尊敬


水堀や石垣などが保存されている津城跡。立派だ。赤城城に高虎が設けて以降見られるようになった石垣の補強強化と、武者や雑兵の通路として便利な 犬走り がこの津城の石垣にもみてとれる。

津城2019年9月末

1558年の戦国時代、2つの川の流れる三角州に細野藤光が小さな安濃津城を築いたのが津城の始まり。北畠家の一員とし戦ったが細野家は2代で城を手放し、1568年には織田方の津田一安が、1569年に織田信包(信長の弟)が入城。1595年の豊臣時代には富田一白が入城、関ヶ原の戦いで毛利秀元・長宗我部盛親軍により城の大半を焼失し開城。


津城2019年9月末

1608年、7人の主君に仕えた藤堂高虎が入城。大きくて丈夫な身体だけを武器に文字通り裸一貫から32万3千石の大大名にまで成り上がった藤堂高虎。後世には何かと悪口の対象になる高虎だが彼の生き方を見ると誰よりも誠実で努力家で人徳者であったことが伺われる。軽々しくこの人、好きとか言えないくらい。尊敬と憧憬の対象。


津城2019年9月末

内堀で中央の本丸、東丸、西丸を囲み、それらを囲むように二の丸が配された輪郭式の平城。攻め入るのも難しそうだ。

教養あふれ人格者でもあった豊臣秀長の家臣になり文武両道を目指すようになった高虎は、経理の才を秀長の元で発揮し、築城術も秀長の家臣時代に貪欲に学び取り、「日本一の城取名人」 「築城の天才、名手」と言われるようになった。日本3大水城の一つ今治城や 江戸城をはじめとする23の城を手掛け、お城以外にも日光東照宮など最低3つの設計(縄張り)も高虎の手による。和歌、茶の湯、能楽などの教養も自ら学び精通していた文化人。


津城2019年9月末

この丑寅櫓は後世に復元された物だそうだが、当時のイメージがつかみやすくていいですね。

お城の築城整備とともに城下町の整備も行い、地域全体の繁栄発展を考慮に入れた城作りも高虎の城作りの魅力の一つ。自己所領の保護貿易を行い自国領民の生活を守り経済を活発化させた理想的領主。伊勢街道を高虎が作り貫通させたことにより「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」と言われるようになった。


津城2019年9月末

津藩の漢学者であった ”土井聱牙”の詩碑。【沢山の書物を読んだ人が即ち聖人、賢人なのである。何故ならば読書という後天的努力により先天的素質を補うからである。だから朝夕あなたの二つの眼を十分に活用し精神を集中して燈火に向い、沢山な書物を読破しなさい】 と彫られている。この碑文を身近に眺めながら育つ効果は計り知れないものと思われる。


津城2019年9月末

津藩10代藩主、名君藤堂高兌が建てた 優秀な学者を多く集めレベルの高い充実した教育で知られる藩の人材育成の為の藩校有造館の入徳門。明治になってから師範学校や津中学校として使われ、現在は津城西の丸跡にこのように保存されている。江戸後期には300以上あった諸藩の内、津藩は教育の効果が認められ文藩(教育・学問に優れた藩)と評価されるにいたる。あやかれるよう私もこの入徳門、くぐってみましたよ~。


津城2019年9月末

豊臣恩顧の大名たち外様大名たちは江戸、京都から遠く離れた地に所領を与えられ、後々、改易(取りつぶし)されている家も所々ある中、元豊臣家の重臣でありながら未だ豊臣家健在の時に、家康から絶大に信頼されていた高虎は京・大阪に近い伊賀に転封となり西国大名の監視監督と徳川家との橋渡しをした。


津城2019年9月末

外様大名でありながら譜代大名からなる重臣会議にも出席、発言を許され、どこからどー穿った見方をしても単なるアホとは程遠い家康が、遺言で 「もしも今後戦乱の一大事があれば、藤堂と井伊とが一番手。子飼いではないが、和泉守殿の藤堂家はまず先鋒として戦うべし、次いで譜代では井伊が常に先鋒である。これは百年後も二百年後も変わらぬ掟と思え」 と言わしめるほどの人物。


藤堂高虎像

理想的藩主である藤堂高虎公の像。


津城2019年9月末

どーゆー角度から眺めても眼が合わない、というか見てくれない不思議。


津城2019年9月末

身体の疵が100になるまでに大名になる! と初陣の時に心に決めひたすら努力で駆け抜けた高虎の身体は、全身隙がないほど鉄砲疵、槍疵、刀疵で埋め尽くされ、右手の薬指と小指は千切れて紛失していて全ての指に爪がなかったという。左手の中指も戦場で3センチほど短くなっていて左足指にも爪は一本もなかったという記録がある。痛いなどと泣き言を聞いたものは生涯一人とていなかったという。

津城2019年9月末

養子として迎えた仙丸が、高虎の嫡子が誕生し死亡率の高い幼少期を乗り越えたあたりで跡取りを主張せず自ら身を引く形で藤堂家分家として一生を終える辺りも、藤堂仁右衛門高刑(高虎の甥)の湯浅五助との一件も、慶長の役で政敵となった加藤嘉明が後々、高虎を慕うようになるのも高虎の人徳のいたすところだろう。能楽五流の一つ 喜多流 があるのも大坂城落城時に逃げ込んできた喜多七太夫を高虎が匿い高虎が後見人になるのを条件に家康に許されたからこそでもある。

己の言動は周囲に波状となり影響を与え続けるものであるから、自己を律し己の目指す理想人物となるよう努力することが世の中を良くすることに繋がるだろうと 決して目を合わせてくれない硬派な高虎公の銅像を観ながら考えた晩夏?初秋?の一時だった。合掌。

 

テーマ : 主婦の日常日記
ジャンル : 日記

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