銘菓うばがもち


永禄12年(1569年) から東海道草津之宿の名物として作られ今に至る うばがもち。徳川家康はじめ、松尾芭蕉、与謝蕪村、近松門左衛門、安藤広重、葛飾北斎らも茶屋に立ち寄り浄瑠璃や浮世絵や文学作品などに登場し全国に広まった伝統のお餅。

うばがもち


化学肥料や農薬未使用の地元草津さんのもち米、滋賀羽二重餅米を使い、厳選した小豆を使用。気になっていた うばがもち を思わぬところから頂けて超ラッキー♪

うばがもち


うばがもち って名前変ですよね?w っというのもこれには黙して愛情と責任感を持ち悠然と誠実に生き切った一人の芯の強い賢い女性の実話から生まれた名称なんですよね。

1568年9月、足利義昭を奉じて上洛せんとする織田信長に徹底抗戦を試みたが力敵わず、近江観音寺城を捨て甲賀に脱出した近江源氏佐々木左京大夫義賢(六角義賢)。

その後、佐々木義賢(六角義賢)は、朝倉、浅井、三好三人衆らと結託し信長陣営をたたきまくり、劣勢を認めた信長と一度は和睦したが、近江観音寺城の奪還などかなわず、1572年からは再びゲリラ戦を開始。1581年4月の信長の伊賀攻めで伊賀を攻略するまで佐々木義賢(六角義賢)の戦いは続いた。

多くの武将がその戦乱の中、命を落としているのだが、彼、佐々木義賢(六角義賢)は生き延び、信長亡き後、豊臣秀吉の御伽衆に取りたてられ1598年3月に天寿を全うしている。

うばがもち


その佐々木義賢(六角義賢)が1568年9月近江観音寺城を捨て甲賀に脱出する際に、3歳の曾孫を乳母”福井との”に鎌倉末期の名刀工である貞宗一振りを付け与え、その曾孫を隠し育ててくれるよう託した。

身を隠し暮らしていた福井との(乳母)は、託された曾孫の養育費を稼ぎ出す為、近江路随一の宿場町でもあり郷里でもあった草津にて、餅を作っては東海道往来の人々に幼児を抱いて売り清貧に暮らした。腹持ちの良いお餅は旅人に歓迎され、旅人の間で福井との(乳母)の作った餅の美味しさが評判になり小さなお店を開き次第に 姥(乳母)が餅 と呼ばれる草津宿の名物となり今に至る。

まぁ単純に考えると名刀貞宗を売り払えば金銭を得ることが出来たようにも思うのだが、美味しく餅を作り売り養育費を稼ぎ出すとは、知恵と根性と信念のある賢い素敵な女性だ。1600年、徳川家康が大阪の役に赴いた際、当時84歳になったその乳母が家康に餅を献上し、家康から流竹葉金(金貨幣)、御親筆『養老亭』の三字額を授けられたほど。

うばがもち


さて、そんなに評判になったというその御味は。。。。柔らかくて口内でとろける感じ。餡は甘〜い。が、嫌な甘さではない。信長の時代からこんな美味しいのがあったなんて驚き。

白いのが出てる、面白い形だな、と思ったが説明書読んだら、はぁーって感じ。変な形にすんなよな、食べづらいわw

というのも福井との(乳母)が幼君に奉じた乳房を表しているとのこと。ちょっとドン引きで、形は普通に作ればいいような気もするが。。。。当時は多分こんな形ではなかったと思うんですよ(笑)


うばがもち

福井との(乳母)に託された曾孫ちゃんは、12歳頃にはお寺に学問に通い始め、更に、京都の富豪が商業を教え込み呉服屋を開かせ呉服屋の旦那となった。2人の男子に恵まれ御家は繫栄し、近江源氏佐々木左京大夫義賢(六角義賢)から乳母が託された名刀貞宗は家宝として伝えられた、という感動的なお話。心がじ~んとする良い話。

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叶ったらビビる


通りがかりに撮った 曽根崎お初天神通り。曽根崎心中ゆかりの地、とかって物騒だが、こうして歴史ある地♪みたいな感じになったのも全て近松門左衛門の御蔭だろう。近松門左衛門の書いた作品がその舞台が異例の大ヒットをかましたから。

