戸時代には、江戸を中心とした交通網を幕府が作り上げ、日本橋を起点に各都市へつながる五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道) を整備。江戸時代には五街道を中心として宿場町が発達し、この有名な五街道だけでも道沿いに197の宿場が存在していたという。他にも街道はあったのでなかなか宿場機能をもった集落はそこかしこにあったのかなぁって当時が偲ばれる。

草津駅 滋賀県

ここ草津は、1712年(正徳2年)には、他街道に先駆けて早々と貫目改所(=継立荷物の重量検査) が設置されるなどしたので、本当に重要拠点だったのが分かります。東海道でいうと、日本橋から52番め、京都(京師)からは2番めの宿場。

また、滋賀県内だけでもこれだけの宿駅が存在していたのですが、草津は旅籠屋数が最も多かったと言われている。しかし、朝鮮人街道なんて名称の街道があるんですね。宿となっていたところには赤丸印を、草津宿だけは特別に黄色の星マークをつけておきましたよ~。

滋賀県 宿場町
*滋賀県土木交通部都市計画課景観係【滋賀県の歴史的街道景観~つなぎ・つながる まちづくり~】より



短いガードレール下と言えばいいのかな? の壁画なのですが、当時の様子が伝わってきます。

江戸時代、草津宿本陣に泊まれるのは、将軍・大名・旗本・幕府役人・公卿・門跡・御茶壷・年頭使・勅使・院使・大名奥方・外国使節などのいわゆる貴人と呼ばれる方々のみが利用できる休泊施設で、貴人と称される人以外は泊まる資格すらなく シッシッ! って感じ。本陣・脇本陣 そして一般の旅人などが宿泊できる旅籠などが建ち並んでいて賑わっていたみたい。

まぁそもそも基本、予約制だったのですが、天変地異などなどでドタキャンがあったりまた大名同士の行列が鉢合わせてどっちが泊まるかで威信をかけ一悶着起きたりいろいろあったようですなぁ。明らかに身分が違う場合は格下の方が譲りますが、同レベルくらいの身分で且つお互いに意地をはり合うと面倒ですな(笑) アホ草w さっさと譲って旅籠に泊まっとけやw って思いますが変なプライドが邪魔をしたりまぁ昔も今も変わりませんな。

草津駅 滋賀県


1843年(天保14年) の記録によると、ここ草津は、本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠72軒があったとの事。多い時は、本陣は二軒(田中七左衛門本陣・田中九蔵本陣) だけなれど、脇本陣四軒、旅籠132軒が存在した時もあったんですって! 

本陣には極一部の特権階級・選民である大名やその近臣家臣のせいぜい20人~30人ほど、多い時は70人~90人が泊まる事もあったようですが、その他の家臣たちは脇本陣とか旅籠に分散して宿泊。南北約800メートル、東西約500メートルの L字型 の形の宿場だった、と記録に残る。


でもなんか楽しそうなんですよ~。やはりねぇ、寝泊まりする宿や、宿場から宿場へ人や物資を運ぶための人馬を提供する問屋場などなどだけでなく、一般の旅人が寝泊まりする旅籠や茶屋なども建ち並び、人の往来が多かったため食料品や日用品をはじめとする様々な物を扱うお店も建ち並び、また、

人が集まるところには楽しみ娯楽も集まりますよね~。宿内の寺社では出開帳が行われたり、その他、花相撲や繰り芝居や狂言などなどが行われ、賑やかで楽しめる場所だったみたい(^^♪ 以前、書いた銘菓うばがもち もここ草津の銘菓ですね。

草津駅 滋賀県


ここトンネルちゅうか、ガードレール下みたいなところの壁画って先に言いましたよねぇ・・・・。草津川隧道ってんですが、この上、2002年7月に治水工事が行われるまでは、草津川が流れていて度重なる災害をもたらしていたんですって。今は、廃川となったのでその草津川の跡地に”de愛ひろば 草津川跡地公園” とかちょっと行くと ”ai彩ひろば 草津川跡地公園” とか呼ばれている公園になっていて、まさに出会いの生まれそうな美しく広々とした公園なんですがね。

草津駅 滋賀県


天井川なんてのがあるんですねぇ。そりゃ災害もたらしまくりだろっ! っとツッコミをいれたくなる形状ですが、川の底が周囲の土地よりもなんと6メートルも高いところを流れていたとか。一体・・・・。つまり人々が住む家々や町や道路はたまた線路の上を川が、頭上を流れているんですねぇ。全長約7kmだったとか・・・。こんな感じ↓で天井川が出来上がるらしい(^^; 何はともあれ安全に住めるようになって良かった♪

滋賀県 草津川



草津宿の高札場 なんてのがあった。

草津駅 滋賀県


驚いたのは、”火付札” あまり読めなくなっちゃってるんですけれどね~。

草津駅 滋賀県


”親子兄弟仇 正徳元年五月” なんてのもあった。江戸時代初期後半って頃のかなぁ。ビックリ!! まぁ今でいう回覧板? 公示掲示みたいなもんですかいねぇ。いやぁ、なんかやっぱ昔の物って残ってると感動するなぁ。昔の物ってだけで価値があるのだから、そうですねぇ恐竜さんの骨とかさぁ名も知れず生きた古代人の骨なんかでもねぇ。

草津駅 滋賀県



これ↓が、1816年(文化13年 11代将軍徳川家斉) に建てられたという東海道と中山道の分岐点である追分道標。すご~い、こんなのが残っているなんてすご~い。しかも屋根とかついていてなんか御洒落♪ あ~なんか当時の様子が目に浮かぶわ~。

草津駅 滋賀県


江戸から太平洋を沿うように連なる東海道と、江戸から現在の埼玉、長野、岐阜と山の連なる行路の中山道との二つの街道のちょうど合流地点とも分岐点ともいえるところに位置するのが近江国草津。江戸時代後期(19世紀後半)には、庶民たちの間でも寺社参詣や物見遊山の旅に出かけるのが盛んになったとの事なので、賑やかだったんだろうな~。

草津駅 滋賀県


草津郵便局の看板だな。集配しているのでポスト投函していいんですって。なんか防犯上ちょっと物足りないようなぁ人を信じすぎているようなぁ良い人しか住んでいないようなぁそんな印象のポストです♪ ”1871年(明治4年) の郵便創業当時使用していたものと同じ型のものです。” って説明されている。そうか、郵便事業は1871年3月に始まったんでしたかいねぇ。しかし、こんな形だったんかい、人を信頼しきっている。きっと良い人しかいなかったのだろう。あ~、安心して暮らせる平和な地って良いわ~。

草津駅 滋賀県

しかし世の中は変わっていくものですよね、万物流転とでもいいますか滄海桑田とでもいいますか、いや、やはり諸行無常の言葉が一番しっくりくるなぁ。シミジミ  大賑わいを見せていた草津宿も、鉄道が通るようになり、1870(明治3年) の宿駅制度廃止により宿場町も廃れ、その直後は、この辺一帯失業の嵐ですよねぇ、まぁその前から明治維新でゴタゴタか。様々な悲劇・混乱・人間模様が脳裏に浮かんできてしまう。

静かだけれども活気のある勢いの感じられる街。タワマンとかも駅前に建っているしマンションも多い。昭和の香りの残る商店街も賑わっていた。素敵な予感のする街。

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