恭仁京址
聖武天皇の実母は藤原不比等の娘宮子であり、聖武天皇の后は藤原不比等の娘安宿媛(光明子)。藤原不比等は聖武天皇(首皇子)にとって実祖父であり舅。ちなみに実母宮子は出産時に精神に異常をきたしたとされ藤原不比等宅に軟禁されており聖武天皇は生母と触れ合うことなく藤原不比等宅で育った。
聖武天皇と言えば生涯で前代未聞の事を次々と成し遂げた人物なのである意味、慣例に囚われない自由な人とも言えるのかもしれない。
<聖武天皇の自由っぷり1>
右大臣となり政権を担っていた政界のサラブレットである長屋王は、天智天皇と天武天皇の孫。長屋王と吉備内親王との間に出来た子どもたちは親王扱いだった。727年、聖武天皇と光明子(安宿媛)の間に皇子基王が誕生。長屋王と吉備内親王の長男膳夫王は皇孫の扱いを受けており既に成人しているのだが、聖武天皇はそれをガン無視し、生後30日の生まれたてホヤホヤの我が子基王を皇太子と任じた。これは前代未聞の出来事だった。とは言え、基王は翌年には亡くなってしまうのだが。
<聖武天皇の自由っぷり2>
聖武天皇と県犬養広刀自との間に安積皇子が誕生したのを機に、藤原不比等の4人の子ども(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は焦り、自分の妹である光明子を皇后にしようと画策する。が、政界で力を持つ長屋王が、皇族ではない臣下の子の女性が(天皇になる可能性のある)皇后に就くことを反対したため729年、長屋王が呪術で天皇を殺そうとしていると密告させ長屋王の変が起こる。
これにより長屋王と正妻吉備内親王とその4人の子どもが死に至らさせられた。その他の藤原の血を引く側室などは無傷だった。邪魔者長屋王を殺し反対する者がいなくなったので、光明子は無事、聖武天皇の皇后になった。また藤原四兄弟全員が朝廷の最上位である大納言になったり太政官の構成員となった。一つの氏族から公卿一人を出すという慣例を破り、公卿10人の半数近くを藤原氏が独占することになったのだが、これも前代未聞の事だった。
<聖武天皇の自由っぷり3>
長屋王が自殺させられてからというもの畿内では旱魃が起こり度々落雷が発生。数年後には大地震が起こり、また九州の太宰府で沢山の人が亡くなり737年には西日本一帯にもその伝染病が広まった。平城京でも次々と人が死に藤原四兄弟はじめ太政官の議政官の大半も天然痘で死亡。
738年、聖武天皇は光明子との間に生まれた娘阿倍内親王を皇太子に任じた。女性の皇太子は前例どころかこの後も誰もいず阿倍内親王ただ一人だけであり前代未聞である。ちなみにこの阿倍内親王は後の孝謙天皇であり溺愛した道鏡との蜜月ヘデクレ政治で有名である(ーー; 聖武天皇には県犬養広刀自との間に生まれた安積親王という立派な皇子がいたのだがねぇ。。。変ですねぇ。。。
聖武天皇には立派な皇子が既にいるのにもかかわらず自分の娘を前代未聞の皇太子に任じるとは、藤原四兄弟が天然痘で亡くなった後もこのような状態なので光明子は世間知らずの純粋な可愛い子ちゃんではなく、藤原の血をどんな手段を使ってでも天皇にするというどろっどろっの血塗られた腹黒い女性だったのだろうなぁ。長屋王とその邪魔な皇位継承権を持つ子どもをこの世から排除したのも藤原四兄弟の力だけではないのでしょうねぇ。時の天皇は光明子の夫である聖武でしたしねぇ。
自然災害や伝染病蔓延が頻発する中、政治登用に不満を持つ藤原広嗣の乱が起こると、聖武天皇は乱が起こっている最中に突然旅に出てしまった。740年、山城国相楽郡恭仁郷に入るとここに宮を造営することを決め、741年の拝賀の儀もこの↓奈良寄りの京都府にある恭仁京で行われた。規模は平城京の4割ほどであり、聖武天皇の一言で大規模な工事が始められ大極殿は平城京のを移築させた。重機やトラックなど無い時代、解体し運ぶだけでもどれほど大変だったことか。五位以上の貴族は強制的に恭仁京への移住が命じられた。

