兵どもが夢の跡
この↓線路の向こう側には、1432年、室町幕府六代将軍足利義教の命により高田兵庫頭為貞(当麻為貞)が築城した大和高田城の跡地記念碑がある。なんかこの緑生い茂る感がこの辺りは嘗て高田城だったという気分を盛り上げてくれる。

嘗て高田城地であった現小学校裏の小さな公園内に 群雄割拠する戦国時代の中150年間に渡り このあたり一帯を支配したお城があったことを知らせる碑がひっそりと建てられている。

当時の高田城は、二町四方にわたる敷地の西に大手門、東に搦手門があり二重に張り巡らした水堀により囲んだ堅固な構えの平城だったらしい。1447年には攻めてきた布施氏を激戦の末撃退している。布施氏は約100年後にも高田城に攻めこみに来ている。
南北朝時代に興福寺一乗院(南朝方)と大乗院(北朝方)が対立するようになったのを皮切りにそれぞれ力をつけ反目し合い筒井氏と越智氏を筆頭にして近隣の豪族達と激しい勢力争いや離合集散が行われ一瞬たりとも気を抜けない戦国時代のお城だったようだ。あの小さな坂をのぼった所が高田城跡地として碑がたっている場所。

水堀跡↓っと言うにはちょっとしょぼすぎるがイメージはわくような気がする。

今は小さな公園として開放されている高田城跡地。公園横にはかつて3代目城主であった当麻為長が1471年に建立した常光寺が、未だお城を護るかのように存していて、為長のお墓をはじめ戦国武士の三界満霊碑などが祀られている。井原西鶴が伊勢に行く道中に宿泊したと伝えられるこの常光寺には井原西鶴著【好色五人女】の中の一人である”志ち”のお墓や彼女の遺品も存するそうだ。

1580年、信長の指出検地を蹴ったことにより所領没収され城主高田藤七郎が処刑され、織田信長から大和守護に任じられた筒井順慶の侵攻により1583年8月、藤七郎の子である高田当麻丞為政が討たれ高田城主一族滅亡したそうだ。

地球上のどの地も血みどろの争いの歴史から逃れる事はできない。。。悲喜こもごもの様々な時勢の渦の中、懸命に生き礎となった生きとし生けるもの全てに対して合掌(-m-)”
この高田城跡碑は、学問好きで尊王家であった堀江九郎氏のお孫さん堀江三郎(澄一)氏が1916年に建てたものだそうだ。高田城跡地にある石碑から徒歩数分の所にある堀江九郎邸跡地には1877年に明治天皇が小休憩をとられたとの事で徳富蘇峰により顕彰碑が建てられている。

