心と顔


江戸中期の書院造の旧萱野家(大石順教尼記念館) 。大正元年に廃寺になり萱野氏がこの土地家屋を買い取るまでは、ここは遍照寺別院で、高野山の僧侶が冬の間だけ暮らした不動院だった。2009年に町が買取り主屋など3棟が町指定文化財に指定されている。

戸が閉まっているので本当に見学できるのかな?? と眺めていたら、どうして外に人がいる事気づいたんだろう?? 「どうぞ~」 と中から優しそうなおじい様が戸を開けて出迎えてくれた。出していただいたスリッパに履き替え、体温チェックをされ無事合格。

大石順教尼


しかし、今では、そこかしこで体温チェックが当たり前になりましたねぇ。先日、ちょいと無謀な事をして失敗し両手と腕を怪我して血だらけになってしまい、洗って放っておけば治るか♪ と放置していたら夫に見つかって「すぐ病院に行くぞっ!」 と慌てていた。「そんな大げさだって。こんなの放っておけば自然に治るよ~。」 と言ったのですが、「これはダメだ。感染症とかになる可能性がある!」 とか大騒ぎ。放っておけば自然治癒すると思うんですがねぇ。

で、土曜日でも開いている整形外科に連行された。受付で体温チェックだけでなく体調問診やワクチン接種有無などを聞かれた。運転のためと付添いで来てくれた夫はアホみたいに元気なのですが体温がちょっと高かったので、「体温が基準値より上なので病院に入ることはできません。」 と病院から追い出された。えっ!? ここ病院っすよね?(笑)(笑)

ちょいと基準値より熱が高いからといって病院から追い出されるって、なんじゃそりゃ?? 病院なんか??? コロたん騒動以来、世の中が変わりましたねぇ。で、私は体温が基準値以下だったので無事、お医者さんに手当をしてもらい塗り薬や飲み薬数種類と消毒薬や包帯を処方され数日後にまた来るようにとの事だった。手、痛い。


カルテをパソコン入力しながら 「コロナワクチン打ってないの? ワクチン反対派ですか?」 と聞かれた。「いやぁ別にそういうわけでは」 と波風立てず適当に答えると 「ワクチン反対派なんですか? いや、いいんですよ。打つも打たないもいいんですよ。で、反対派ですか?」 と何故かすっごい食いついてきた。「いやぁそういうわけではないんですけれどもぉ」 と答えたら、「いやいやいやいや、いいんですよぉ~、反対派でも。。。。。。ではまた数日後に」 と言われた。一体なんだったのだろう?? 私の演説が聞きたかったのだろうか??(笑)



そういえばポスティングされていた美容院のチラシにも。。。

美容院ワクチン

”ワクチン接種済のオーナーが、全て一人で担当。” とか自慢げに記してある。ワクチン接種済ってのは威張れるものなのかな? いや、安心感を与える事ができるのかな?

”他のお客さまとの接触がなく安心です。” 一瞬ビビったが、まぁこれはわかるかなって思った。シェディング被害を極力抑えられますしねぇ。。。しかしオーナーさんが接種済みかぁ。。。


調査結果を元に記された記事Steve Kirsch's newsletter によると、米国ではワクチン接種者の内、約500万人のアメリカ人が働くことが出来なくなり、約1000万人のアメリカ人が心臓損傷が発生し、約75万人のアメリカ人が死亡している、との事。また、1000万人のアメリカ人が入院の必要があった、との事。心臓の問題の発生率は6,6%なんですと。


FRONTNIEUWSによると、ハンガリーの出生数は前年同期と比較し今年は20%減少した。この劇的な低下は、Covid集団ワクチン接種開始から9か月後に発生した、とハンガリーの祖国運動の副議長さんが国会で指摘。

こういった諸々のニュース等を読むと、なんか怖いですねぇ。シェディングも怖いんっすけどねぇ。。。おちゅうしゃ始まってから日本人の死亡数も急増しているとか他にもいろいろな病気が発症したり体が不自由になった等も見聞きしますがきっと全部捏造♪ だって、