741年2月、聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、諸国にそれぞれ七重塔を有する国分寺と国分尼寺を造ることや、その僧尼や水田町の規模も命じ、また金光明最勝王経と妙法蓮華経を一部ずつ写経し塔に納めるよう命じた。聖武天皇はこの後、泉橋院に自ら赴いて、さんざん朝廷が弾圧してきた僧侶行基と一日懇談している。
15歳で出家し37歳まで山中で始業した行基は、705年に山を下り労役や重税で苦しむ民をみた。庸や調などの国家へ納める税は農民自らが都へ運ばねばならず、彼らの多くは、税を運び終えるとその辺で野垂れ死となった。平城京建設で強制労働させられていた民も食糧が乏しく飢え死にする者も多かった。
行基は、彼らを救済するため布施屋を次々につくり、食事を提供し、薬草知識などをいかして病人を治し、それが噂になり多くの人が救いを求めて行基の周りに集まるようになった。
朝廷は717年に行基を名指しして指弾した。行基はそれでも活動をやめず718年から隆福院や石凝院など困窮する人々を救う救済寺院を建てていった。下級官僚も行基たちを信奉する者が現れ始め、722年には朝廷はさらに厳しく行基を弾圧した。
その数年後には行基は信者達と各地で道路や溜池や橋や溝、灌漑施設などをつくっていったので各地の豪族は行基一行が来るのを大歓迎するようになった。ついに朝廷も731年に行基のことを認めざるを得なくなったという行基と朝廷はそういう過去がある。その行基に聖武天皇が自ら赴いて懇談してもらった。
で、続く743年、聖武天皇は大仏造立の詔を発した。実は740年に聖武&光明は、行基の信者たちが自ら力を出し合い建てた河内の知識寺の本尊を礼拝し、甚く感銘を受け、自分も人々の力でこういう廬舎那大仏(東大寺大仏)をつくろう♪ と思いついたとか。
行基に憧れ自分もこんな風になりたい♪ っと思ったとしても 人が自然に集まり喜んで自発的に各々の力を出し合いそれを結集し世の中を救っていく、そういう人が雲集し慕い付き従う徳を持っているでもないのに、強引に力で抑えつけ人を強制労働させることが可能な組織体制のトップが無理強いして物事を進めても周囲が不幸になるばかりなのだが。。。。
なにしろ当時の貴族(5位以上の人々)は、日本に約125人程で、そのトップの年収は現在でいうと6億円を超えていたという。最下位の少初位は年収2百万程度で、実家からの仕送りやアルバイトで食いつないでいたとか。正倉院文書に100通近い役人の借金証文が残っているのは痛々しい。
更に、庶民は成人男性は租・調・庸・雑徭・出挙などの税が課され成人男性の3人に1人は兵役としてとられていた為、重税に苦しみ本籍地から逃亡する人が続出し国家財政は非常に苦しかった。聖武天皇はそんなのもとのともせず気ままに遷都してみたり、国分寺や国分尼寺の建立を命じ、更に大仏を造るとまで言い出したのだった。聖武天皇曰く 『私は天皇として民を慈しんできたが、仏の恩徳は天下に行きわたってはいない。』 だから大仏を造るんだと。
民を慈しんできたとはこれまた驚きだが、仏の恩徳を天下に行きわたらせたかったら衣食住をくれ、と民は思ったことだろう。
ここで、長屋王が生きていたらこんな事にはならんかったんかいなぁとも思ったが、長屋王は、平城宮の東南角に総面積6万平方メートルの大邸宅を構え、国内外の有力者を招待し盛大豪華な宴会を度々催していた金持ちだったんですよねぇ。大和国やその周辺に広大な田や薬園や乳牛を育てる牧場、塩倉や炭焼き場、そして天然の氷を溶けないように保管する小屋である氷室なども所持していたが、民は重税に苦しみ竪穴式住居に住んでいたとかで長屋王もやはり金持ち過ぎて聖武天皇と同じで民の苦しみをわかっとらんな。
聖武天皇は行基に力を貸してほしいと懇願し行基は受け入れ積極的に働いたという。
<聖武天皇の自由っぷり4>
743年12月、遷都に物凄い費用をかけた上、造営途中だった恭仁京の建設を中止した聖武天皇は、744年2月に官人から庶民に至る人々に『都は難波と恭仁京どっちがいい?』とアンケートをしている。こんなアンケートは前代未聞だった。結果は恭仁京! だが聖武天皇はアンケート結果を無視し一週間後に難波宮に遷都を強行した。意味わかんねー、情緒不安定だったんかいな?