彼がいなければ単なる情死として処理されていただろう。だって言っちゃぁ悪いが、情死でしょ。なんだかなーって感じだ。それに作った人が悪いのかもしれんがこのお初さん、島原落ちの遊女だがお世辞に言っても美しいとか可愛いとかは言えない風貌。昔はこれが綺麗だったのか? 現代とは感覚が違うからなぁ。

露天神社2020年12月


1702年12月の赤穂浪士吉良邸討ち入りにより、大石内蔵助ら47人が1703年2月に切腹させられている。そして同月には、すでに芝居小屋で赤穂浪士の事件が上演されていた。江戸幕府から 『前々も令せられしごとく。当世異時ある時。謡曲。小歌につくり。はたさお梓にのぼせ売ひさぐ事弥停禁ずべし。堺町木挽町劇場にても。近き異時を義する事なすべからずとなり』 と大成令が発せられ赤穂浪士の件で儲けるのが禁止されている。

その2か月後の1703年4月、ここ露 天神社で堂島新地天満屋遊女お初と内本町平野屋醤油屋手代徳兵衛が情死をしている。事件8日後の4月15日には曽根崎心中が歌舞伎舞台で上演されている。まぁ歌舞伎では、1683年から既に心中事件を舞台で扱っているのでニュースを流しているような感じかな? 吉良邸討ち入りや赤穂浪士の切腹なども同じノリだろうが幕府に都合が悪いからだろう、禁止されたのだが。

露天神社2020年12月


歌舞伎では心中物を扱うのは当たり前だったが、浄瑠璃で心中物を扱うことは過去無かった。舞台にもいろいろ工夫を凝らし仕掛けを加え浄瑠璃で初めての心中物の座は、近松門左衛門の書いた曾根崎心中の上演が大当たりし、竹本座は16年間の慢性赤字を一挙に解消することが出来たほど大流行りした。

故に、近松門左衛門の曽根崎心中がなければ、こうしていま現在、恋の神様として祀られることもなかっただろうし、お初も徳兵衛の事も知らない人がほとんどだっただろう。正直言って、ここは二人の自殺場所だっただけなわけですし。

江戸時代の元禄年間に武士の身分を捨て身分の低い階級として見下されていた芝居の世界に入った芝居好きの近松門左衛門は、歌舞伎・浄瑠璃作品の書き手として既に長く名を挙げていた。この曾根崎心中は、門左衛門51歳の時の作品。72歳で他界する直前まで作品を書き続けた。

露天神社2020年12月


ここは十字路となっていてどの通りからもこの神社に入る事ができる。

露天神社2020年12月


なんか、お初天神とかって崇め奉らているのが不思議。道祖神なんですって。この石像もはっきり言って見目麗しいとは言い難い。一説では醬油屋手代の徳兵衛さんはなかなかの美男子だったと言われているが真相はわからん。この石像では残念な感じ。無邪気に笑っているのも痛い。だってここで自殺しただけなんですよ。

露天神社2020年12月


近松門左衛門の書いた曾根崎心中が竹本座で異例の大ヒットをかました翌年1704年には、21件の心中事件が紹介されている浮世草子心中大鑑が発刊されている。近松門左衛門の曾根崎心中が大ヒット過ぎたのが原因なのかどうかは知らんが、情死が流行となりそのブームは江戸にまで広がった。

宗教みたいなもんなんですかいなぁ? 心中をすればずっと一緒にいられる♪ みたいな変な洗脳をされたような感じか? ジハードをすれば天国に行け物質的肉体的快楽が得られるとかで自他を殺す人もいますし、サリン事件とかも宗教ですし、宗教団体の集団自殺なんかもありましたしねぇ。なんだかなー。で、

あまりの心中の流行っぷりに、ついに1722年、江戸幕府から 心中物の禁止令が発せられたほど。そして1723年には、情死者の処置についての禁止令が発せられ、死後の埋葬禁止、生き残った場合は殺人者として逮捕し市民権剥奪などの処置がとられるようになった。