「全責任は私が引き受ける!」 と大上段に仰せだった河野太郎氏はこのよう↓に仰せなので、きっと上記の調査結果もすべてデマ♪

河野太郎

良かった♪ 安心だわ~•*¨*•.♬\(^o^)/ バンザーイ♪ʜᵅᵖᵖᵞ🌸




おっーーと、話がそれてしまった。さてさて、体温チェック関所を通過すると、案内されて入った右側のお部屋。お手製の小さな映画館みたいになっていた。大石順教尼の生涯を紹介する映画を見た。多分、数十分くらいのものだったと思う。映画を見た後、健気な人だなぁ、私思いあがっているかもしれないな、と反省した。



筆を口にくわえて物書きをしたのは、相田みつを が最初じゃなかったんだ! っと知り、そこが衝撃だった。相田みつを氏や星野富弘氏は、体操技の失敗による事故で両手が不自由になったそうですが、大石順教尼さんが両腕をなくした理由はそれにしてもあまりにも壮絶すぎた。4歳から始めた踊りが上手で、日本一の踊り子になるのが夢で資金援助を申し出てくれた中川萬次郎氏の養女になり踊りの稽古を続けていたが、17歳の時にその養父に殺されかけたのだから。


中川萬次郎氏の3人目の妻は25歳年下。その若妻が若い男性と駆け落ち。中川氏宅で一緒に住んでいた芸妓さんの一人がその逃げた御嫁さんと接触したらしく頼まれて彼女の着物を持ち出そうとしたのを見つかり、居場所を知っているんだろうと激怒。中川氏宅で一緒に住んでいた逃げた若妻の母と弟妹と芸妓2人を斬り殺し、大石よね(のちの大石順教尼)は両腕を斬り落とされ、中川氏は自首。

中川萬次郎氏はもともとは武士だったそうなんで、刀遣いもプロですよねぇ。。。


で、数時間後に自首を聞き駆け付けた警察。息があったので病院にかつぎこまれ一命をとりとめた大石よね(のちの大石順教尼)氏。ひたすら踊りをしてきた人生だったのに両腕がなくなり、障害者となってしまった彼女。



大石順教尼さんは若いころから綺麗な方でしたが、晩年はもう人間性が滲み出ていてほわ~んと温かくなんと表現したらいいのか良い御顔をされているんですね。歳をとるほどに表面的な顔のつくりだけではごまかせなくなってきますねぇ。その人の生きざまが内面が滲み出てきてしまう。いくら整形手術をして外見を整えたところで、化粧をぬったくって顔を作り込んだところで見た目は整うかもしれないが限界がありますわなぁ。内面からにじみでてくるものがねぇ。やはり、その人の生きざまですわなぁ。


なかなか出来ない事と感心したのが、堀江六人斬り事件を起こし世を震撼させ、自分の両腕をバッサリ斬り落とした養父のもとに、養父が死刑になるまで拘置所に何回も面会に行っているところ。

大石順教尼



結婚生活でもいろいろあったようだが、彼女が書き記すには、夫が入院した時に、両腕がなく世話ができず自分の姪を呼び寄せ世話をさせた。何もできない自分を責め自ら離婚を切り出したそうな。



両腕を失った大石順教尼は、口で加えて絵や文字を書き、67歳で日展で入賞している。その彼女の書かれた絵や文字が展示されていた。そして大石順教尼は、時々、ここに来て高野山に登ったり、萱野さんのご親戚さんを訪ねたり、絵や書を書いたりしていたという。で、彼女がここに来た時に使っていた筆や硯がそのまま残されていた。



大石順教尼

当時はまだ障害者に対するサポートとかなかったんですね。そんな中、大石順教尼は、身体障害者福祉相談所など障害者施設をつくられた。彼女は尼になる前に住職のすすめもあり、一度結婚し、子どもを2人授かっている。今現在、お孫さんが、大石順教尼カナリア会という障害者施設の代表運営をされていて、曾孫さんは寺院の御住職だとか。お孫さん、曾孫さんまでもご立派に育っていますな~。

歳をとった時、大石順教尼さんのような良いお顔になっていられるように日々精進しようと思う。

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九度山


徳川方についた真田信之の決死の覚悟の助命嘆願により、死一等を減ぜられ高野山蟄居となった真田昌幸、幸村父子。幸村が妻子を伴っていたため、高野山蓮華定院のすすめで高野山麓の九度山で暮らした。九度山にはいつか行ってみたいと思っていたのですが、幸運なめぐりあわせでついに訪れる事ができた。


