真実は如何に!???


寝転んで乗っていてもいいような誰もいない電車に乗って着いた先は、群馬県館林市。駅前の大通りでも車が数台通っているだけで、お店は開いているけれども人は誰もいなく不思議。館林ってもっと都会なのかと勝手に想像していたが、あまりにもほのぼのとした田舎でビックリ。静かに暮らせそうな良いところだわ~。

館山市


館林駅から10分ほど歩くと、鷹匠町長屋門に到着。このあたり一帯は、館林城の侍町だった場所。鷹を訓練し鷹狩りに従事する役職である鷹匠が生活した中級武士の居住地区だった地。

鷹匠町長屋門


門だけが残っていて、中は空き地。

鷹匠町長屋門


かなり重厚な門だ。が、今の感覚からはなんか凄い感がありますが当時はこの門にも人が住んでいたんですよね。いや、意外と便利だな、この造り。ありかも!

鷹匠町長屋門


この長屋門から徒歩1分もしないところに武家屋敷 ”武鷹館” があるのだが、開館は土日のみ。まぁ狭い敷地に残された住宅だが、外から見て満足した~(笑)

武家屋敷 ”武鷹館”


家屋敷 ”武鷹館” のすぐ目の前には、”田中正造記念館” がある。狭い建物の中に彼の活動を紹介する資料がパネルにダッーっと貼ってあって無料。田中正造氏、この方は衆議院議員さんだったんですよねぇ。

田中正造記念館


足尾鉱毒事件をみると、確かに多大な被害が出たようだ。ここ ”田中正造記念館 のパネル展示では、豊かな土地だったのに、足尾銅山が銅のカスを大量に流していたのが原因で、恵みの薬水が毒水に変質。1890年(明治23)の渡良瀬川大洪水で農作物被害が拡大し、魚類が捕れなくなり、米や麦などの農作物なども育たなくなった、としている。

それを鉄道運賃も払えない貧しい農民たちが徒歩で東京に何度も請願に行ったりしていた。

谷千城農商務大臣は、被害民救済などを主張。勝海舟は足尾銅山操業停止を要求。足尾鉱業主さんは加害責任を認め、鉱毒予防工事命令に従い104万(今の104億円)をかけ対策を実行し、また、8500戸ほどの被害農民と示談交渉を行い、総額10万(今の10億円)の損害賠償金を支払った。被害者との示談は2回にわたり行われ、2回目の示談の時は、いかなる被害があっても苦情は一切申し出ない、という永久示談として成立している。



しかし、1896年(明治29)の大洪水で、被害が人体に及んだことから、被害者らは示談契約を破棄。鉱毒事務所に結集し、とめる警察を強行突破し政府に請願するため東京に向かい、その農民たちの中から逮捕者が出て裁判になった川俣事件が起こったりしている。


しかし、もちろんこの資料館にはないが、明治30年、田中正造率いる一派が足尾銅山の操業停止請願を行った時、反田中派とでもいおうか2万2182人は操業非停止の陳情をしている。田中正造の信奉者である花村富士男も、”その数、田中派の10倍近く” との記述が残っている。操業停止を求めているのは全体の1割といったところか。



1901年(明治34)、明治天皇の馬車をめがけて飛び出し田中正造が直訴。直訴状を渡すのには失敗したが、新聞に掲載されたことで足尾鉱毒事件が日本中に知られるところとなった。

しかし、もちろんこの資料館にはそういった資料がないが、明治34年には、田中正造が自分のいう事を聞かなくなった被害農民の事を、馬鹿 と手紙に書いている。



1902年(明治35)の足尾台風の大洪水によって谷中村は大惨状となり、これによって行政は遊水地化に向けて動きだした。洪水調節のために旧谷中村を廃村にして造られる遊水地、土地の強制買収、これらに反対運動をしたのが田中正造との事だ。


