子孫繁昌手引草
思うんですよね。人間って本当クズなんだなぁって。自己中で自分の事しか考えていないクズなんだと。
今では虐待死とかイジメによる死亡などの事件報道があると、酷い!! とか怒りや批判非難が声高に見聞きされますが、それって、本当にそう思っているのでしょうか? 多分本気で思っている、と思っているのでしょうが、
しかし、本当の本当のところは、現代の社会で決められたルール(=法律)を破った相手だから ぶっ叩いても大丈夫な相手だ♪ と、ここぞとばかりにぶっ叩いているだけではないのか?
子どもを虐待しようが売り飛ばそうが何しようが自由、咎められる事もないのが常識の社会だったとしたら、周囲の全員と言ってもよいほどの人達が間引きをして子どもを殺している中で、果たして1人で 子どもを殺してはいけない、貧しくても自分が犠牲になって働いて養え! 等と批判非難をし続けるのだろうか? 自分だけは絶対に我が子を自分の命を犠牲にして守り抜くと言えるのだろうか?
それが出来ないならただ大勢のいる安心な方に流され身を置き、今は社会体制の流れで善人面を被っているだけの本性は鬼畜、ってのが正体だろう。
自分の産んだ子どもを平然と殺めていた母親。間引きされずに生き残るかは親との相性なのかなんなのか。五体満足で生まれたとしても生まれたと思ったら瞬殺されるのか生かせてもらえるのかそれはもう運としかいいようがないものなのだろう。
殺すくらいなら最初から産むなよ、というか 妊娠する様な行為をするなよ、と言いたいところだが、そこは力の弱い女性、弱肉強食の時代なら意に反し無理矢理され妊娠させられてしまった等のケースも多いのかもしれない。だとすると、THE BLUE HEARTSの ”弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく” という歌詞の通りなのだろう。暴れて抵抗することもできない新生児はじめ人を信じて疑わない純粋な幼い子どもなどにその矛先がむけられる。
そんな修羅の世界の中、間引きをやめよう! との京八条の喜大人氏の教えを、吉野屋弁治(芳友堂邦憲)氏が板刻した ”子孫繁昌手引草”。当時の庶民への啓蒙書として著名で、その書は、国文学研究資料館で公開されているが、

写真:国文学研究資料館”子孫繁昌手引草”
怖くないですか? 母親が碌な抵抗も出来ない我が子を殺している絵とか怖ろしい。生後まもなく死んだ子(殺した子)は化けて出る事もない♪ ってのが常識だったんですってねぇ。そんな中、喜大人氏は、
”子どもが将来大成すれば親が楽隠居できる” とか広めて、やはり親の自己中な欲望に訴えて子殺し(=間引き) をやめさせようとしていた。生かしておくと利益になるんだよ! っていうのがガメツイ人間には一番効くのでしょう。しかも子殺しやめようっていう啓蒙は江戸後期からだそうなのでそれまでは一体どんな世の中だったのか。
間引きをやめたと思っても、女の子は売れば儲かるやん♪ と売春宿に売り飛ばして金儲けの道具にする。やっぱ人間ってクズですね。親が子どもを愛するというのはもしかしたら法律で決まっているからしているのかもしれませんねぇ。
そう思うと、人権がー!! とか 虐待がーー!! とかで騒いだり、今現在のルール(=法律) を破り、事件を起こした人を批判非難しているのを見聞きするのも非常に滑稽に思えてくる。それ、どんな状況でも どんな環境でも 言えますか? と。
小田急線車内で乗客10人を包丁で切り裂いたりした容疑者は、「逃げ惑う人の姿を見て満足した」 とか 「勝ち組っぽい」 とか証言しているそうだが、人間の本質を思うと特に驚く事件でもない。まぁこういう事件を起こすのは仕事で己の存在価値を示せなかった男性と大体相場が決まってはいるのですが。安易に自分の名を世に知らしめる楽な方に流れたな。でもまぁ、
嘗ては、間引きのみならず、戦いに負けたら切腹とか気に食わない奴は切腹とかも普通に行われていましたし、処刑なども見世物になっていて見学の人だかりができていたりとか、そういうのを思うと人間の本性は鬼畜なのですからその容疑者は本能に忠実だったとも言えるのかもしれない。事件に遭遇し被害者となるかなども全くの運ですよねぇ。
法律があるお陰で、事件抑止効果があるのは事実だ。そして、そのルール違反した人を拘束したり裁こう♪ となっているのは、己の身の安全のためなのだろう。我が子の身の安全のため、とか、ライバル会社の経営者はじめ社員の為とかよりもきっと本当の深いところでは、自分自身が殺されたくないから、自分自身が不利益を被りたくないからなのだろう。そう思うと、世の中、鬼畜感が増してみえる。