真田昌幸・幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺だという善名称院(真田庵)。真田昌幸・幸村・大助の3代の御霊を地主大権現として守護神として祀っている。福徳を授ける幸運の神・知恵の神として慕われているもよう。高野山の僧大安上人の前に白鷺が飛来し、「被屋敷を開いて地蔵尊の堂を建て、真田公を地主権現と仰ぎ祭るべし」 とお告げを受けひらかれたそうな。

今はこじんまりとした敷地におさまっているけれど当時は真田屋敷なかなか広かったそうなんですよねぇ。幸村はここ善名称院ではなく、ここから徒歩数分の所にある遍照寺の下方で暮らしたと言われている。

九度山 真田幸村


一見、綺麗なんですが、こうやって見るとちょいと修繕が必要のようだ。広々とした敷地に見えるけれども実際はこじんまりした質素な感じ。お父さんの真田昌幸はここで11年暮らし65歳で病没している。高野山追放となった際に16人の家来を連れて来ていたが、昌幸が死んでしまうと14人が上田に帰ってしまい、高梨内記、青柳清庵のみが幸村と共に九度山で過ごした。お父さんの昌幸氏を慕ってついてきた家来が多かったんですかねぇ。



しかし、御兄さんの信之に散々お金の無心をし、お金だけでなくお酒までくれ~と窮乏を訴え催促ばかりしていた逼塞中だった幸村のはずだが、

九度山での14年に及ぶ暮らしの中で幸村は子どもを11人も作っている。連れてきた正室と側室の間に5人(男2人、女3人)、側室にした隆清院(秀吉により切腹させられた豊臣秀次の娘)との間に2人(男1人、女1人)、そして出自が分からない側室との間に4人(女2人、男2人) の計11人。

自力で養えないで兄貴にたかり続けるならそんなに側室増やすなよ! とか 子どもそんなに作んなよ! とかツッコミを入れたくなってしまったりもするが、本来は死ぬところを兄貴の嘆願で生きながらえる事になったのだから、生きているのは兄貴の責任だ! だから面倒みろ!って感じだったと思うと理解ができなくもない。ん!? なんかちょっと変だな?? ん!???


九度山 真田幸村


また、九度山に蟄居中の幸村は、車で行ってもここから40分くらいかかる距離にある蓮華定院を往復し、ついに得度し好白という僧名までもらっている。僧侶になってまで戦闘を!?って一瞬思ってしまうが、まぁ昔の僧侶はそういうおっかない者だったり戦闘集団だったりするんでねぇ、おかしくないですわな。


さて、この戸↓を開けると、無人お土産売り場になっていた。戸を開ける前にエンマ様を意識するように貼紙がしてあるので、盗難は最小限に抑えられているものと思われる。

九度山 真田幸村



敷地内にすっごく小さな建物ですが真田宝物資料館というのがあって、開けると真っ暗で無人。完全に性善説にのっとった入場料入れにお金を入れ、自分で電気のスイッチを押す必要有。幸村の子どもたちが遊んだ手まりだとか日本人形、幸村が愛用していたという鎧兜や槍先やら、書状やら高野紙製造用具やら等などが展示されていた。正室の奥方が自ら真田紐を織りここでの貧しい生計を支えたなどと言われている。また諸国にこれを売り歩かせ情報収集していただとかも。

九度山 真田幸村


村の人たちとも仲良くやっていたようだし、ここで皆で楽しく静かに暮らしていればいいものを・・・・大阪城から使者が来て頼み込まれたからと言って引き受ける必要なかったのにねぇと思うのだがねぇ。ことのほか病身になっただとか歯が抜け白髪が増えたとか兄貴に手紙でしたためていたほど老いてきていた実感のあった幸村だったはずがまた戦いの道を選び49歳で討死するとは。。。

でも、ここで静かに村の人たちと暮らしていたら、真田の名はここまで後世にまで響き渡ることはなかったんですよねぇ。。。。最後に大暴れして天下に名をとどろかせてこの世を去ったという感じでしょうか。。。しかし、幸村は実は死んではいなかった説などもあるが、だとしたら結局逃げ落ちた先で静かに暮らしたのだから九度山での暮らしと何が違うのだろうとか、九度山での暮らしの方がよくね? とか思ってしまったりもする。