露天神社2020年12月


近松門左衛門は、曾根崎心中の最後を ”未来成仏疑いなき恋の。手本となりにけり” で締めくくっているが、どうなんでしょうねぇ。良きにつけ悪しきにつけ二人の因縁は高まりそうですがねぇ、恋の手本??? 意味わかんねー。

何かの話の時に知人に見せてもらったのですが、”だんなデスノート” という掲示板がネット上には存在するんですね。ちらっと書き込み見たら怖い怖い。そんな嫌なら離れろよ!っと思う恐ろしい恨みつらみや愚痴や死を望む言葉の数々が満載なのだが、多分そこに書き込みしている女性も、結婚した当初は、好きで好きでたまらない人と念願かなって夫婦になれたのだろう。それがそんな恐ろしい書き込みをするほど憎しみを心に貯めるようになるとは驚きだ。

そこから考えるともし、このお初と徳兵衛が目出度く夫婦になれたとて、その先行きはどうなったのか知れたもんではない。近松門左衛門の曾根崎心中は物語としていろいろ脚色加えて有るが、まぁ当人しか真実は知らないにしろ、恋がかなわないからと心中をするような人ですからねぇ。。。果たして結婚したところで幸せになれるのかどうか。。。

露天神社2020年12月


こんな風に、二人で情死しただけなのに、”二人の恋物語にあやかり縁結び” とかって正直意味わからん。鎮守の森を血で汚したんですけどねぇ。まぁ例えば、結婚への障害があったのに信じられないような奇跡が起きて二人夫婦になって生涯幸せに仲睦まじく暮らした♪ とかだったら、この二人にあやかりたい♬ ってのも分かるんですが、情死ですよ。言っちゃぁ悪いが、この二人にあやかる ってのが意味わからんです。

露天神社2020年12月

いくら当時は普通に行われていたとは言え金の為に親に売られたのは酷過ぎで、児童虐待どころの騒ぎではないですし、人権がー!って感じですが、こんな事言うの本当申し訳ないですがまぁいずれにしろお初さんはプロの遊女なわけですよ。身請けも出来ないような外見が綺麗なだけの美男子にべた惚れするってプロとして失格じゃぁないですかいなぁ。まぁ身請け金もないのに遊女に本気で恋するような純粋無垢な可愛い人だったから恋をしたのか?とも思いますが、所謂ダメンズですよね。遊女たるもの、男を掌で転がし金を貢がせてナンボ、全く、プロ意識の欠如と言うか、なんていうか。まぁそれが弱い人間らしくていい、って事なのかもしれませんがねぇ。

まぁもともと遊女がお客に 貴方だけ特別♬ って愛の誓いを示すのに、

起請文で愛を誓う→髪を切って愛を誓う→生爪を剥がして愛を誓う→指を切って愛を誓う→入れ墨をして愛を誓う→死ぬ

だったようですが、指詰めした生指渡されて 「貴方だけよ♥」 なんて言われても正直キモイだけのような気がするんですよね。で、生物(なまもの)ですし冷凍庫なんてのもないでしょうし、日干しにしてミイラ状にするか、指もらってもその辺に捨てるしかないし、はっきり言って単なるヤンデレですよね。遊女としてのプライドを持って多くの客を手玉にとって転がせよー。それかお金も持っていて自分も気に入った客をおとして身請させるかのゲームじゃんかー。

中には首吊自殺した遊女の内腿に入れ墨が見つかった、なんてのもあった話だが、その相手の客は他の遊女のところに即乗り換え通って遊んでいる、なんてのもザラですからねぇ。そう考えると徳兵衛さんは視野狭窄に陥っているし甲斐性も無いし全くのダメンズですがお初さんに本気で恋をしていたのでしょう。しかし情死という結末がなんとも情けない。


と、時代も違えば思想信条も受けてきた教育や情報も違い安全な場所で平和に幸せに暮らしている私が上から目線で得意気にドヤ顔で語ったところで、かのアインシュタイン博士も 『無限なものは二つしかない。それは宇宙と人間の愚かさだ。ただし、宇宙はもしかして有限かもしれないが。』 と仰せだった。人間とは無限なまでにかくも愚かしい生き物なのだ。が、

