日本一の兵


天王寺駅を出てすぐ目の前にある天王寺公園。動物園とか美術館とかで賑わっていますがその一角にある茶臼山。カメさんみたいな不思議な石の上に置かれた石板に大坂の陣史跡と書かれています。国土地理院によると、山の定義はないそうなので、周囲より少しでも地面が盛り上がっていれば ”山” と名付けてもよいそうなのでこれも立派な山。石室らしきものが発掘されたとかで前方後円墳かもしれないとかも言われているようですが。

茶臼山


今では山頂にはベンチなども配置され訪れる人々の憩いの場となっている茶臼山ですが、大坂冬の陣では徳川家康が本陣を築き、大坂夏の陣では真田信繁(幸村)が本陣を築いた場所。今のこの光景を眺めるとこの茶臼山一帯が激戦地となったとは思いもよらないような静かな場所ですが、山頂には説明看板もたっておりのぼって来た人に当時を偲ばせます。

山裾から山頂まで秒で行けるほどの小さな山ですが、今では緑濃い木が茂っていて下からは山頂の様子はさっぱりわかりません。大坂夏の陣の当時は、旗がたなびき堂々たる布陣がしかれていて、下方には圧倒されるほどの群がる敵陣に囲まれていたのが想像できます。ここで赤一色の装束に身を包み信繁(幸村)が命を懸けて立っていたのかと思うとなんとも感慨深い。

茶臼山


真田信繁(幸村)は、”日本一の兵” などとも呼ばれている人気のある武将ですよね~。私も好きな武将の一人ですが、こうゆう能力のある優秀な人に限ってさっさと死んでいってしまうんですよね。戦いで有能な人を殺していくのは国としてはとんだ損失だとしか思えませんよねぇ。石田三成なんかも己の義に忠実に生きたのでしょうがなんとも勿体ない。

まぁお利口というか腹黒というかな家康は、味方になれば10万石をあてがうとか、10万石で駄目なら信濃一国を呈する! とか信繁(幸村)を篭絡しようとし、ふられていますが。まぁ嘗て、北条氏との和睦条件で勝手に真田昌幸(幸村の父)の所有する沼田城をあげる♪ とか北条氏に約束し、とっとと城明け渡せやw とほざいた家康のことなど信じられんと思うのも尤もだとも思うし、また信繁(幸村)も利になびくような人ではなかったんですよねぇ。

己が力を持っているから下々の者が全て言う事を聞くなんての権力者の幻想ですなぁ。命に代えてでも守りたいものってのがありますよねぇ。



上田城の戦いなどでも真田の名は天下に轟いていたものの、大坂の役での真田信繁(幸村)の獅子奮迅たる活躍があったからこそ、ここまで真田の名が語り継がれ注目されているのですよね。信繁(幸村)の戦いぶりがなければ ”真田” という名がここまで知れ渡ることはなかったでしょう。

茶臼山

真田家のように一家が別々の陣についた例は他家でもあり、関ケ原の戦い時にも仙石秀久の嫡男仙石秀範は、父と弟忠政と袂を分かち西軍につき、その後、大阪の役でも大阪方についたし、細川忠興の次男細川興秋も親兄弟と袂をわかち大阪の役では、大阪方についているが、真田家のように有名にはなっていないような気がする。もっとも大阪落城後に逃げてきた細川興秋は父親により自殺させられたとの話もありなんともなんとも・・・。



最終的には松代藩13万石の初代藩主となり93歳で天寿を全うした信繁(幸村)の御兄さんである真田信之(信幸)は、賢い綺麗な生き方をした人と言えるのだろうし、関ケ原の戦いで父と弟が死罪となるところを命がけで助命嘆願し、一命を助け高野山配流となったその後も仕送りを続けたり心優しい人であったのでしょうが、私はあまり好みではない。まぁ一緒にいれば安泰に生きていけるのでしょうけれどもね~。信繁(幸村)の事は実に勿体ない、もっとずる賢くうまい生き方しろよ~!と思いつつも好きだ(*ฅ́˘ฅ̀*)♡

幸村の御兄さんの真田信之(信幸)さんって、ちょっとサイコパスっぽい感じがしないでもないんですよねぇ、ほんとすんませんが。なんでも彼が老年になってから家臣に「いまだかつて、わしは一人も殺めたことがないのじゃ」とドヤ顔で語ったそうなんですが、(* ̄- ̄)ふ~ん としか思えん。あっ、実際は ”ドヤ顔” のくだりは完全なる私の装飾ですけれども。。。