まぁ、負けるつもりで戦にうってでたわけではなく、なんとかして勝利をつかみ一発逆転を狙ったのだろうから、勝負にでた!って事なんでしょうけれどねぇ。あとは、大阪城から来た使者が当座の支度金として黄金200枚・銀30貫を当座資金として持参してきただろうことを考えると、この金で家族楽になるな♪ とかグラッときたのかもしれんが。

大阪城落城したのが5月8日、幸村の妻と娘は警護の3人と共に浅野長晟に捕らえられた際に、幸村の妻が大判57枚を持っていたということなので、大判57枚って相当な額ですよねぇ。



電柱の絵(笑) 幸村ってこんな可愛かったんですかね?? で、ここが真田の抜け穴伝説が囁かれた、大阪城まで続く秘密の抜け道と言われていたところ。和歌山県にあるこの九度山から大阪城までの地下道を作ったのだとしたら凄すぎるが、実際は地下に造られた石室で横穴式古墳だったとの事。今では本来の埋葬者には失礼だが真田古墳と呼ばれているもよう。しかし、人の想像力って凄いですね~。蟄居させられていた真田氏が住んでいた地ということでいろいろ考えたくなってしまうのもよ~わかる。確かに大阪まで続く抜け穴を作っていたとしたら壮大なロマンですよね~。

九度山 真田幸村

真田父子は、家康に赦免を願い許してもらい故郷に帰るのを手紙にしたため頼んだりしているのだが、許されることはなかった。実は赦免を願ったのは単なる目くらましであり、徳川打倒の為に臥薪嘗胆で過ごした等と言う説もあるようだが、残念ながら負け惜しみのようにしか聞こえない。ここでの貧しく不自由な暮らしから抜け出したく故郷に帰る事を願いながら叶わず死んでいった昌幸。

しかし、ここ九度山で誕生した幸村の息子の大助が立派な武人に育っているので当時の価値観やら武芸やらをしっかり叩き込んでいたのだろうなぁというのはよくわかる。





お次は、真田ミュージアム。ちなみにここまで全部徒歩数分圏内。このように順を追って詳しく簡潔に真田家についてまとめられていて、ここに来れば真田ってなにそれ?って人でもいっぱしの真田通になれるというよくできたミュージアム。

九度山 真田幸村



文字を読むのが苦手な場合はこういった映像も用意されているので子どもでも楽しめるだろう。前方にある映像ボタンを押して席に着こうと振り返った時に、うわっ!ってビックリしてしまったのだが、実は秘かに人と同じ大きさの忍者の人形が隠れている。どこだかわかるかな??

九度山 真田幸村



大坂夏の陣・冬の陣についても詳細に説明がなされていて、またさらに映像も用意されているのだが、しかし、冬の陣での幸村の大奮闘を見て家康は、10万石をあげるし誓書も差し出す! と味方にしようと擦り寄りを開始。丁寧に断った幸村に、今度は、信濃一国を呈する! と言ってきたそうだが、幸村はそれすら断っている。んん~、なんとも人間的にはと~っても好きだが、もっと器用にうま~く生きれなかったのかと思ってしまったりもするが、でもこういうところが幸村の魅力の一つでもあるんですよね~。

九度山 真田幸村



しかし、痛々しいのは幸村の長男である真田大助氏も九度山から父と一緒に大坂冬の陣・夏の陣を戦い、最後には自害したとされている。14歳だったんですねぇ。

九度山 真田幸村



幸村の戦いぶりは、徳川方からの絶賛され 日本一の兵! と称された。個人的にはそんな称されなくていいから九度山で楽しく静かに暮らしとけば良かったのに。。。って思ってしまうのだがねぇ。。。男のロマンは私にはわからないや。

しかし、幸村は130人~150人と共に秘かに九度山を脱出。さらに高野山僧集団123人も山伏の装束を着て脱出、また那賀郡武士30人~50人程度も九度山を脱出し、天王寺でこの3集団が合流し幸村軍は総勢300人にもなったというから驚きだ。