露天神社2020年12月

思い通りにならなかったり、辛い思いや悲しい思いや悔しい思いや切ないやるせない思いをしたりすることは誰にだってありますよねぇ。そんな辛さもこれ一興っと味わいながら生きることで人間としての深みも厚みも重みも出てくるもんだと思うんですよ。死ぬほど好きで恋焦がれた人と夫婦になれなくとも、心に苦い痛みを感じながら生きていくのもまた一興。

地球の歴史から考えたら人間の一生なんて、私たちから見る寿命の短い虫と同じですよね。一日しか生きれない虫がショックな事があったからと半日で自殺してる現場見たら仰天しません? どうせもうすぐ死ぬんだから取り合えず最後まで虫生味わってみろよ、って思いません?

ボロボロになってもいいし泣きながらでもいいから全て味わい尽くし生き切る事が人生の醍醐味。それに自分の命は自分のもの、だからどーしよーが自分のかってw ってのも傲慢な思想だと思うんですよね。

って事で、二人が心中事件を起こしたこの地は、”恋人の聖地” とか ”プロポーズにふさわしいロマンティックなスポット” とか選定されたそうだが、曾根崎心中、ケッ!! って感じだ。こんな所でプロポーズされたら私だったらドン引きだわ。

露天神社2020年12月


やればできんじゃん! この絵↓の二人は美男美女でいい。可愛いし爽やかな風のようで好感が持てる。曾根崎心中は、ケッ!! だがな。

露天神社2020年12月

ハート形の絵馬が所狭しと沢山ぶら下げられているのだが、ちらっと見た限りでは女性が書いたものだらけだった。”この恋が叶いますように” とか ”一生一緒にいられますように” とかそういった言葉が丁寧な字で書きこまれていた。なんか頼む相手間違っているような気がするし、そういうのってそうやって叶えるもんなのか???

最後に、お初さんと徳兵衛さんのご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

心中とか物騒な話だけではなんなんで、これ↓貼っておきます。
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今日は大晦日ですね。本年も大変お世話になりました。どうも有難う御座いました。素敵な年越しをお迎えください。↓もしよかったら押してね↓  
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美しき光景~雑賀埼灯台~


ここは、嘗て、奈良時代に藤原房前が 『紀の国の雑賀の浦に出で見れば海人の灯火波の間ゆ見ゆ』 と眺めながら歌った地。房前氏の口から海女とか海人とかいう言葉が飛び出すとおっー!っと思いますねぇ。彼の実母は、不比等が面向不背の玉を探しに来た地で相思相愛になった海女だったという説もありますしぃ。藤原の時代もドッロドッロで欲望陰謀の渦巻く時代でもありましたが、しかし、人が集まるといつの時代もドロドロしてきたりもしますねぇ。



あっ、そういえば先日、小学校で2者面談があり前の人の面談が長引いていたので廊下にいたのですが、そこには図工の時間に児童たちに描かせた人権ポスターが展示されていた。皆仲良くしよう♪ってやつですね。で、その人権ポスターには、 ”友達を大切に” とか ”差別をなくそう” とか ”人の気持ちを考えよう” とか ”喧嘩をするのやめよう” などの文言と手をつないだ人間や地球の絵やハート型などで占められていて実にホンワカしていた。が、その展示されている児童のポスターの中に一枚だけ ”その友情本当ですか?” みたいな文言と共に仮面に血が描かれただけの一際一目を引く異色のポスターがあり、なんと我が子の描いたポスターだったw ふいたw


人権と言えば、BuzzFeed の2020年12月16日配信記事で 【「自分の街のことやのに…」なんで外国人は投票したらあかんの?問いかける人たちの思い】 な~んて記事がありましたが、

==引用開始
「国籍で線引きがあるとは思いませんでした。(住民投票の選挙権について)初めて知って愕然としました」

「自分の住む街のことやのに…どうして投票できないの? ほんまの民主主義ってなんなんやろうと思いました」
==引用終了

ですって。せめて自分の国で実現してから言ってね♪



==引用開始
「昨日、選挙行った?」と世間話の中で聞かれることもあるといいます。

「『私は韓国籍なので、選挙権ないんです』と返答すると相手は『そうか〜。そうなんや〜』と。そのようなやり取りは日常茶飯事です」

劉さんは、まず外国人住民の地方参政権について知り、そして「考えてほしい」と強調します。
==引用終了


まぁ、いろいろありますが、ここは外国人住民の地方参政権に繋げるところじゃないと思うんですよね~。


なぜって!?