思えば、子どものころ、父昌幸の居城の砥石城でとある中間のあまりの言動に激怒した信之(信幸)が中間の腕を少し斬った時、大声で騒ぎながら逃げまどう中間の姿を見て吐き気を覚えながら己のしたことに激しく後悔したそう。一方、信繁(幸村)は、中間の後を追いかけ斬り殺し、「俺の脇差は切れ味がよくねぇ」 と言ったというエピソードがあるが、信之(信幸)さんってお優しいのね~、ではない。

ちゃっかり、弟を向かわせ討ち取らせている。それも自身の意思で討ち取りに行ったかのようにみせているところがなかなかの策士だ。思えば大坂の役の時も、自身は病気と称してひきこもっていて(本当に病気だったのかもかもしれませんがね) 元服したばかりの息子信吉と信政を代理として部隊を引き連れ参戦させている。そして93歳という長寿。己の手は汚さず他の者に汚れ仕事をさせる、なんとも黒々しくはないですかい。不利な状況下でも己の知恵を絞り正々堂々と真っ向勝負する信繁(幸村)の清々しい事よ!


茶臼山からゆっくり歩いても10分もかからないところに天神坂がある。短いこの坂をのぼっていく途中には両脇には民家やマンションなどが立ち並び、普通に人が住んでいて日常を送っているんだなぁってマンション入り口で幼稚園生くらいの女の子のダンスを見て笑っている夫婦の姿を見てしみじみと思った。平和だな~。

安居神社

ここは天王寺七名水のひとつという安井の清水という名水処があったところで、なんでも大宰府に左還される菅原道真が風待ちの場とし休憩し安居神社の境内の癇静めの井といわれる名水を飲んだと伝えられている。この通り↓安居神社への入り口があります。信繁(幸村)も命の灯が消える前にはその名水を一口でも口にしたのだろうか。


安居神社

真田信繁(幸村)のような高野山に押し込められた蟄居の身の者とか、関ケ原の戦いで改易となった浪人衆や、他に町人とか百姓や、徳川家康のキリシタン弾圧に不満を持つ赤石全登が引き連れた千人のキリシタンや数人の外国人宣教師などが大阪城入城したりなど、大阪方に馳せ参じた者は、残念ながら寄せ集めのように感じる。


しかも総大将が猫可愛がりされて育った豊臣秀頼で、淀殿がくっついているし、実権を握っていた大野治長の3兄弟なども実戦経験は一度もなく机上の空論ばかりだし、仮に大阪方が勝ったとしても、一体その後どのようにして国を治めていくつもりだったのだろうかと疑問ばかりが残る。


かんしずめの井

政治体制が不安定なうえに、どこからどう考えても秀頼には国を統べるだけの能力も人望もなく、単なる世襲のみなのだが、その己の力量を冷静に総合的に俯瞰して眺めてみれば、四国を与えるとか大和郡山城を与えるとか伊勢を与えるとか家康から言われていたのだから、大人しくそれに従ってそこで楽しく生きていけばよいものを、自我なんだろうなぁって、ただただ自我と気位だけが強すぎて勘違いしているんだよなぁ全くなぁ~としか思えん。織田信長の御子息のようにお利巧さんに生きるべきだったと思うのだが。執着や煩悩を取り払えとかそういった仏教の教えなどが浮かんできてしまう。マジで戦で勝ったとして本当にどうやって国を治めていくつもりだったのだろうねぇ。淀殿じゃなー。


安居神社

ここが、真田信繁(幸村)が息を引き取ったと言われている安居神社境内。小さな静かな神社で神主さんが一人黙して掃除をしていた。この石のもとで空を見上げると当時、信繁(幸村)が見た景色を感じることができる。


150名を中枢とした3千名の突撃隊が50ずつの束になり茶臼山本陣から繰り出し、徳川軍先鋒の1万にもなる越前勢松平忠直の軍を撃破し家康の本陣に突入した真田隊。

家康を守るはずの本陣兵は、本陣には必ず翻っていたといわれる家康の馬印さえ放り出し、旗は味方に踏みつぶされ徳川軍本陣兵は3里(11.7818Km)の彼方まで大慌てで逃走したといわれている。

家康をあと一歩で討ち取るところまで追いつくこと3度。家康は絶望して、切腹しようとしたとも伝わる。命からがら我先に逃げ出した家康本陣兵。気づくと、家康のそばには小栗久次ただ一人がつき従っていただけだとも記されている。

安居神社


しかし、この時には、真田隊もほぼほぼ全滅していて真田信繁(幸村)に従う者はわずか3名のみになっていたという。力尽きた信繁(幸村)は茶臼山まで引き返し安居神社でぐったりと休息中にそのまま仲間と息を引き取ったとも、自刃したとも、動くことすらできないほど疲れ切っていたかもしくは既に息を引き取っていたところを松平忠直隊の鉄砲頭西尾久作(西尾仁左衛門)が首を取ったとも言われている。