九度山 真田幸村



ここから先は真田の抜け穴をイメージして作られていて、石壁の洞窟のような中を進んでいく。ここ九度山にあった真田の抜け穴伝説は間違いだったとしても、真田丸に通じる複数の地下道を幸村が作ったという話は有名だ。安居神社や一心寺や三光神社などの抜け道が有名である。

また、真田といえば忍者が浮かぶが、ここ九度山でも屋敷のいたるところが忍者屋敷になっていたという想定で、複数の仕掛けを楽しむことができる。徳川打倒の悲願を持ち臥薪嘗胆の真田父子の家ならば大いにあり得る設定ですね。真田十勇士の中でも幸村の影武者として死んでいった者も複数いますしねぇ。

九度山 真田幸村


そして、実は、真田幸村は生きていた! 説や 徳川家康は大坂夏の陣で死んでいた! 説などが写真付きで説明展示されていた。幸村が最後逃げ延びて鹿児島で山伏として生を全うしたなどは非常に夢があり良いなぁっと思うのだが、お母さんの淀君に翻弄されたお飾りの操り人形だったのかもしれないが、しかし、仮にも大将であった豊臣秀頼までもが鹿児島に逃げ落ちたという話にはなんだかなぁって思ってしまう。あれだけの人を巻き込んで人を沢山死なせておいて自分だけさっさととんずらして生きながらえるってねぇ。。。な~んかモヤモヤする。そこで更に力をつけて反旗を翻すとかでもなく、静か~に暮らして一生を終えているんですからねぇ。


また、逃げ落ちたのが鹿児島の地ではなく、実は奥州で、秋田県大館市の一心院には真田幸村とその長男真田大助の御墓があるという。鹿児島にも御墓があると言われているし、果たして何が本当なのか???? 幸村と大助たちは生きていてほしいが。


あと、近頃はなんでも可愛いアニメにしたほうがいいのかもしれませんね~。真田十勇士の可愛いイラストや動画が流れていて、アニメ好きの人も逃がさねぇよ!的なお作りになっていた真田ミュージアム。



企画展だかで日本刀の展示がなされていた。

九度山 真田幸村



そしてここ、お楽しみコーナー。備え付けの手裏剣であの白黒の碁盤目状の的に、そして輪ゴムを弾に見立てた銃であの小さな的を撃つのだが、実は手裏剣は、以前、甲賀の里 忍術村で2回練習した事がありなかなかの腕前になっているのだ。で、やったら、やはりビシッと狙ったところに決まった! ふん! あと弾も銃を構え輪ゴムをぶっぱなし全部一発で倒していった。意外と使えるかもしれませんよ、私。クククク

九度山 真田幸村

真田紐やら六文銭やらを使ったりしたのも含めいろいろなお土産も売られていた。おっ! と目を引いたのが、”日本一の兵” と印字されたTシャツ。一瞬買おうかなって思ったが、しかし、戦う気ないのに ”日本一の兵” って書かれたシャツ来て歩いてたらどうだろう??と考えてやめた。いや、家で着る分として買っても良かったな。

しかし、あ~、念願の九度山に来れて良かった♪

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神社めぐり


伏見稲荷大社は、素晴らしく煌びやか。狛犬ならぬ狛狐ちゃんがとっ~ても可愛い! とくにお口に稲穂やら巻物やら玉やらを加えている狐ちゃんの姿がとっても可愛い!

伏見稲荷大社


伏見稲荷大社も完璧、観光地化されていて観光客が沢山。土産物屋もずらっ~と並んでますしね。目の前には和服レンタルの御店もあり、そこで和服に着替えて詣でているのか見学しているのかしているカップルなども。赤い鳥居がズラッと並んだよくみる伏見稲荷大社のあの光景も実際見ると、あー鳥居けっこう小さいんだね~とか塗装が剥げてきちゃってるね~とか写真と現実の違いを知ることになる。でもあの光景はやっぱり壮観。

私が気に入ったのは、その連なる有名な赤い鳥居をくぐった先でわき道にそれ徒歩数分山を登った先にある伏見神宝神社。訪れる人も一人いただけで静かでいい感じ。伏見神宝神社の立木札にも書かれていたが、どこか懐かしい縄文時代を思わせるような雰囲気。静かで清浄な感じ。