だってぇ~、 「結婚は?」 とか 「お子さんは?」 とか聞いてくると 「セクハラだー!」 って事になってるじゃん? 「可愛いね」 とか 「その服いいね」 とかでも言う人によってはセクハラになるし(^^;

近頃、〇〇ハラ ってのの種類がどんどん増えてきていてますよね~(笑) もうわけわからん状態でとりあえず 〇〇ハラ って言っときゃぁいい♪ みたいなー。こういうご時世ですからここは、

選挙ハランスメント を略して センハラがー! と運動をするところなのだと思いますよ~。「昨日、選挙行った?」 「センハラがー!」 こんな感じで。ですので、つまり、これは外国人地方参政権に繋げる話ではなく、選挙ハランスメント、つまり センハラ の問題なんですよ~。 

あっ、話が全然それてしもうた。って事で話を戻します。


時はかわり1580年、織田信長の侵攻により石山合戦で石山本願寺から教如はこの地に逃げてきた。彼を匿うために雑賀衆棟梁 雑賀孫市がここ↓に雑賀崎城を築城した。この雑賀埼灯台は、その雑賀崎城の跡地にたてられたもの。匿うってところに人間らしさ、いやいや人権意識の尊さを感じますね。ムフッ

しかし、見晴らしは良いが、一番上の高台のどん詰まりで行きつく先は海。残念ながら雑賀崎城は、1585年の紀州征伐で豊臣秀吉により廃城とされ跡形もない。この辺、今となっては人家も無人で荒れ果てているのが多く、寂れてる。

雑賀埼灯台

さて、更に時はかわり、その昔はここも無料だったそうですが、今ではこの雑賀埼灯台、お金とられるんです。小さなほぼ何も置いていないのですが御店みたいのがありまして、そこから猛ダッシュで可愛い若い女性が出てきてお金を要求されます(^^; なんであんな暇そうなお店に3人もいるのかが非常に謎ですが、多分ご本人たちもお分かりなのでしょう、あの灯台は秒で上まで到達できるのにどこからどー考えても料金以上の価値があるとは思えないんですよね(笑) だからでしょうね、『よかったら御店の上の屋上にもあがって景色みてくださいね』 って言ってくれました(笑) まぁ憐みのような表情ではなく自信満々だったところが好感pointでしたが。


とは言え、まぁ実は私、筋トレのし過ぎでここ数日間、下半身(内腿と下尻)がガッチガチで激痛が走る。ほんのちょこっと動くだけでもう痛い。もう痛くて痛くて。でも悟られないように痛みを無視して歩いている。

一歩一歩が痛すぎてまるで修行。激痛がかけめぐる。素早い動きは出来ない。だが頑張れば走る事は出来る。

と、このような身体で(^^; 展望台の上まで登ったりもした。いやぁ~素敵な光景ですな~♪ 爽快。で、考えてみると以前行きました番所公園よりも全然高台ですし、こっちの方が眺めはいいんですよね~。

雑賀埼灯台


雑賀埼灯台

このあたり、鷹が巣をつくるような断崖絶壁なことから 鷹の巣 とも呼ばれているそうですよ~。で、雑賀埼灯台の横の細道には、”立入禁止 途中までしか行けません!”  てな感じの看板が立てかけられているのですが、草がぼうぼうで身の危険を感じて突き進む気にはなれんかったのですが、いやぁ草の中に何いるかわからんし(^^; でもですねぇ、まぁ途中までしか行けないからどうせ見れないのですが、そこ進んでいくと、教如が隠れ住んでいた上人窟と言われる洞窟に行きつくんですよ。

しかし、いくら隠れているとはいえ、洞窟暮らしはきついだろうなぁ。鷹が巣をつくるような所ですし潮風もなかなかのものですし、まぁだから隠れててもバレないともいえるのですが。

