大いなる心で許した~法隆寺~
大和朝廷で軍事を司り、武門の棟梁だった物部氏の総氏神であり、武器保管庫として使われてきた石上神宮。気に入ったので何度も詣でている。この事から私は物部氏の絶対なる味方だ。この絆は切れる事がない。
また、任那などは地の利が悪くあんな半島のほんの先っぽ一部分だけ死守するのは並大抵の事ではない。任那経営に失敗したー!ギャーギャー とか言って大伴氏を失脚させるなどは愚の骨頂だ。何ならお前がやってみろ! と足蹴にしたい気分だ。ちなみに大伴氏は物部氏の仲間だった。

仏教に強硬に反対した物部氏、というキャラになっているが、物部氏の本拠地からも飛鳥時代に作られた寺院の遺構が発見されているので物部氏も早い段階から仏教を受け入れていた説有。要するに、争いの発端は仏教云々ではなく、己が実権を握りウハウハしたい自己中人物らの策略陰謀により物部氏は殺されたのだ。
物部氏側の私にとっては謂わば、敵陣ーとは言え、ここも元は物部氏の領土だったのだが強盗強奪殺人犯により物部氏が奪われたこの地にやって来た。何を隠そう、秘仏である救世観音菩薩立像が特別開扉されるが18日までなのでギリギリセーフ滑りこめたのだ。まっ、年二回見れるそうだが。

この写真に映る右手側↑の塀で囲まれた内部が若草伽藍。心礎の形を彫り込んだ礎石が残っているそう。
敏達天皇が崩御され、次に即位した用明天皇(聖徳太子の御父様)が即位。早くも次期天皇を巡る激しい勢力争いが繰り広げられるが、勢力図はざっとこんな感じ。
1)泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)を推す炊屋姫(敏達天皇の大后であり後の推古天皇)&蘇我馬子
2)穴穂部皇子(用明天皇の異母弟で泊瀬部皇子の兄)を推す物部守屋&中臣勝海
3)押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の子で皇太子)を推す派閥
こう見ると、3番の押坂彦人大兄皇子でいくのが一番真っ当だと思うのだが。大兄皇子を名乗る人が皇太子だったといいますし。
好戦的でイケイケだった聖徳太子は、己の従者・迹見赤檮を使い、物部守屋の盟友・中臣勝海を手始めにまずぶち殺した。
日本書記には、用明元年に、穴穂部王子が額田部王女(炊屋姫)を犯そうとして宮に乱入した記事が載っている。用明2年6月、炊屋姫と蘇我馬子は、邪魔な穴穂部皇子を殺した。また、穴穂部皇子の同士である宅部皇子も邪魔なのでぶち殺した。
こんなんではまともな神経で暮らせるほうが異常ですよねぇ。用明天皇は、即位して2年で病に伏してしまう。
こちら↓法隆寺中門。

物部氏側に断然有利だった主導権争いは、穴穂部王子殺害の蘇我特別攻撃隊により一気に蘇我氏有利に動いていく。盟友中臣勝海氏も聖徳太子によって殺されているし、推していた人物も殺害されてしまったし、何よりただならぬ不気味な不穏な空気を感じた物部守屋氏は、飛鳥を出、本拠地である河内へ退く。こんな恐ろしい人たちから離れたいと思うのは当然の事です。
周到な根回しをして水面下で仲間を募って来た蘇我氏は、存在していると邪魔なので、一方的にいきなり物部氏側を急襲。当時、物部氏と蘇我氏の二大勢力が権勢を誇り、莫大な財産が二人により二分されていたので蘇我氏としては物部氏を亡き者にしないと安心できなかったのだろう。軍事に秀でた物部氏は何度も蘇我氏勢力を押し返し善戦している。
また、聖徳太子は大叔父が蘇我馬子で、聖徳太子の父方母方両方の曽祖父は蘇我稲目で、聖徳太子の父母共に蘇我氏の娘から生まれた異母兄妹だ。聖徳太子は明らかに蘇我氏の血が色濃く流れていて 聖徳太子=蘇我氏 って言っても差し支えないんじゃね? って思ってしまうほどの蘇我氏家系の人物である。そんな聖徳太子は、
蘇我軍の第一群として物部氏をぶち殺そうと奮闘した。調子に乗った聖徳太子を物部軍が取り囲み一大ピンチに陥った聖徳太子は落雷で二つに裂けた椋の木の間に入り隠れたので、物部軍は見逃してあげたのだが、そこは今、大聖勝軍寺などという名称で信仰の対象となっている。