下に戻り観光客の流れる道に戻ると。。。んん~。伊勢神宮もねぇ、普通の時間に行った時はもうすっごい人でごちゃごちゃでなんだか空気も澱んでて(ーー; で、いつも早朝に行っている。早朝に行く伊勢神宮は素晴らしい♪ 伏見稲荷大社も人のいない早朝に行くとまた違うのかなぁ。


驚いたのが、石を積み上げて作られた灯籠ってありますよねぇ。それに札がかかっているところ。”危険だからのぼってはいけません” とか。のぼる人いるんか!っとそこに驚いた。いろんな人がいるんですねぇ、灯籠にのぼる人とか(^^;



で、伏見稲荷大社も古札入れの前に立派な御賽銭箱が置いて有って、伏見稲荷お前もか!って思ってしまった。春日大社も伏見稲荷大社も両方観光地となっているのでそれもありなんだろうなぁって思いましたわ。


あと、面白いなぁって思ったのが、入り口の所にある手水舎。表側というのかな?には人が沢山いて並んでいるのだが、裏側はこのようにスケスケ(笑)

伏見稲荷大社




で、やっぱり落ち着くのはここですねぇ。こんな時は、石上神宮ですよ。ハハハハハ ここは奈良のなかなかの田舎なのに結構参詣する人が一年を通して多いんですよねぇ。いつ詣でても人がちらちらいて不思議だなぁと思っている。こんな不便な田舎なのになぁ。でも明らかに観光地化してなくてガチャガチャしてなくていいですし、訪れる人たちも静かなきちんとした方々しか見たことがない。生きている鶏さんも沢山いて可愛いですしね~。

石上神宮


で、でもですよ。。。。この鶏さん↓、周りの鶏さんたちに突っつかれていたのでびっくりしてしまった。しかも複数の鶏さんに。虐められているのかなぁって見てたのですが違かった。この鶏さんが方々に喧嘩吹っ掛けて自分から突っついて回っていて、それで周りから時々反撃されているですねぇ。一体この鶏さん。

石上神宮


はげはげですよねぇ。鶏さんを見かけると喧嘩吹っ掛けて突っついて行くので誰も近寄ってこない。時々復讐されてつつかれている。

石上神宮


そしてな~んか雄率が高い。石上神宮の鶏さんって雄の方が多いんだなぁって気づいた。で、こういう皆で居るところに突っ込んでいって突っついて喧嘩吹っ掛けて走り回っているんですねぇ。

石上神宮

まぁ、この喧嘩吹っ掛けて走り回っている鶏さんは特殊だとしても、この鶏さんを除いても時々、いろんな鶏さんどうしで小競り合いが行われているんですよぉ。トホホホ あと、大体一緒にいる仲良しの鶏さんって決まっているんですよね~。なのに小競り合いが頻発している。


羽をパタパタしているシーンなのですが、この鶏さんは体がとっても大きい。ど~んとした貫禄があって一匹狼みたいな感じで一羽で行動している。この大きな体の鶏さんはすぐそばにいても、あのハゲハゲの攻撃的な鶏さんも手を出さない。人一倍ならぬ鶏一倍体が大きいから攻撃されないのか、いや、私が思うにこの鶏さんは人格ならぬ鶏格が違うんだと思うんですよねぇ。この体の大きな鶏さんは見たところどんな鶏さんとも上手くやっているご様子。どうやら心もおおらかで愛情深い鶏さんのよう。清濁併せ呑んでいるとでもいいますか。

石上神宮


しかし御神鶏さまとか言っても、あんな喧嘩っぱやい攻撃的な鶏さんが神???? まぁどこの神話も酷い物ですからねぇ、攻撃的だったり小競り合いが頻発したり争いが絶えない鶏さんたちが神でも全然おかしくないですわな(^^;


ところが、あの醜い争いの修羅場から離れた先には、そんな喧嘩の世界が嫌で逃れてきたのか家族で仲良く過ごす鶏さんたちの姿が見えた。そう、争いを嫌い穏やかで平和と愛に満ち溢れた世界を望む鶏さんたちの理想郷がここ。

石上神宮


こっちは天国で、あの修羅場は地獄だ、と思った。地獄でも上手くやっているあの大きなからだの鶏さんの生き方も格好良いけれど、やっぱり平和が良いわ〜。とはいえ、この地球上ではどうしたって争いが絶えないわけですから、あの体の大きな鶏さんのようにで〜んと構えて生きるしかないんですよねぇ。。。