雑賀埼灯台

まぁ眺めは良かったですが正直言うと、灯台に登らんでも眺め良いんですが(笑) でもまぁ降りた後、一応、お店の屋上にも行ってみましたわ。階段は人一人やっと通れるというサイズではっきり言ってボロボロ(笑) 屋上床には机と椅子が海に向かっておかれていて椅子が風でぶっ倒れていました(^^; ここで食事したら気持ちいだろうな~って思ったし、真ん中あたりに平机もあってここはビアガーデンするんかいな~みたいな。4人くらいしか座れんけど(^^; 灯台よりは全然低い位置なのですが、天気の良い日はここで海を眺めながら食事とかもいいかもな~。

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養翠園


国指定文化財で名勝と言われている養翠園庭園。もともとは藩士の山本理左衛門の下屋敷だったそうだが、どういう経緯で手に入れたのかは知らんが、とにかくこの地は、紀州徳川家第十代藩主徳川治宝(ハルトミ)氏が1818年から8年かけて松を主体とする大名庭園として造園し、藩主の別邸、隠居所、また御茶のための別業庭園として当時のまま保存されている庭園だ。

養翠園庭園


四季折々の花々が楽しめるって事らしいが時期が時期だからでしょう、特に花は見えない。庭師さんらしき方が植木の手入れをしている。この池は海水を引き入れた汐入池だ。中国の西湖を模して造られたそう。また天神山、魚頭姿山を借景とし、海辺にあるのにまるで山中にいるかのように感じさせる庭園。美しく実に見事だ。

養翠園庭園


三ツ橋を渡りL字型に道にそって行った先の中間地点の小さな島=守護神島には鳥居があり小さな神社がある。弁財天と伏見稲荷神が祭られていたが、この2神のチョイスが良い♪ 今はコンクリートで出来ているが、三ツ橋、太鼓橋は当時は土橋だったそう。

しかし、こんな美しい庭園を眺めながら暮らしていたら心も美しくなるだろうなぁ~。ここに座って日がな一日読書していられたらどんなに素敵でしょう。

養翠園庭園


今は公道に沿い生垣が形成されているが、当時は外の田畑と渾然一体でその四季の実りも庭園の一つの景色として取り入れていた。戦後に田畑7,000坪は農地法によって分離され、庭園部分10,000坪のみとなった。でも奥女中方に金カン狩りをさせていたと言われる ”元 金カン畑” の地が残っていた。今は生育中の小さな松の地になっていたが。養翠園庭園以前からの樹齢300年以上の松もあった。

太鼓橋を渡り更に奥に行くと隣には船も浮かんでいて海水をそのまま入れているんだなぁと確認することができる。当時は、藩主徳川治宝氏が船で養翠園庭園に来られ上陸されていたんですと。

養翠園庭園


こちら↓は、1821年に建てられ紀州藩主徳川治宝氏が使われた御茶屋で、旧地に旧状のままのこる唯一の建物である養翠亭。内部見学は普段はできんが、別荘建築として供回りまで完全に残されたものは全国的に稀少だそう。1991から3年かけて全面解体修理をしている。が、さすが文化庁のお仕事、当時のボロさが忠実に演出されていて味わい深い。

養翠園庭園


ここ↓は御船蔵” と言われている場。藩主徳川治宝氏が西浜御殿から船で来遊されこの場に入り、上陸されたと。今は通船禁止となってああやってコンクリートで通せんぼされてますが、しかしあの幅を見ると結構小さな船でこの茶室に来られたんですね。


紀州歴代藩主の名君と誉れ高い徳川治宝氏は紀州徳川8代藩主重倫の第二子で19歳で紀州藩主となった。学問好きで有名で、8歳~30歳の紀州藩士の子弟の教育を義務化し、和歌山城下に医学館,江戸赤坂紀州藩邸明教館,松坂城下に学問所を開設し本居宣長を住まわせたりもしている。本居大平を登用して史書を編纂させ『紀伊続風土記』の新撰を命じたり『古事記伝』の題字も治宝が行なっている。