こちら↑は法隆寺中門の金剛力士像ですが、向かって右側のこの仁王様はどこか暖かみが感じられるのですが、左側の仁王様はもう見るからに恐ろしい形相。奈良時代に作られた日本国最古の金剛力士像。ド迫力ですわ。っと、話を戻します。
軍事に秀で数は少ないながらも断然有利な物部軍。幼少期から蘇我馬子の指導のもと仏教に親しんできた14歳の聖徳太子は、戦いが絶対的に不利な自軍の様子を嘆き、戦場で白膠木を切り四天王像を彫り 『勝った暁には寺を建てます』 と誓約をした。すると、聖徳太子の従者・迹見赤檮が放った矢が偶然、楼閣の上にいた物部守屋に命中し射落され物部守屋は絶命させられた。守屋亡き後、物部軍は一気に瓦解し壊滅させられた。
物部氏をぶち殺したことにより、物部氏の莫大な全財産を没収しウハウハに♪ 蘇我馬子とつるんでいた聖徳太子は、物部氏の難波宅跡に四天王寺を建てさせ、また、現・法隆寺である斑鳩宮も斑鳩寺も物部氏の所領であった土地に聖徳太子が作らせた。殺人強盗強奪して我が物にした土地なのですが。

五重塔と金堂の間にあるのが大講堂。中の撮影はできないが、金堂に安置されている仏像はどれも素晴らしく、また天蓋も印象的だった。本尊の金銅釈迦三尊像は止利仏師の作。壁画は1949年に焼失したとの事で複原壁画だったのだが、もう古びた感じとかよくあんなに作れるなって感心する出来だった。時間を忘れてずっと見入ってしまっていた。
五重塔の檜の心柱の伐採年代は594年であることが2001年に年輪年代法で判明している。日本国最古の五重塔は舎利、仏の骨を納めている場所との事で、階段をのぼって中を覗くと白岩みたいな中に白群像が掘られていて、4つ階段があって東西南北4方面見れるのですが、それがどれも素晴らしく中が暗くて見えずらいのが惜しかった。もう何時間でも観ていられそうなもの。お釈迦様の生涯を表しているんですね。

建物は細部にわたって細かい芸が施されていてしっかりした造り。こういう建築を見ていると昔の建物の方が断然良いなぁって思ってしまう。この重厚な扉↓近代的な家がな~んかちゃちく感じてしまう。こういうところに住みた~い。ぐるっと囲む屋根付きの回廊がこれまた素敵でこういう造り良いな~って憧れた。

大講堂も木を丸々一本使ったしっかりした太い柱。厚みのある扉。そして金箔がはげ黒色がむき出しになった像のどれもに息をのみしばらくずっと見入ってしまった。
田中英道氏によると、1920年から行われた発掘調査で火災の痕跡が全く見当たらなく、現法隆寺(西院伽藍)の地下に建築の痕跡がないので法隆寺は焼失していないとの事。美術史家である田中英道氏の目から見ても法隆寺の建築や美術や仏像のどれを見ても飛鳥時代のものであり法隆寺再建論を全否定している。現在の法隆寺が斑鳩寺であり、若草伽藍が焼失した後に法隆寺と呼ばれるようになったとご主張されている。私もこの説が好きだな~♪
が、法隆寺の公式HPでは焼失再建設をとっている。まぁ実際のところ昔の事を幾ら知ろうとしても文献だって本当の事が書いてあるとも限らないし、本当は何があったのか何が真実なのかは分からないものではありますが。

僧侶さんのご住居だったという鎌倉時代作の聖霊院から見た鏡池。中に安置されている秘仏である聖徳太子らの像は扉が閉まっていてみる事は出来ませんでしたが、聖徳太子、地蔵菩薩、如意輪観音像の大きな3体の写真が横に飾ってあったので満足した~。こういう↓作りにも感動した。

この↓先っぽのとんがりは触るとかなり痛いのでマジで気を付けたほうがいい。

587年に用明天皇崩御。
己が権勢を欲しい為に親族や古来からの重臣を次々にぶち殺していった血塗られた恐ろしい鬼畜である炊屋姫=額田部王女(後の推古天皇)と蘇我氏は、崇峻天皇(泊瀬部皇子)を天皇にした。
592年、在位期間たった5年で崇峻天皇は暗殺されてしまう。諸説あるが、炊屋姫(後の推古天皇)と蘇我馬子がつるんでいたみたいでんな~。まぁ聖徳太子もからんでいたようでんな~。もちろん聖徳太子や推古天皇を美化する人々は凡ての罪を蘇我氏に押し付けているが、んなわけねーだろ。物部氏をぶち殺したのはどこのどいつだ? 崇峻天皇と関係良好だった聖徳太子は別としても、少なくとも炊屋姫=額田部王女(後の推古天皇)は心美しい女性とは程遠い血塗られた殺人鬼ですわな。そしてついに、
聖徳太子19歳の時に、聖徳太子の叔母である額田部王女(炊屋姫)が天皇に即位する。天皇の地位を得るために人をぶち殺して平然としている鬼畜・推古天皇の誕生である。聖徳太子は20歳で、血塗られた腹黒仲間である推古天皇の摂政(現・総理大臣)となる。腹黒の大御所とでもいうべき推古天皇は、己の子である10代の竹田皇子に皇位を継がせたかったのだがその後早世してしまったため、しぶしぶ聖徳太子を皇太子に任じた。
聖徳太子は22歳になると、百済僧慧慈を師とし、本格的に仏教を学んでいく。