まぁ人間なんて自己中で鬼畜なのが本性なのかもしれませんねぇ。
それが証拠に、生きる為に動植物の命をいただいているわけですが、必要以上に食べブクブクに太ったり、食べ物と称して命を奪った動植物の亡骸をポイッと捨てたりしている事例も多々見られますしねぇ。
釈迦やキリストのようにボロ布に身をまとい何も持たず野山を歩きながら教えを説いた人とはまるで違く、素晴らしい豪華な造りを持つ寺院とかきらびやかな教会、そうですねぇ、バチカン宮殿やローマ法王の衣装とかも素晴らしいゴージャスだったり良質なものですよねぇ。釈迦やキリストの教えの真の実践者だとは思えないような言動にも思えてしまう。そんな素晴らしい建物や衣装などよりも貧しい人や病んでいる人たちに全部寄附したらどうでしょうねぇ。な~んか、胡散臭いなぁ、な~んかにおうなぁって思っちゃうんですよねぇ。日本ユニセフの募金募集を唱えながらなかなかきらびやかなお部屋を披露したアグネス・チャンさんのような違和感が。
仏典や聖書にしても釈尊やキリストが書き綴ったものではなく、彼らの言動を周囲にいる人が記した物でしたよねぇ? 金儲けの為にか何か知らんが、とにかく彼らはそれを利用しうまい集金システムを作り上げ己だけウハウハになる組織に育て上げたんですよねぇ。
世の中って本当、自己中の塊なんだなってシミジミ思います。しかし、その釈迦やキリストなども己の欲することをしたという意味では欲望に忠実、本能に忠実と言えるのかもしれない。って事は、何に興味関心があるか、が大事なのかもしれませんねぇ。
そういえば、週刊女性2021年8月17・24日号 の記事によると、精子提供マッチングサイト なんてのが出来たんですねぇ。精子提供方法を性行為のみに限定している男性もいるそうですし、よ~そんなん受け入れるよなぁ。それに果たしてその人の言っている学歴や血筋などのPRポイントが本当なのかも真偽不明ですし幾らでも捏造できますし、そんなにまでして妊娠したいのかぁって驚く。子どもはペットでも何でもないし、子どもがいれば将来安心とかもないですし、逆に不確定要素が多くギャンブルっぽい気もしますが、一体何故そんなに欲しいのだろう。もしかしたら自分に子どもがいるから言える言葉なのかもしれませんが。しかし、これも言っちゃえば自己中っちゃぁ自己中ですよねぇ。何が何でも妊娠したい!という自分の欲望に忠実。
新コロちゃんで自宅療養していた患者が重症化し、120の医療機関で受け入れ拒否されたとかのニュースを読んだり、東京都で重症者が過去最多とか読んだ前後とかに、「新コロたん再爆発とオリンピックは関係なし」 とか 「不要不急かはご本人が判断すること」 とかの見解を見聞きすると、やっぱ人間って政治家ですら自分の欲望や利益を優先して本性本音は鬼畜のままなんだよなぁって思います。まぁ政治家に関しては今更感がありますがw お盆で皆で集まっても不要不急かは自分たちで判断する事ですから自由だね~♪
しかし、国民年金はネズミ講なんて言われたりもしているようですが、まぁネズミ講とは多少は違うでしょうがしかし、子どもを食い物にしているという点では、人間の本質、昔と何も変わっていないねーと思ったりもする。絶対損するの分かっててバカみたいに貢がされ続けているんですからねぇ。
しかも国民年金は強制加入であり、自己破産しようが税金だけはどこまでもチャラにはならず一生付きまとわれヤクザよりも酷い怖いシステムが政府だ。国民年金やNHK受信料に疑問を抱いている声は多々あるように思うのだが、誰もそのシステムを打ち壊せない。打ち壊そうとするとあの手この手で潰される。まぁこの辺が日本の限界だろう。
人間が自己中の塊だと思うと、なんだか世の中嫌になってくる。自分もその人間なところがウケるところではあるのだがw
まぁ、日本の神話なんかも碌でもない神のオンパレードですし、そう思うと、A家がどうのとかMちゃんがどうのとかも今更??? って思うわ~。もともとそういう家系やんけ、それ崇め奉ってきたんだし別に今更それをどうこうどーでもいいやろーーー! 何で今更ーーーー!! って気になってきた。って事でもう女系天皇だろうがなんだろうともうなんでもOK、どーでもいいわ~。
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