また、学問だけでなく、表千家や楽家を庇護し、表千家の総門を下賜したりもしているし、絵画にも親しみ、菩提寺の長保寺には治宝筆と伝わる狩野派風や南蘋派風の作品が残っていたりもし多能多芸で陶器などにも精通している。ちなみに和歌浦に不老橋を築造したのも治宝だ。治寶と治宝って同じ人だからね~。

1823年には隠居したが藩政の実権を握り続け、藩の専売特許や熊野三山貸付所の利権を掌握していた治宝氏。藩主時代には節倹を督励し商工を起こしたりもし経済にも明るかった。

養翠園庭園



さて、養翠園庭園内にある銀白の透き通るような壁襖紙で雪山にいるかのような錯覚を覚えるこの建物↓は、湊御殿。紀州徳川家2代目藩主徳川光貞氏の隠居所として1698年に和歌山城の南西の現在地名だけが残る和歌山市湊御殿1~3丁目に造営され、歴代藩主が使っていたもの。8代藩主徳川重倫が特に気に入って使ったいた。

湊御殿は何度か火事になり都度再建された。この建物は紀州11代藩主徳川斉順の時代に再建が命じられ紀州藩の江戸屋敷を模して造られ1834年に完成したものという説が有力だ。その後、お寺や個人の手に渡り、明治時代に和歌の浦に建物が移され、2006年にここ養翠園に移築された。柱は上質で普通の木材よりも強い栂柾材が、天井には紙王と言われる鳥の子紙が使われている。

養翠園庭園

ここは駐車場のすぐ隣でここだけなら100円で入る事ができるが、養翠園庭園を入園料入って来た人は無料で内覧できる。しかもボランティアの優しい御爺様の詳細な説明付き♪ でも養翠園入園料払って入って来た人なのか、無料でここまで来た人なのか分かる術はない。完璧に人を信頼するシステムとなっていて和歌山人の人の好さが前面に出ていて心配だ(^^;

で、長押をめぐらし欄間のある格式ある建物で、湊御殿の工法は武家屋敷でしか許されていないものだった。部屋に床や棚を設けた書院造が大名住宅として取り入れた姿をとどめた貴重な建物なんですと。

この襖の絵↓は、狩野派の紀州藩御抱絵師の絵なんだそうで、この男性は中国人なんですと。裏面には花鳥図が描かれているらしい。庭園も中国的手法で作られ中国の西湖を模したりしているし隣国なんですなぁ。。。しかしこんなとこにまで中国人書かんでも(^^;

養翠園庭園

江戸時代の蝋燭は粗悪品で、使うと煙がモクモク出てくるためこのお部屋↑の右上部に映るように天井に煙を出す穴(=油煙抜き)がつけられていて、またその煙が天井内に住む虫供養にもなっていたとの事。なんでも韓国は床下に煙を流し床暖房にしていたとの事。韓国、床暖房にしてたのかい、凄いな。

所々に葵紋の金具が飾り付けられている。隣に見える床の間の有る部屋は、避暑地として夏の間だけ政務室として使われており、今でいう県庁みたいな感じ。

というのも天守閣は今では観光用に窓が張り巡らされ眺めも風通しも良く爽快な所だが、当時、天守閣には窓がなく夏はとても蒸し暑い場所でとても仕事などできる状況ではなかった。でもその分、冬はお城は暖かかったそう。

で、政務中など隣との襖が閉められていたわけだが、この狩野派の絵の部屋、政務室との襖のすぐのところに今でいうSPが2人、待機警戒していた。

ちなみに、ここの畳は祝い敷きで敷かれている。畳の敷き方にもいろいろあるのをここで初めて知った。この建物は今も御茶会などで利用できる。


養翠園庭園

この絵↑は200年前に書かれたもの。実はこの絵には洒落みたいな謎かけがされている。ここは陳情に来た町の人などが順番を待つ部屋なのだが、”陳情全部が通るとは限らないよ” と絵で町人に語り掛けているとの事。


養翠園庭園

この閉まっている木の板というか戸ですな↑は、”龍が火を吹いているような図柄が浮き出ている” との事で200年前に寄贈された板なのだそうだが、なんでも自然に出来た模様で貴重な物みたい。 

これ↓玄関というか入り口のぼった所の板なのですが、滑り止め効果を引き出す素材を使って作っているとの事。階段などの石は、紀州では沢山ある特産品である青石が贅沢に使われていた。

