金剛蔵王権現


念願叶って全てがうまくいき行ける事になった金峯山寺蔵王堂の金剛蔵王権現秘仏ご開帳! 今では、車や電車や観光バス等でピューと行けますが昔々は金峯山に参詣するためには、短くても37日、長ければ50日、百日の間、世俗を離れ、酒肉五辛を絶ち、勤行三昧と厳しい潔斎を経てやっと金峯山詣でへの出立が許される、という厳しくも神聖な場所だった。

駐車場は満車で、近畿圏や中国地方はもとより関東地方や中部地方ナンバーの車がずらり。むろん観光バスも何台もとまっていて、人出は賑やかで皆マスクは付けているもののコロナ危険の煽り報道と実際の人達の行動とのギャップをこんなにも感じたのはきっと初めてだったかも。コロナ対策費用って事で駐車場が2千円に値上がりしていた。

吉野と言えば桜が有名ですが未だ咲いていた。金峯山での一千日の苦行の末に役小角が祈り出した金剛蔵王権現。その御姿を桜の木に彫り刻み、後に蔵王堂となる場所に祀り、「桜は蔵王権現の神木だから切ってはいけない」と里人を諭したことから ”桜一本首一つ、桜一本指一つ”と言われるほどに桜の伐採が戒められた。また、桜を献木する信者も多かった。1579年12月には大阪平野の豪商・末吉勘兵衛氏が1万本の桜苗木を寄進している。吉野に逃れこの山に皇居を開いた後醍醐天皇も「役行者の威徳だ」と多くの桜を植えさせた。

吉野 桜


駐車場やロープウェイ駅を降りると細い参道に小さなお店が両側にずらっと建ち並んでいるし屋台も出ているし観光地化している。ここは江戸時代に創業した御店ですね。何軒か破産勧告の貼り紙がしてある閉まった店舗も見かけた。中には露天風呂をウリにしていた御店も破産していた。

吉野 金峯山


1333年1月、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が、鎌倉幕府討幕にむけ6万人の幕府軍を相手に3千人の兵で吉野山で挙兵。敵の進入を阻む掘がつくられていたこの大橋のあたりは激戦となったようで ”攻めが辻” と呼ばれている。1週間持ちこたえたという。蔵王堂に立て籠もった大塔宮護良親王は、討ち死にの覚悟を決め蔵王堂の広い庭で最後の酒宴を催した。嘗てここでそんな事があったなんて想像もつかないくらいのどかでほのぼのした場所。

金峯山 大橋

この写真↑ 人の流れがキレたわずかな一瞬で撮ったんですよ~。山道は下り坂だったり上り坂だったり舗装されて整備されていなければどれだけ険しい山だったのだろうと震える。役小角の人生の過ごし場所はほぼほぼ山で修行三昧だったし、その後の人達も馬や徒歩でここまで来たのかと感嘆する。

金峯山寺の総門である黒門。昭和60年に改築されたそうですが、昔々は公家大名でもこの門からは槍を伏せ馬をおりて通行したと看板に記載してあった。衆生を救う事を願いひたすら修行に生きた役行者から始まり自然に彼を祖として修験道が広まり、明治元年から始まる廃仏毀釈や修験道廃止令などの明治新政府による嫌がらせが行われるまでは、蔵王堂を中心に山上に36坊、山下に百数十坊の堂社が建立している壮大なものだった。

金峯山 大門

明治元年、金峯山寺に対し明治新政府は、”蔵王権現を神に改め、僧侶は神職になるか僧侶をやめて還俗しろ” って通達。明治4年には、境内以外の朱印地や除地を政府が強奪。明治5年には修験道廃止令を出し権現信仰を禁止し、”神社にしねぇなら廃寺なっ” とほざき、明治6年には、”吉野山蔵王堂を金峯神社口ノ宮、山上蔵王堂を同じく奥ノ宮とするべきこと”と通達してきた。神社に変えさせようとしたんですね。天皇陛下を中心に日本国を一つにまとまらせようと必死だったのですかねぇ、そうとしか思えんのだが。

吉水院は吉水神社となったが、後に、東南院、竹林院と桜本坊、山下蔵王堂に金峯山寺の寺号が戻り、喜蔵院が仏寺に復興したがあとは修験寺の復興は許されず全部潰された。修験道廃止によって無職となった山伏は約17万人もいた。

まるで現在のどこかの国の某政党と同じような事してますよねぇ? 突然、こんな酷いことをされたのにその新政府が後々に徴兵制とかでしょっぴいたり、「天皇陛下万歳♪」とかって国を守るためとはいえ突然そんな気になるかいな? 美しくつくられた話なんだろうなぁと思ってしまう。

金峯山 蔵王堂


すっごい凝った造り。修理しないと危険だからか仁王門は閉鎖されていた。

金峯山 蔵王堂


蔵王堂は、出雲大社や東大寺大仏殿と共に国宝建造物として日本三大建築と誉れ高い。落雷や南北朝の戦い等で過去5回焼失している。その度に建て直されてきたわけだが、杉、松、欅、ツツジ、梨などの様々な材木をそのままの状態を活かして使い68本の柱で天井を支えている。天井から何から微細な技術を使った丁寧な造りに見えた。もっと簡単な作りにすることもできるのにここまで凝った建造物にする理由はなんだろうか? 権威付け周囲への威嚇誇示なのだろうか???