真田信繁(幸村)は、”日本一の兵” と誉れ高いが、信繁(幸村)が突撃を開始した時に、布陣していた四天王寺付近から即座に出撃を開始し、自軍に徳川軍を引き付け南方へ敵徳川軍をけちらし撃退した彼の盟友毛利勝永も非常に優れた武将の一人であり、毛利勝永の勇猛果敢な働きがあったからこそ真田隊が家康本陣まで突撃できた。素晴らしい連携プレーだ。

安居神社

信繁(幸村)は、西尾久作によって討ち取られたと言われているが、その首は、首実検でも信繁(幸村)の叔父信尹ですら、本人と判断がつかないと公言する代物だ。また、信繁(幸村)は自分とまるで同じ格好をさせた同じような背格好の影武者を7人も戦陣に配置していたともいう。どれが本物だ???状態だ。


面白い事に、真田三代記をはじめ、幸村は豊臣秀頼、長宗我部盛親、後藤又兵衛、真田大助(幸村の子息)らとともに鹿児島へ逃れ島津氏に厚遇され暮らした等の記載も複数みられ、鹿児島市内には秀頼の墓だと言われているものもあるそうな。

他にも不思議なことに、秋田大館市や信州や高野山等などに落ち延びて幸村は天寿を全うしたとの話もある。だとすると大暴れして名を天下に轟かせた後はひっそり静かに世から隠れて自然を楽しみ生きたみたいな感じか。


安居神社

一方の家康の方も、大阪府堺市南宗寺にある ”家康の塔” などというものが存する不思議。境内には2メートルほどもある ”東照宮徳川家康墓” なるものがたっているのもなんとも興味深い。家康は、大坂夏の陣で家康本陣突撃してきた真田信繁(幸村)に討ち取られたとも、後藤又兵衛に槍で突き殺されたとも言われていて、家康の死後は66歳の河内の百姓が家康の代役をつとめたという。

まぁ、大阪の役のあと、家康がほぼほぼ表舞台に登場してこないなどもその説を後押するものだろう。本当の家康は実は死んでいて影武者が家康の代役をつとめた説は結構あって、世良田二郎三郎元信だとか小笠原秀政だとかなども名もよくきくところではある。



真実のところがわからない歴史の不思議だ。命を全うした死後は、こうした歴史の真実も知ることができるのだろうかなぁ。だとしたら死ぬのもちょっと楽しみではある。もっとも死ぬまでに多くの徳を積まんと地獄行き確定のような気もしないでもないので精進して生きようと思う。



しかし、江戸幕府のあの政治体制、各藩の力をそぎ落とし絶対服従せざるを得ないあのシステム作りは実に見事なものだと、本当の家康が死んでいたのだとしたら一体誰があのようなシステムを考え出したのだろうと思ってしまう。余程の賢人でないと思いつかんだろう。

ここで思い出されるのが、明智光秀=天海和尚説だろう。光秀は実は生きていて南光坊天海としその身を変え、家康のかなり深くまで近づきブレーンとして政治システム作りに深く関与した人物として知られている。天海が光秀だったのかは真相は闇の中だが、光秀ならあの江戸の政治体制を考えることも可能だっただろう。




今、面白いな♪ と思っているのが、明智光秀の子孫である歴史研究家の明智憲三郎氏が書く、”信長を殺した男~本能寺の変 431年目の真実~” だ。史実として知られている明智光秀は秀吉が己に都合よく書き換えた歴史でありそれが流布されている。光秀の子孫である憲三郎氏は、実際に歴史資料を丹念に読み解き、真実の明智光秀を語るという。毎日少しずつ無料で読めるので興味のある方は是非。光秀は実は信長よりも18歳年上だったとか、初っ端から目から鱗状態になること間違いなし♪ 渋格好良い光秀に惚れること間違いなし(/∀\*)ムフフフフフ ここをクリックすると無料で読めます

明智光秀


安居神社と道路を挟んだ向かい側には、この付近で戦死した本田忠朝(本田忠勝の次男)の大五輪塔がある一心寺があるが、忠朝が酒豪だったということで酒封じの神として祀られているようだが、酒豪=酒封じの神というのがなんとも解せない(笑)

日本国の礎となった先人たちに合掌。



で、こんな風に歴史ある土地なのに、産経新聞 2021/10/10 08:00配信記事 ”大阪を狙う中国資本 コロナで「好機」新世界に50億円” 等の記事を読むと、新コロたん自粛でシャッター通りと化していた大阪の土地を、中国人が買取まくり中。半年で、通天閣周辺で50億円投資した♪と語る中国人もいるという。コリアンタウンなども存在し、ただでさえ大阪民国などといわれていますが、更に土地を中国人に買い取られ今まで以上に中国人色の濃い地域になるのだろうか。幸村のとこに相談に行ってきます(|||´□`)

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