養翠園
国指定文化財で名勝と言われている養翠園庭園。もともとは藩士の山本理左衛門の下屋敷だったそうだが、どういう経緯で手に入れたのかは知らんが、とにかくこの地は、紀州徳川家第十代藩主徳川治宝(ハルトミ)氏が1818年から8年かけて松を主体とする大名庭園として造園し、藩主の別邸、隠居所、また御茶のための別業庭園として当時のまま保存されている庭園だ。

四季折々の花々が楽しめるって事らしいが時期が時期だからでしょう、特に花は見えない。庭師さんらしき方が植木の手入れをしている。この池は海水を引き入れた汐入池だ。中国の西湖を模して造られたそう。また天神山、魚頭姿山を借景とし、海辺にあるのにまるで山中にいるかのように感じさせる庭園。美しく実に見事だ。

三ツ橋を渡りL字型に道にそって行った先の中間地点の小さな島=守護神島には鳥居があり小さな神社がある。弁財天と伏見稲荷神が祭られていたが、この2神のチョイスが良い♪ 今はコンクリートで出来ているが、三ツ橋、太鼓橋は当時は土橋だったそう。
しかし、こんな美しい庭園を眺めながら暮らしていたら心も美しくなるだろうなぁ~。ここに座って日がな一日読書していられたらどんなに素敵でしょう。

今は公道に沿い生垣が形成されているが、当時は外の田畑と渾然一体でその四季の実りも庭園の一つの景色として取り入れていた。戦後に田畑7,000坪は農地法によって分離され、庭園部分10,000坪のみとなった。でも奥女中方に金カン狩りをさせていたと言われる ”元 金カン畑” の地が残っていた。今は生育中の小さな松の地になっていたが。養翠園庭園以前からの樹齢300年以上の松もあった。
太鼓橋を渡り更に奥に行くと隣には船も浮かんでいて海水をそのまま入れているんだなぁと確認することができる。当時は、藩主徳川治宝氏が船で養翠園庭園に来られ上陸されていたんですと。

こちら↓は、1821年に建てられ紀州藩主徳川治宝氏が使われた御茶屋で、旧地に旧状のままのこる唯一の建物である養翠亭。内部見学は普段はできんが、別荘建築として供回りまで完全に残されたものは全国的に稀少だそう。1991から3年かけて全面解体修理をしている。が、さすが文化庁のお仕事、当時のボロさが忠実に演出されていて味わい深い。

ここ↓は御船蔵” と言われている場。藩主徳川治宝氏が西浜御殿から船で来遊されこの場に入り、上陸されたと。今は通船禁止となってああやってコンクリートで通せんぼされてますが、しかしあの幅を見ると結構小さな船でこの茶室に来られたんですね。
紀州歴代藩主の名君と誉れ高い徳川治宝氏は紀州徳川8代藩主重倫の第二子で19歳で紀州藩主となった。学問好きで有名で、8歳~30歳の紀州藩士の子弟の教育を義務化し、和歌山城下に医学館,江戸赤坂紀州藩邸明教館,松坂城下に学問所を開設し本居宣長を住まわせたりもしている。本居大平を登用して史書を編纂させ『紀伊続風土記』の新撰を命じたり『古事記伝』の題字も治宝が行なっている。
また、学問だけでなく、表千家や楽家を庇護し、表千家の総門を下賜したりもしているし、絵画にも親しみ、菩提寺の長保寺には治宝筆と伝わる狩野派風や南蘋派風の作品が残っていたりもし多能多芸で陶器などにも精通している。ちなみに和歌浦に不老橋を築造したのも治宝だ。治寶と治宝って同じ人だからね~。
1823年には隠居したが藩政の実権を握り続け、藩の専売特許や熊野三山貸付所の利権を掌握していた治宝氏。藩主時代には節倹を督励し商工を起こしたりもし経済にも明るかった。

さて、養翠園庭園内にある銀白の透き通るような壁襖紙で雪山にいるかのような錯覚を覚えるこの建物↓は、湊御殿。紀州徳川家2代目藩主徳川光貞氏の隠居所として1698年に和歌山城の南西の現在地名だけが残る和歌山市湊御殿1~3丁目に造営され、歴代藩主が使っていたもの。8代藩主徳川重倫が特に気に入って使ったいた。
湊御殿は何度か火事になり都度再建された。この建物は紀州11代藩主徳川斉順の時代に再建が命じられ紀州藩の江戸屋敷を模して造られ1834年に完成したものという説が有力だ。その後、お寺や個人の手に渡り、明治時代に和歌の浦に建物が移され、2006年にここ養翠園に移築された。柱は上質で普通の木材よりも強い栂柾材が、天井には紙王と言われる鳥の子紙が使われている。

ここは駐車場のすぐ隣でここだけなら100円で入る事ができるが、養翠園庭園を入園料入って来た人は無料で内覧できる。しかもボランティアの優しい御爺様の詳細な説明付き♪ でも養翠園入園料払って入って来た人なのか、無料でここまで来た人なのか分かる術はない。完璧に人を信頼するシステムとなっていて和歌山人の人の好さが前面に出ていて心配だ(^^;
で、長押をめぐらし欄間のある格式ある建物で、湊御殿の工法は武家屋敷でしか許されていないものだった。部屋に床や棚を設けた書院造が大名住宅として取り入れた姿をとどめた貴重な建物なんですと。
この襖の絵↓は、狩野派の紀州藩御抱絵師の絵なんだそうで、この男性は中国人なんですと。裏面には花鳥図が描かれているらしい。庭園も中国的手法で作られ中国の西湖を模したりしているし隣国なんですなぁ。。。しかしこんなとこにまで中国人書かんでも(^^;

江戸時代の蝋燭は粗悪品で、使うと煙がモクモク出てくるためこのお部屋↑の右上部に映るように天井に煙を出す穴(=油煙抜き)がつけられていて、またその煙が天井内に住む虫供養にもなっていたとの事。なんでも韓国は床下に煙を流し床暖房にしていたとの事。韓国、床暖房にしてたのかい、凄いな。
所々に葵紋の金具が飾り付けられている。隣に見える床の間の有る部屋は、避暑地として夏の間だけ政務室として使われており、今でいう県庁みたいな感じ。
というのも天守閣は今では観光用に窓が張り巡らされ眺めも風通しも良く爽快な所だが、当時、天守閣には窓がなく夏はとても蒸し暑い場所でとても仕事などできる状況ではなかった。でもその分、冬はお城は暖かかったそう。
で、政務中など隣との襖が閉められていたわけだが、この狩野派の絵の部屋、政務室との襖のすぐのところに今でいうSPが2人、待機警戒していた。
ちなみに、ここの畳は祝い敷きで敷かれている。畳の敷き方にもいろいろあるのをここで初めて知った。この建物は今も御茶会などで利用できる。

この絵↑は200年前に書かれたもの。実はこの絵には洒落みたいな謎かけがされている。ここは陳情に来た町の人などが順番を待つ部屋なのだが、”陳情全部が通るとは限らないよ” と絵で町人に語り掛けているとの事。

この閉まっている木の板というか戸ですな↑は、”龍が火を吹いているような図柄が浮き出ている” との事で200年前に寄贈された板なのだそうだが、なんでも自然に出来た模様で貴重な物みたい。
これ↓玄関というか入り口のぼった所の板なのですが、滑り止め効果を引き出す素材を使って作っているとの事。階段などの石は、紀州では沢山ある特産品である青石が贅沢に使われていた。

親切なボランティアの御爺様がおられて一緒に回りながら説明してくれて本当有難かったわ~。和歌山って良い所だわ~♪
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