全力な素敵な生き方
両国駅では、イヤホンを耳に付けて何か聴きながら改札を通っている力士を見かけたが、めっちゃ歩きづらそうだった。あれだけ身体が大きいと大変そうだ。土俵上のあの機敏な動きは想像つかない。
駅を出ると今度は力士二人がそれぞれ自転車に乗って走っていた。後姿が何か可愛かった(笑)

折角、両国に来たならばここだけには絶対に寄ろうと思っていた”すみだ北斎美術館” 貧しい農家に生まれ4歳で幕府御用達の鏡師の家の養子になり、6歳から絵を好んで描き10歳から貸本屋の丁稚として働き始め、19歳で絵師になる事を決意した葛飾北斎。
師匠勝川春章の没後、勝川派破門になったが、嫉妬から兄弟子に嫌がらせをされ破門となった説や、隠れて狩野派などの画法を学んだので破門になった説などが有名だが、記憶違いでなければ ”すみだ北斎美術館”では北斎が様々な画法を学び勝川派におさまりきらなくなり破門という感じで説明されていたと思う。

その後4年間は苦汁の日々だったようだ。当時、極貧の商いと言われた唐辛子や柱暦を売り歩いたりしながらも一人絵を描き続け、次第に美人画などが評判になり絵双紙屋などからも注文が入るようになり40歳からは絵描き業に没頭したとか。探求心・研究心はとどまるところを知らず一心不乱に絵を描き続けた人生。
家が火事になった時、物を持ちだす時間があったにも関わらず筆一本だけ持って家から出、全てが灰に化した後も平然と 徳利を筆洗いに、破片を絵皿にして作画を続けていたというほどの一心不乱さだ(゚〇゚;) いや~このハマり具合は凄すぎる。
手がけるジャンルも画風も美人画、人物画、風景画や自然現象や想像上の生物や様々なデッサンや浮世絵や肉筆画、西洋画や水彩画などなど。やはり独特で迫力がある。一点一点引き込まれるように見続けてしまった。

不思議と人に見つけられなくなる、と道を歩く時は法華経の呪文を唱えて歩いていたというほど己の時間を大切にし孤独を好んだ北斎が、読本挿絵の仕事にはまっていた頃、「挿絵のような小さな絵しか描けない」と噂されたのを機に、120畳の(一説では175畳とも!)の大達磨絵を描くなどの大画を描くパフォーマンスを盛んに行う一方で、雀2羽を米粒に詳細に描くパフォーマンスを行ったりとか、ちょっとふふっと笑みがこぼれるエピソードなども説明されていた。

90歳で亡くなる時の最後の言葉が 「あと5年、生きれれば本当の絵描きになれたのに」 だったというほどの絵一筋の北斎ですら印税などとは無縁の時代、一枚絵を描いて かけそば一杯程度とか浮世絵一枚で3000円から6000円しか手に入らなかったとか。。。今となっては当時約8000枚摺られ約200枚現存していると言われる”神奈川沖浪裏”が1億円で落札されたりしているが、当時は庶民が気軽に買い一時楽しんだ後ゴミにする程度の扱い。
日本製陶磁器を輸出する時の緩衝材として丸めて使われていたのをフランスの銅板画家が偶然見つけ、北斎の絵は、ゴッホやモネ、ドガ、ルノワールなどに衝撃を与え絵画界だけでなくロダンやティファニーやドビュッシーなどなど多方面に多大なる影響を与えた!とは考えさせられる。
両国橋から見た景色↓ 綺麗だわ~。が、背後は車がビュンビュン走っている。

北斎美術館では画面で遊びながら北斎の絵の不思議を学べる機械が数台あったのだが1台だけ体験できた。平仮名などの文字が絵に隠されてるんよ~、ダ・ヴィンチ・コードかよっ!!って思いましたわ~(´▽`) あと数台、内容が違うっぽい機械有ったんだけどそのどれもが待てども待てども遊び続けていて空かず時間もなく仕方なく後にした゜(´□`。)°
北斎の母方の曾祖父が赤穂浪士討ち入りの時、吉良上野介を護り討たれた吉良家家老小林平八郎だったとは初めて知った。

近くに吉良邸跡地がある。この辺一帯8400平方Mあまりが吉良邸だったそうだが、今では吉良邸裏門跡や吉良邸正門跡は、そうと知らせる看板があるだけでマンションだかビルだかが建っている。この地は町内有志が自腹で買って寄付したそうだ。

狭い敷地だけれども吉良上野介の銅像もあり、小さいながら稲荷神社もあり、壁には資料や記録版が場所が足りないとばかりに並び、地元有志の人たちの思いが伝わってくる。元吉良邸にあったという井戸で上野介の首を洗ったとか噂されている”みしるし洗いの井戸”もあった。

吉良上野介と浅野内匠頭や忠臣蔵については諸説あるようで私には真実は分からないけれども、葛飾北斎の生き方をみていると北斎の曾お爺様が庇った人だったらそんな変な人じゃないんじゃね!?っとグラグラっときた。真実は私にはと~んとわからんのだが。。

