好きな場所が見つかった(笑)
実は私、自分が意外とサービスエリア好き♪ って事に気づいちゃったんですよね。折り紙で作ったこんな可愛い↓のもありますしねぇ。サービスエリア内のお土産コーナーなどを物色していると時々おっ! と目を引くものがあったりもしますしね。

そんな感じで思わず買ってしまったのがこれ↓ 【和歌山みかん ポテトチップス】 どうやら原材料レベルから品質も良さそうですしね。これで500円はゆうに超えていたのですが、まぁ量も多いですしね~♪ プレミアなのでしょう(ノ´▽`*)b☆ 日本一のみかんの里の有田みかんパウダーを使用♪ じゃが芋も国産品。美味しそうでしょう。

では、ここで、和歌山みかん ポテトチップス を記念???して、蜜柑のウンチクを語ってみよう。いや、語らせてくれw 昔々、
新羅から帰化した子孫の田道間守は、病気静養中の垂仁天皇の勅命を受け出立した。なんでも、垂仁天皇はご自分の病気をなんとかして治したかったようだ。田道間守は、ついに、
永命長寿の効果有といわれる非時香菓という果物の情報を聞き入れそれを探し出しゲットし帰国。が、天皇は既に崩御されていた。絶望に打ちひしがれた田道間守は、気候風土が似た地である下津町橘本(和歌山県海南市)にその苗木を植えた。これが蜜柑の始まりだとか。。。田道間守は、お菓子の神様 とか 蜜柑の神様 と今でも崇拝され神社があったりもする。
橘(非時香菓)の実は密のように甘かったので みかん と呼ばれていた。”みつかん” の方が名前の由来としては良い気がするが。でもまっ、
その後、山岳信仰の流行により白河上皇などは、なんと!12回も熊野参詣をされたそうですが、まぁそれが次第に庶民の間でも熊野参詣が行われるようになり、その行列を揶揄して ”蟻の熊野詣” などと言われるまでの一大ブームとなった。その熊野参詣のお土産として みかん が売られていたんですねぇ。
お土産として人気だった蜜柑ですが、この頃の蜜柑はまだまだ今の有田みかんと比べたら不味っ!! まぁ私も食べたわけではないのですがね。
1574年、伊藤孫右衛門が肥後八代(熊本県)から、有田の蜜柑よりも美味しい苗木を2本持ち帰り有田市糸我町に移植してみた。育ったその苗木を有田の在来のみかんに添木したところ甘~いみかんが採れ、これが紀州みかんの始まりとか。伊藤孫右衛門さんのお蔭で今の美味しい紀州みかんが食べられるんですね♪ そして、
1619年に紀州徳川家初代藩主となった徳川頼宣は、名君として誉れ高い彼ですが、勧業政策にも熱心で、有田地方の丘陵、渓部では 「紀州の山がちな地形がみかん栽培に適している」 と、蜜柑に関しては税金を免除するなどしてみかん栽培を推奨した。自国を繫栄させよう盛り上げようという名君徳川頼宣氏。
1634年、有田郡宮原組滝川原村の 後に”みかん藤” と称されるようになる藤兵衛は、己の全財産を投じ荒れ狂う熊野灘、遠州灘の波をのりきり1か月の航海の末、みかん400籠(6t)を江戸に海上輸送することに成功した。
味の良い有田みかんは江戸の民に大人気で一籠半(一籠=約15kg)が、一両(一人が一年間で消費する一石分の米を買える)高値で売れた。大儲けでんな♪
有田に戻った藤兵衛は、村人たちに頼まれ1635年には2000籠(30t)を江戸に送るようになり、1656年には5万籠を送るようになった。。しかし、紀伊國屋文左衛門よりも約50年も前に蜜柑で財を成した藤兵衛よりも
1685年に下津港から出航し嵐の中、蜜柑を江戸に運んだ紀伊國屋文左衛門の方が有名な気がするのが不思議です。下津港には、”波風が強く生モノを運べなかった江戸時代に決死の覚悟で江戸に蜜柑を運び財を成した紀伊國屋文左衛門” の石碑がたっていたりもしますし。私は、藤兵衛派ですが♪
1716年~1736年には、50万籠も江戸に送り、紀伊國屋文左衛門らの豪商伝説が生まれた和歌山の蜜柑。
今では庶民がポンッと箱買いするのが当たり前のような蜜柑ですが、需要と供給というのは誠に興味深いものだ。昨今ではマスク買い占めなどでマスク値段高騰!などもありましたし(^^; で、肝心の御味なのですが、

この和歌山みかんポテトチップスは、確かに、ほんのり みかん風味がして美味しいですね~。
首傾げながら食べ、「普通のコンソメパンチがいい、ポテチの塩味食べてる感じ、もうちょいパンチが欲しい感じ」 と言いながらバクバクと和歌山みかんポテトチップスを食べ続けている人もいた。

文句言いながら一番バクバク食べている人の不思議(笑)
↓もしよかったら押してね↓