正義のヒーローのようにまつりあげられている田中正造だが、もちろんこの資料館にはその資料はないが、明治36年には、田中正造と共に活動する人は実は3人しかいなかった。また、田中正造は、ビラを作って農民に配ったりして、 ”豊作は予防工事のためでないから、足尾銅山の鉱業(操業)停止運動を進めなければならない、古河市兵衛に繋がる連中にだまされて、私の指導する運動に従わなければ、妻子を殺されるような目にあうだろう” などと脅したり、”嗚呼今日いまだ毒薄しとて油断せる土地の村人よ、後悔臍を噛んで死することなかれよ。” などと書いた記述が残っていたりもする。

田中正造記念館

1910年(明治43)の大水害の翌年に谷中村民を含む下都賀郡66戸の人々が北海道佐呂間町に集団移住。”巨大な水がめは、なんのために造られたのか” とか、”強制破壊に用いられた木槌” とか ”強制破壊後の仮小屋” とかの写真をそのような文言入りで展示しているのはこの施設が国の被害者であるとの立ち位置だからだろう。しかし渡良瀬遊水地は、空から見るとハート型♪


もちろんこの資料館にはその資料がないが、谷中村はもともとその地名からも分かるように地窪の土地で水害に悩まされていた地だった。その地の人たちは水害対策の公共事業の請負人としてその作業に従事しそれで暮らしていたとか。

田中正造の明治天皇への直訴状には、6つの要求が記載されていたのだが、その2番目には河川改修が述べられていた。ちなみに鉱業停止は6番目だった。が、河川改修に反対し谷中村に移り住み抵抗を続けた田中正造さん。



だが、ここは、”田中正造記念館” という事で、田中正造なる人物がいかに素晴らしい人物か、足尾銅山で儲ける悪い企業と、公害で苦しめられる被害者の農民たち、強制移住をさせる強権的な悪い政府、という感じの闘争の歴史がつづられている感があり、最後の方には、東日本大震災の原発事故、放射能被害などについての資料もおかれてあったし、”足尾鉱毒事件いまもなお続く” などのコーナーもあった。”いまなお続く” なのか ”いまなお続けたい” なのかは謎だが、とにかくそうなっていた。

確かに、国や企業はできるだけ軽く見て隠蔽しようとするだろうし、庶民の事などどーでもいいコマと思っているのは事実のような気もする。

田中正造記念館

”直ちに影響は無い!” などと言われたところで、”いずれ影響は出る!” と同義にしか思えんし、何言ってんだ?? ってなるのも事実だろう。もう安全っす!! っと言われたところで 本当かよ! っと疑いたくなるのももっともだと思う。

そしてまた、人間は最初は純粋な志で始めた事でも、お金やら権利やらが関わってくると変質していくこともある。被害者で居続けることで儲かるように。悪と戦うヒーローとしてカンパ生活で暮らしていくのもよいものなのかもしれない。


しかし土地の農作物が豊富に実るようになった当時、ほとんどの人がはぁ???っと無視をした ”山崩れによって豊作になっただけ” という田中正造の説が、数十年後の昭和の学者によって真実として持ち上げられ田中正造なる人物が聖者のようにまつりあげられているのは何故なのか????

田中正造は歳費辞退届を出し無報酬で国会議員を続け、というまるで無私のトランプ大統領のような立ち位置になっているが(トランプ大統領はお金持ちでボランティアで大統領をしているが)、実際の田中正造は、周囲から借金をしまくり踏み倒していた事が、貧乏な農民たちが正造に当てた金返せの手紙やらで分かっている。困窮農民からもお金をせびり借金踏み倒し続け恨まれていた田中正造。お金を返してもらえないならこれ以上無理だからいっそのこと自分達一家を殺してくれ! 等の悲痛な叫びの田中正造宛の手紙が残っている。もちろんここの記念館には私が見る限りそんな手紙置いていないが。。


江戸っ子の 宵越しの金は持たねぇ、はプラマイゼロだし何となく格好良く面白い生き方だが、金策の旅の途中で亡くなった時に無一文だったと言われる田中正造は、実は無一文どころではなく踏み倒した借金の山だったのでは?

この資料館の親切で優しい職員の御爺様方には大変に申し訳ないのだが、さてさて真実は如何に!???

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