案内看板が英語のみで記されていて、日本はアメリカの植民地なんだなって実感する一枚。

こうしてイミフな行動で名をはせた聖武天皇は恭仁京を出て難波に向かった。が、聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた安積親王は脚の病で具合が悪くなり恭仁京に引き返したが2日後に死亡している。恭仁京には藤原仲麻呂が残っていたが、その後、特進しているのが謎い。安積親王は皇位継承者なのだが、先に聖武天皇と光明子の娘阿倍内親王を皇太子に任じているのだが念のため消しておいた方が光明子としては安心だろう。
情緒不安定疑惑満載な聖武天皇は難波宮には40日だけいてその後、紫香楽に向かい紫香楽への遷都を宣言する。どうも怪しい不自然な山火事が頻繁に紫香楽周辺で起こるようになり、美濃の大地震の余震で紫香楽も激しく揺れたため、745年5月、聖武天皇は『どこが都にいい?』っとまたアンケートを実施。全員一致で平城京!となり聖武天皇は平城京に戻った。
恭仁京大極殿址の隣には小さな木造の小学校がある。その茶色い建物がそれ。牡丹桜の花吹雪が綺麗だったのですが安物スマホでは撮れませんな ((*´∀`))ケラケラ

聖武天皇が放り投げ放棄した紫香楽宮には盗賊が蔓延り、山火事も起こり続けたので、聖武天皇は仕方なく役人を派遣して官物を収納させたという。なんかだらしない人だったんですね。ちゃんと片付けてから次いけよ、ってツッコミを入れたくなる。
かつての恭仁京はこんな感じ↓だったみたい。聖武天皇が紫香楽から平城京に遷都すると、恭仁京跡地には山背国分寺が造られ平城京から移築された大極殿は山背国分寺の金堂になった。今は大きな石くらいしか残っていず草原が広がっている。

施薬院や悲田院をつくり千人の垢を洗い落とすのを発願し最後の千人目の重症癩病患者の膿を口で吸い出したところ病人は阿閦如来の正体を現したなどの伝説を持つ光明皇后だが、その施薬院や悲田院は、朝廷が長らく弾圧していた行基のつくった救済小屋を真似して作ったものだ。
施薬院や悲田院を作って皇后自ら民の体を洗った等というこのような美しい伝説で塗り固められた聖女光明子は、己が皇后になるため長屋王を自殺に追い込み、自分の娘を皇位に就かせるため聖武天皇の別腹皇子安積親王を殺害させた疑惑の人。また、
重税で困窮し生死の苦しみを味いのたうちまわっている民を嘲笑うかのように大仏建立や東大寺建立を聖武天皇に勧めたのも光明皇后だった。ちなみに東大寺が建てられた場所は、生まれて1年で亡くなった聖武&光明の唯一の息子基皇子を弔うために光明子が金鐘寺を建てた場所であり、東大寺は金鐘寺を拡大させたのが実態だ。根強い自己満が感じられる。
また、正倉院に納められている楽毅論にも44歳だった光明皇后が、”藤三娘(=自分は藤原家の三女)” と自署している。どんだけ藤原なんだよ、っと唖然とする。光明皇后の藤原への想いは強い。彼女が本当に心美しい聖女だったのか非常に疑わしいと私個人的には失笑している。聖女としてまつりあげ称賛する為に慈愛に満ちた伝説つくって必死やねーってしか思えん。どこが聖女やねんww 私は長屋王の方が好きだ。ベー

でも749年には、聖武&光明は行基から受戒し法名を授かっている。752年、約一万人の僧侶が集まり盛大に大仏開眼供養が行われた。この時は大仏の頭部のみが鍍金されていて、台座は制作が始まったばかりで大仏の後背の完成は20年後だった。756年、聖武天皇は56歳で永眠。
大変失礼ながら、活動的な馬鹿より恐ろしいものはない、というゲーテの言葉が脳裏に浮かんできてしまう。重税や強制労働で塗炭の苦しみを味わった民。そんな思いをして建てられた大仏は、1180年、源平の戦いで平重衡に焼かれ、源頼朝が再建。次は1576年に松永久秀に焼かれ、後に徳川綱吉の母桂昌院が再建した。
碌な事をしなかったとしか思えない聖武天皇だったが、その東大寺の大仏は、新型コロナウイルス騒動前までは、観光名物として小中高生の遠足や修学旅行を始め、国内外からも大仏を一目見ようと訪れる人も多く、経済活性化に一役買っていたのは事実だ。この恭仁京址も登山の格好をした御高齢男女グループが訪れていたし、あちこち遷都したのも後世に多少の経済効果をもたらしているのだろう。
この恭仁京で安積親王が亡くなったのかぁと無念を感じる。東大寺大仏に思いを馳せると、行基にひれ伏す思いと同時に行基の生き方を思い自らを正そうという気に自然になる、また命懸けで当時を生きた大仏造立に関わった民たちの血と涙と汗の結晶だなと涙がこぼれそうになる。
まっ、実際のところ昔からこんなんだったのですから、近頃は工作員にたぶらかされメッロメロ♪なMちゃん的噂がたっていますが、それが事実だったとしても、Mちゃん姉妹やそのご両親だけが特別におバカってわけでもないと思いますね。昔から変わっていないですよね。逆に今は、跡継ぎ不足だから己が権力を握ろうと邪魔者を殺害する必要もなくなり昔よりすっごいマシになったなぁと思う。ってことでMちゃんも今まで通り堂々としていれば良いと思う。
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