吉水院


明治新政府の神仏分離令、廃仏毀釈によって吉水神社と名称が変わったが、寺院の矜持 という感じでここに残された”吉水院”という石碑が好き。力で強引に抑えつけても結局無理があるんですよねぇ。

金峯山 吉水神社


金峯山 吉水神社


吉野山の桜は山桜で、奥千本、上千本、中千本、下千本と群生地が続く。ここ吉水神社は中千本に位置する。今を4月上旬ていうのか中旬というのかは知らんがとにかくこんな感じ。桜の季節には混むから来たくないのだが秘仏開帳のためなので仕方がない。案の定凄い人出で、ここは上千本の桜まで一望できると人気のスポット。この看板を背景に自撮りしまくっている中年女性軍団がずっ~と占領してていてめっちゃ邪魔だったー。

金峯山 吉水神社


弁慶の力釘が。源頼朝に追われ逃げた義経は弁慶や佐藤忠信ら数人と、懐妊していたという静御前を連れ1158年、ここ吉水院に隠れたが、追手がやってきたのを知った武蔵坊弁慶は、そばにあった釘を二本抜き取り、石にその釘を親指で打ち込み、それを見た追手達は恐れをなして逃げ帰ったというその現場。

金峯山 吉水神社


わかりやすいように弁慶が親指で押し込んだという釘に印をつけておきましたよ~。冷静に見ると何かのご利益を期待しているのか硬貨が投げ込まれているところがウケます。アハハハハ 石に釘が打てるなんて初めて知った気がする。

金峯山 吉水神社


世界遺産にもなっている吉水神社の書院に拝観料600円払って入ってみました。役小角に心がメロメロにとろけているのですがこの書院に役小角の木像があり写真を撮れるようなのですよ~。ここは義経一行が隠れたお部屋でもあり、静御前の着物とかが残されている。ここ吉水院は義経と静御前が最後に過ごした別れの場所。

金峯山 吉水神社


そして、ここで弁慶が思案したんですねぇ。お金を取られるこの書院に入ってくる人は0,1割にも満たないようでガラガラ。

金峯山 吉水神社


40歳で子どもがいなかった楠木正玄は信貴山に登り、毘沙門天(役小角が作り安置したもの)に祈ったところ正成を授かった。足利尊氏勢と戦闘になったら新田義貞は必ず負けてしまうからと後醍醐天皇の隠し場所を探していた楠木正成は、吉野山に登り役行者を思い祈った。”百万の大軍が攻めてこようと登るのは難しい”と険しい山頂の平地を皇居に相応しいと教えてもらったという。楠木正成は戦死してしまったが、1336年、後醍醐天皇は吉水院の宗信法印の力添えもあり、ここに逃げ込み吉水院を南朝の皇居とし、56年間続く南北朝時代の幕開けとなった。

ここが豊臣秀吉が修理したという後醍醐天皇の玉座。百人一首の絵札にこういうところに座っている人の絵がでてくるな~。

金峯山 吉水神社


こじんまりした平屋建てなのですが、山深く木々に囲まれ眺めはよく落ち着いた良い所。後醍醐天皇の御物や楠木正成公の所持品、空海や最澄の作品や狩野永徳や狩野山雪の作品、一休和尚の墨書などなど南北朝時代、安土桃山などの宝物が展示されている。それは分かるのだが、不思議なのが弁慶の槍。未だ未だ追っ手をまきながらの逃亡は続くはずなのにここに置いていった??

金峯山 吉水神社


更に謎いのが、やはりこのような身体を守るグッズも展示されている。

金峯山 吉水神社


もっと衝撃なのが、義経のこんなんまで。ぼろくなったから捨てていったんか??? 頭はずっと?のままだった。

金峯山 吉水神社


634年に現在の奈良県御所市茅原で生まれた役小角は、舒明、天智、天武、持統、文武天皇の時代に大和葛城を中心に呪術者として名をはせた人物で、7世紀の飛鳥時代に確かに実在した人物なのだが、彼自身、書物も残していないし教団も率いていないし名誉欲も栄華も欲しがらなかったし、様々な日本の古記にも役小角を記したものはあるもののその生涯は実際のところ謎に包まれている。

役小角の母親は大和の高加茂の白宣女とはっきりしているが、3歳で父親と死に別れているがそもそも役小角の父親には諸説あり、役小角は舒明天皇の子だったとか、出雲国の雅楽を行う加茂氏出身の大角が役小角の父親とか、天から黄金色の独鈷が雲に乗って降りてきて母親の口に入り妊娠したとか、

ここ”布留の高橋”に出てくる平群鮪とは平群真鳥の子だが、平群鮪と契りを結んでいた影姫を武烈天皇が見初め平群親子を殺害したのだが、役小角は武烈天皇に殺された平群真鳥の子孫であるという記述もある。

金峯山 吉水神社

出産時には五色の雲が産室を覆い、一枝の花を握り生まれてき、言葉を話すこともできたという。比べる者がないほどの博学で4歳からは常に泥土で仏像を 草茎で堂を造り花・水を献じ、身を地に投げ出して礼拝していたとか、7歳の時に自ら梵字を書き、言葉を発することがなくなり葛城山に登り法喜菩薩の姿を拝んでいたとか、人間の患みを除きたいとの志を13歳でもち、教えられるでもなく不動の真言を諳んじ、孔雀明王経を読み習い、毎晩葛城山にこもり夜明けに帰宅した。17歳で藤の皮の衣を着、松の葉を食し葛城山で修行し、19歳で金峯山で修行をし30歳で孔雀の呪法を修め非凡な験術を得、空や海を自由自在に飛べたという。

更に不思議な話は続くのだが、15世紀に修験道が教団として形を整えていく中で役小角が修験道開祖としてまつりあげられたが、役小角については正直よ~わかっていないのが実態なんですよねぇ。しかし、いずれにしろ常人ではない事は確かだ。役小角の出生は賀茂の役君であり、賀茂氏は神武東征の際に神武を吉野から宇陀へ先導した八咫烏を祖としているようだし、この氏族から賀茂大社の賀茂(鴨)氏や、安倍晴明を弟子として育てた陰陽道宗家賀茂氏が出ているので不思議な能力を持つ血筋なのかもしれない。

役小角に付き従った夫婦の鬼、前鬼・後鬼も可愛い。


ここ金峯山寺の僧房であった吉水院は1594年、太閤秀吉が催した吉野の花見本陣の地だ。関白秀次をはじめ徳川家康、伊達政宗、宇喜多秀家、前田利家らの戦国大名や公家、茶人、連歌師など総勢5千人を引き連れた盛大なものだった。秀吉は甥の関白秀次らと共に能を演じたり、内陣2本の金箔張り化粧柱や須弥檀を寄進したりしている。

この吉野での観桜会の翌年1595年、秀吉に切腹を命じられた豊臣秀次は高野山で没することとなる。ちなみに千利休は1591年に秀吉の命で切腹して果てているし賢弟豊臣秀長も同じ年にお亡くなりになられているので二人とも吉野の観桜会に姿はなかった。

金峯山 吉水神社

吉野で花見が行われた4年後、秀吉は没する。約1300年前に役行者が創立したと言われている修験道僧坊はこうして今に至る。深い歴史のある地。  ↓もしよかったら押してね↓  
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