神域
片側は断崖絶壁崖とかで車一台やっと通れる細山道を通り、途中、野生の御猿さんに会った。2歳くらいだろうか未だ若いお猿さんでお顔が真っ赤だった。きょとんとした目でじっとこちらを見ていて可愛かった♪ めちゃ可愛だわ~。
着いた先は、白山中居神社。岐阜県八景なんですね、見事な紅葉だ。

なんとも深いそして懐かしく感じる場所。鳥居をくぐって石段をおりると右手に神池がある。

参道には境内社・猿田彦社(道祖神社)が祀られているが、猿田彦神社って伊勢にもあるし手塚治虫の火の鳥にも出ていたが本当に居た人なのだろうか??? そうか神か! 参道は山をくだっていく。

この白山中居神社が鎮座する石徹白村は、白山信仰が隆盛の時代には ”白い神の郷” と呼ばれていたそうな。村人は、白山中居神社の社人、社家として無税のうえ名字帯刀を許された地だった。もちろん古~い昔の家屋とか小さな小学校なども細山道中にあった。わざわざここに移り住む人もあまり居ないだろうから子孫さんですかいな。
伊勢神宮を思わせる様な橋が参道にかかっている。

こちらが宮川。この橋は近代に作られたそうだが、橋のない時は一体どうやって向こう岸に渡っていたのだろうか? あの川の石をぴょんぴょん飛び越えて行ったとしか思えん。川の水が澄んでいてとても綺麗でお魚さんが泳いでいる姿も見えた。

手水舎では格好良い龍さんの口から流れ出る水で身を浄めて。

この石段↓をのぼった先に本殿がある。この石段ですからね、足場は悪い(笑) ここは、縄文時代末、紀元前6千年前に稲作を始めた頃より豊作を祈願し祭祀が行われていた神域。縄文時代からというのが何とも凄い。縄文時代の火焔型土器など実に立派で精巧であんな燃え上がるような装飾が施され旋律が聞こえてくるような土器を既に縄文時代には作っていたんですよね。
麻などの食物繊維を編んだ布服や動物の毛皮などを身にまとい靴を履き、漆塗りや、石や貝などでアクセサリー、蔦を編みポシェットなども作っていた。山葡萄で作った葡萄酒とか果樹園や植物栽培なども既に行っていたし、道具の利用で狩りや漁の技術も発達し、物見の塔を作ったり、船を作り交易すら行っていたという縄文時代。その縄文時代からの祭祀が行われていた神域がここ。
しかし医療技術知識が未発達だった為か縄文時代の平均寿命は14,6歳だったそうで、幼少期を生き残れると平均寿命は30代にまであがる。運や心身が強い者が生き残った時代。
また、ここは霊峰白山の真正面にあたり、遙拝の神域でもあった。

凄く凄く古いのがわかるが、感動してしばらく動けなくなるような彫刻が施された本殿。景行天皇12年(西暦82年)に、国家鎮護の為に本殿が建立され、717年には泰澄大師が白山中居神社の社域を拡げて社殿を修復した。
天武天皇、聖武天皇の両朝時には神剱、神馬の奉納があり、藤原能信、藤原秀衝、今川義元、織田信長、柴田勝家らがそれぞれ神宝を寄附して崇敬の誠を尽くしたとされている。1590年には伊藤秀盛が主豊臣秀吉の為に立願状を捧げたり、徳川家康は代参を遣わし祈願所とした、と非常に感動的な歴史で縄文時代から大切にされてきた神域だ。

縄文時代から始まり、名だたる武将たちも心を寄せた神域だけの事はあって古い。このように↑本殿の鳥居の右側の柱下は白蟻に食いつくされたようになっていた。そして、本殿鳥居左側の柱下↓は、なんか土台からずれているような。。。そろそろ修繕が必要な頃なのかもしれない。それとも石と支柱を固定しないで地震などでこのようにずれたりしても倒壊しない却って強度が増すってやつですかいな???? よー分らんが。どーなんしょ? とにかく!白山中居神社はとても神秘的で綺麗な地。

行きとは別の道を通るとちゃんと舗装された2車線道路で悠々安心して行き来できる。

国道156号線沿いの白鳥文化博物館のある道の駅白鳥にてこれ↓買った。

高齢者が増えているからだろうか? 近頃どうも御煎餅なども柔らかいのが多い気がする。この ねぎみそせんべい もふっわさっくって感じだった。美味しかったけどね~。私はバリバリ硬いのが好みなんだけどね。炊飯も硬めが好き♪
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