金峯山 蔵王堂


蔵王堂の中は、撮影禁止の立札があった。パンフレットで見るとこんな感じ。なんと中央の像は7M越えで超巨大。3体の中央が釈迦如来で過去、向かって右手が千手観世音菩薩で現在、左が弥勒菩薩で未来を表していて、ずっ~と衆生を救いますよという事をあらわしている。この三尊が融合して一体の仏となった御姿が金剛蔵王権現。

大峯山上ヶ岳の山頂にある巨石に座し人々を救う神仏を祈りだすために孔雀明王経や不動明王経を一心に唱えた役行者。釈迦如来、千手観世音菩薩、弥勒菩薩と順に現れたが、恐ろしい様相でないとなめ切った人々を救えないと 怖いのを!って祈ったんですよね。金剛蔵王権現の御姿を見た時これだ!っと悟ったのだそうなのだが、人間って全く優しくされるだけではダメなんですねぇ。

金剛蔵王権現


実見すると自然とひれ伏してしまうような威厳ある神聖な力を感じるこの金剛蔵王権現は、蔵王堂が1586年の火災で焼失したため宗印仏師が制作し1592年頃に完成したもの。宗印仏師といえば、京都市東山区の方広寺の大仏制作を手掛けた人物。ちなみに豊臣氏滅亡のきっかけとなったのはその方広寺の梵鐘だ。

金剛蔵王権現さまが右手に持つ三鈷杵は天魔を粉砕し、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切り、左足で地下の悪魔を抑えつけ、右足で天地間の悪魔を払っているとう。極めつけの背後の炎は大智慧をあらわしているという。

実物をよ~く見ると、真ん中の像の足の下には眠る虎がいて、隣の像にも足の下に虎がいるんですわ。法衣を着て監視や誘導をしておられる方に質問してみたら、「本当だ、虎だ! 知らなかった! 虎のパンツじゃないかな」と仰っていたが、虎模様のパンツ??? よ~わからんがバイトの僧侶だったのだろうか?(笑) そんな若い感じではなくどんなに若く見ても30代には突入しているだろう御方だったのだが。。。。

明治政府の神仏分離令の時、蔵王権現像は大きすぎて持ち出せないので蔵王権現像の前に大きな鏡をおいて神としておまつりしていたという。山上の本堂は、本堂前の広場に新堂を建てて本堂内の仏像を全部移し、管理を檀家寺に託した。その山上本堂は後に大峯山寺となり現在に至っている。女人禁制でしたよね。差別がー(≧∇≦) ギャハハハ

そして、金剛蔵王権現さまの現在の姿がみれる木像がありますよって事で奥に入ってみた。大きくてびっくりだしよく見ると木の継ぎ目が見えたので丸々一本の木を彫っただけの作りではないんだなぁと。。。鎌倉時代の作品だった。明治政府の廃仏稀釈で壊されたお寺、奥千本の安禅寺蔵王堂のご本尊だった蔵王権現像をここ蔵王堂に逃がしたのがこの像なのかな。

他にも聖徳太子孝養像や、世尊寺の本尊だった釈迦如来像や役行者と前鬼・後鬼像、峰の薬師堂から移された薬師三尊像などなども安置されていた。


印象に残ったのが、理源大師が所持していたという笈(山伏が山野を跋扈するために必要な、用具を収納して運搬できるようにしたもの)。今でいうバックパックみたいなもんなのだろうが、ごっつい小型箪笥みたいなのなんですよ~。理源大師聖宝は、真雅(空海の実弟)に従い出家し若い頃から金峯山で修行をし醍醐寺を創建したり、吉野川に渡り船を設け行場を整備し金峯山に堂を建立し、確実な記録として金剛蔵王菩薩像を造立した最初の人物だ。

金峯山 蔵王堂

この秘仏本尊特別ご開帳!は、1600円。靴を入れる為の金峯山寺ロゴの入ったバックと蔵王権現様祈祷済みの木札がもらえるんですよ~♪ 嬉しいわ~。念願の蔵王権現像がみれ夢が叶った♪

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