大宝蔵院では、鎌倉時代の作品だという彩色された地蔵菩薩像をすっごく気に入ってしまった。足のポーズもいいし、足場の岩みたいのもいいし、胸のジャラジャラ透かし彫りの装飾グッズも良いとても繊細。おまけに光背もいいし、模様色ついてる右手にお持ちの棒の上の装飾?図柄も繊細で素晴らしい! めっちゃ気に入ったわ~。
あとは、江戸時代1845年の作品という聖徳太子像。頭のジャラジャラが良いな~って気に入った。日本最古の絵画作品という玉虫厨子は展示室の光もかなり抑えられていたし暗くてあまりよくみえないのだが味わい深いボロ~イ感がでていた。
飛鳥時代に作られた樟木造彩色の百済観音像は、細い、とにかく細い。安置されている部屋の壁をよくみると壁と同色の白で鳳凰?が飛んでいる絵が描かれていた。
”飾金具(金堂天蓋付属)飛鳥時代 銅板 透彫 鍍金” と説明書きに書かれた物とか、若草伽藍の瓦 飛鳥時代斑鳩宮の瓦 飛鳥時代西院伽藍瓦など飛鳥時代の凝った模様に感動した。法隆寺境内歩いていると屋根の前面と前側面ってのかな?の飾りがいろいろ違くて面白いし非常に興味深い。
っと、話がそれてしまった。で!
聖徳太子はなかなか好戦的な人物で、物部守屋とその周辺、(そして、崇峻天皇もかな?) などを次々とぶち殺しただけではなく、任那を取り返すぜっ!! と新羅討伐軍を2度にわたり派遣しようとし筑紫に2万5千の軍を集結させたりしている。が、どちらも大将や大将の奥方の突然死で討伐遠征中止となっている。あそこは地の利が悪いから中止になって良かったと思いますね。
冠位十二階や憲法17条などを作成した聖徳太子は、物部氏を殺し分捕った斑鳩の地に斑鳩宮を建て605年、斑鳩宮に移った。斑鳩宮から飛鳥まで直線的に太子道が作られ、聖徳太子は黒駒に乗り、政務を司る為に飛鳥に通ったという。多分、もうこの頃には内心、蘇我馬子の邪魔な奴はぶち殺す!というやり方に疑問を抱くようになってきていただろう。
これがその斑鳩宮があった場所で、これ↓は現法隆寺東院にある夢殿の建築木です。味わい深くて本当良い。


斑鳩宮の発掘調査の結果によると、高床式の和風建築で、屋根は茅葺や檜皮葺きや瓦を用いており、当時の最先端の建物だった。聖徳太子は度々夢殿に籠り瞑想にふけったとの事で、当時は寝台と椅子兼用のベッドが置いて有り、飲まず食わずで七日七晩に渡り一人で籠っていた事もあったという。
聖徳太子の死後、「等身大で仏像を作るように」 との指示通りに聖徳太子をモデルに止利仏師によってつくられたという木造の救世観音像は、1884年にフェノロサと岡倉天心によって白い布でぐるぐる巻きにされたこの像を開けるまでは誰も見る事ができなかったとの事ですが、何とも恐れ多い像です。等身大で178,8cmもあるとの事で当時にしてはなおさら聖徳太子って長身だったんですね。
夢殿から見た絵殿、舎利殿。

絵殿、舎利殿から見た夢殿。今回は特別御開帳との事で絵殿の中に入ることが出来た。親切な僧侶さんがいて助かったわ~。本当に絵が一面に描いてあった。古びた絵で聖徳太子一代の事跡を描いているそうで平安時代の作品だとか。