養翠園庭園

親切なボランティアの御爺様がおられて一緒に回りながら説明してくれて本当有難かったわ~。和歌山って良い所だわ~♪

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見張り場


”元番所 台場遺跡” かつて紀州藩は、藩領の海岸線10数か所に番所を建て海の防備見張りを行っていた。雑賀崎西端に位置するここは、和歌の浦湾に突き出た地形で 番所の鼻 とも言われていて遠見番所があった地。本当に鼻みたいにここだけぬっと突き出た平たい地形なんですよ~。

当時、10数か所あった番所の中でも和歌山城に一番近く、狼煙場と共に重要な役割を果たしていた。その後、遠見番所は巣山頂へ移転したので、元番所 とも言われている。この石にも ”元番所” って書いてありますね。爽快ですよ~。

番所庭園


和服姿の武士たちが海を眺め監視している様が浮かんでくるわ~。

番所庭園


磯におりれるみたい。階段に足を踏み入れると海風がビュービュー風強い。

番所庭園


落石があるし危ないから自己責任で行けよ、って(笑) 階段はすぐなくなり後は足場の悪い岩場。

番所庭園


下までおりましたよ~。ちょっとした冒険気分を味わえた。とても綺麗な磯。以前、横須賀の磯で足の踏み場もないほどフナムシさんが大量に居て辟易としたことがあったが、一匹もいなくて天国みたい♪ ホントキレイな海岸。

番所庭園


では、来たところを下から見上げてみましょう。んん~、なかなか迫力ありますね。自然って凄い。

番所庭園


磯そして階段をあがり番所地まで来たら強風もなくていいわ~。ここで海を監視してたんですね。

番所庭園


1853年7月8日、米国ペリー艦隊が沖縄を通り、浦賀沖に来航したのを機に、紀州藩は海防に本気を出し始め、1854年お正月には海防計画が策定された。1854年9月15日、ロシアのプチャーチン提督が、ディアナ号で紀伊水道に突如現れ、紀州藩領海をゆ~ったり航海威嚇し続け、10月4日に加太浦に寄港。

ロシアは、前年に長崎で行った幕府との直接交渉で日露条約締結がかなわなかった為、今回は朝廷や幕府を威嚇し交渉を進めようと下田行きを望んでいたのだった。ここで紀州藩は下田奉行宛の通行証を発行した。

この時、ディアナ号艦内に赴いて、艦内見学もし、その技術格差に大変驚いたという。


あまりの軍事力格差などに驚いた紀州藩は、6千人の藩士、4千人の地域住民を動員し、加太友ヶ島と下津大崎との間のお台場の構築、大砲、鉄砲、要員配備を急遽強行実施。ここ元番所 台場遺跡には、家老三浦長門守御持場『元番所お台場』 が建てられ、外国船が来ないか監視が行われた。

番所庭園


番所庭園


ちょっと残念だったのが、こういう展望台系のところってなんでもかんでも ”恋人岬” とか ”恋人の聖地” とか ”恋人のなんちゃら” って名づければちょろく人が集まるだろうと見越し、まぁ確かにちょろく集まるのだろうが、黒船の監視所だったこの地で、恋人がイチャイチャしているとは考えられず後から名付けたのだろう。その名も ”恋人岬”。

番所庭園


番所公園の片隅 ”灘の浜展望所” からの眺め。ここのすぐ隣辺りで、海を眺めながらバーベキューができるよう2組用具がセットされていた。バーベキューも出来るんですよ!

番所庭園


狭いからすぐ見終わるけれども海風にあたって爽快。怖い黒船もいなかったし。

この番所公園の周辺の家屋や旅館は、無人廃墟も多く寂れた感が凄かった。けれど写真に見えるこの一番海側の旅館は営業しているみたいだった。その旅館だかホテルだかの窓が開け放たれているのが見え、新型コロナ予防なのかな? 夏は、あのプールで海を見ながら様々な物語が紡ぎだされているのだろう。

番所庭園

番所公園 にようやっと来れて感無量。

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テーマ : 主婦の日常日記
ジャンル : 日記

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はーとまいんど

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