絵殿の廊下の床板はこんな感じ↓で、いやぁこういうの良いわ~。

で!
589年に中国全土を統一した隋は、東アジアでは最大国家であり、国力も人口も島国日本とは比べ物にならず、当時の世界で3本の指に入るほどの大国だった。その絶大なる国力と中華思想(お付き合い頂くには手下になるしかない)を持つ隋に対し、『Fuck You!』 などと豪語しながら中指を折っ立てる行為をした聖徳太子。
ハチャメチャで挑発好戦的な聖徳太子は百済僧慧慈に仏教を学んだとてそうそう素早く変わるものではない。当時の常識から考えるとあまりにもぶっ飛び過ぎているとんでもない奴なのですが、まぁ確かに高句麗攻めに失敗した煬帝の微妙な状況を考えての事だったのかもしれないが、実際どのような考えや気持ちで 『Fuck You!』 などと豪語しながら中指を折っ立てたりしたのかは本人でもないし誰も知らないのが真実です。ただ、聖徳太子は優秀な側近に囲まれていたのでその一人である小野妹子が、隋からの帰国中に煬帝からの国書を百済で盗まれちゃった、ゴメン、テヘペロ として事なきを得ている。
その後の聖徳太子は斑鳩の地にて仏教にのめりこみ、仏教の一大帝国を築いていった。彼の前半の生き方は、どす黒い蘇我馬子に教育され感化され好戦的で殺人などなんとも思わない鬼畜として育ってしまったわけですが、幼少期からそのように教育されてきたわけでもあり仕方がないと言えば仕方がない。大いに同情の余地有。
また、慧慈と出会い明らかに変わっていき、蘇我氏や推古天皇とは距離をおき別の人生を歩んだと思えるので、殺された物部氏にとってはたまったものではないですが、聖徳太子を私は大いなる心で許しました。心の美しい物部氏も恨み辛みでいたりはしていないはずですし。蘇我馬子に教え込まれた鬼畜道から改心し一大仏教帝国を築きこのような素晴らしい数々の秘仏を残した聖徳太子を凄いなと思います。穢れを祓い美しい心になった聖徳太子もこの空を眺めていたのでしょう。

聖徳太子の母親・穴穂部間人皇后が亡くなり、つづいて聖徳太子が病気になり、聖徳太子が一番可愛がっていた膳部菩岐々美郎女妃が亡くなり、その翌日に聖徳太子も亡くなっている。自殺説や暗殺説や伝染病説などがあるようだが、偉大なる事績を成し遂げた聖徳太子の最後が何とも胸が痛い。
聖徳太子の死後21年後の642年、山背大兄皇子一族は次期皇位を強奪せんとする蘇我入鹿の軍に急襲され、蘇我入鹿軍は斑鳩宮を焼き討ちし、山背大兄皇子は斑鳩寺で一族もろとも自殺し上宮王家は滅亡した。男女23王絶命。なんとも悲しい話だ。最後まで山背大兄王を推した境部臣摩理勢(蝦夷の叔父) は、蘇我蝦夷により殺されている。血を分けたとかは関係ない、邪魔な奴は殺すのみ!

長屋王を殺したり、道鏡にメロメロにはまるバカ実娘などを強引に天皇にしたりした頭の悪い且つ殺人鬼光明子(聖女ぶってもムダw)は、疫病が流行り、自身の藤原四兄弟にも死の影が訪れると知るやすっかり怯え、どこからともなくきた行信にすがりつき、法隆寺の整備や夢殿再建などをして難を逃れようとする。夢殿を建立したその年に藤原四兄弟は天然痘で亡くなっているが、わが身になると怯えるくせに己の利益の為になら大量殺人をしても笑っていられる光明子のような鬼畜はその心理を利用して金を遣わせるに限る。行信 Good Job!
聖徳太子信仰が流行る一方で、江戸時代初期には聖徳太子を批判する学者が結構登場していたみたいですね。それが原因か? また明治新政府の廃仏毀釈もあいまって明治初年には法隆寺はすっかり寂れてしまい、僧侶は数人のみしかおらず伽藍は雨漏りし荒廃していたという。1878年には法隆寺内の様々な宝物ー法華義疏や聖徳太子肖像絵などなどーを皇室に献上することで御金を得て建物の修理をしていたという。
コロナ自粛の為でしょうか? 法隆寺入り口に向かうための長い参道があり両側に駐車場やお土産屋さんや食事処などがあるのですが、お土産屋さんや食事処等は全部閉まっていた。ちょっと楽しみにしてたのにぃ。そういう御店の駐車場も含め、駐車場はがら空き。ですが、一カ所だけ駐車場営業中の旗がたなびき管理員さんが1人いる駐車場に3台ほどきちんと停めてあった事に密かに感動した。路駐して駐車料金をうかしている車を2台ほど見かけましたが。人は数人みかけたくらいでガラガラでしたね。

これ↑は近くのコンビニにて。聖徳太子には愛犬雪丸とやらがいたそうですね。そして聖徳太子像は2歳とかのから何体かあったのですが、それのどれを見てもこのような↓お顔ではなかったように思う。

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