石上神宮

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可愛い鹿さん♪


歴史が古~く修学旅行生も多く訪れ誰もが知っている春日大社。この辺りも鹿さんがた~くさんウロウロしておられますからねぇ、可愛いですね~、鹿さん。体の点々模様も素敵だね~。

春日大社


ここは手水舎。この鹿さん↓の下には、コロたん騒動始まって以来の柄杓のない形式で水が流れている。コロたん騒動の良かったところは、神社で柄杓使わなくてよい形式に変わったところだなぁ~、その方が楽だし、とっても便利♪ムフフフフ あっ、コロたんの次は、サル痘が始まるんでしたっけ?(^^; もう飽きたよ。。トホホホ なんとかならんかねぇ。ハハハハハ

春日大社


春日大社


鹿せんべい とか持ってないのに懐っこいですね~。

春日大社には、観光客らしき人達が結構来てた。でもねぇ、ここあの藤原一族の氏神だったんですよねぇ。あの藤原のねぇ。。。。で、参拝するお社がありますよねぇ。。。。そのお社の後を囲むようにほんの少し小さな庭とでもいいますかぁ、そう言っちゃうと失礼なのかな? をグルっと回って戻ってくる、多分普通に歩けば1分もかからないのですが、そこに入るのにはお金がいるんですと。た~だ入ってトコトコ歩いてもどってくるだけ。お金払って入った人はしけた顔して戻って来ているように見えちまった(^^;

あと、ビビったのが、古札入れってあるじゃぁないですかぁ。神社で買った神札を一定期間経ったら返却し新しい神札をまた購入しますよねぇ、で、その古札入れの箱の前に、他の神社では今まで見たことがない御賽銭箱らしきものが置いて有ってお金を入れるようになっているんですねぇ。古札入れに御賽銭箱??? 古札をお返しするのにも金かい。。。これには、さすが藤原! って驚嘆してしまいましたわ。なんか金金したイメージで。ハハハハハ


鹿さんは皆フレンドリー(^^♪で、このように縄だとかの隔てる邪魔な障害物をものともせず来てくれる可愛さ。

春日大社


この子の角は生え変わりで落ちちゃったのかな???? んん~、でももう6月中旬に入ったんだけれどもこんなんでいいんかな??? どーなってんだ??? わざわざこのように見せに来てくれました。こんなもんなんか??

春日大社


で、こちらの鹿さんは、お目目がウルウルで ”愛くるしい” という言葉がピッタリ。

春日大社



んん~、なんか一見、妊婦さんのように見える。。。なかなかの貫禄なのだが、段々カンガルーさんにも見えてきたような。

春日大社


かっ可愛い!!

春日大社


で、ソフトクリーム買ってみたんですがねぇ、これで400円也。抹茶だけのにすれば良かった。白いのは私にはミルクミルク過ぎた。そして、これで400円払うならアイスクリーム買って あられ 散らした方が断然安いな、とか思い浮かんでしまった。そういうこと思っちゃいけないんだよねーとは思うのだが、どーしても思ってしまう。セコイ体質なんですな。ハハ

春日大社

鹿さんは可愛いんだけれど、やっぱり春日大社は藤原氏のイメージが強すぎて、なんか心にひっかかってしまうのであった。私、長屋王の味方だしな。

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蹴速の味方どぇーす★クククク


ここは、當麻蹴速之塚と彫り込まれた石柱、そして由来書が刻み込まれた石碑がある。そして、写真には載せていないがここの資料によると、當麻蹴速を偲び鎌倉時代に建てられ地元の人たちに大切に守られ続けてきた當麻蹴速のお墓だという五輪塔がある。

だが、この當麻蹴速の御墓と伝えられてきたものは、奈良時代後半にこの地で生きた、豪族當麻八郎為信氏の御墓だった、としてこの地の郷土史家さんにより立証がついているとの説もある。が、公式では、ここの五輪塔は當麻蹴速の御墓とされている。

當麻蹴速


さて、當麻蹴速とはどのような人物だったのだろう? 當麻蹴速は心根のとても優しい人物だったと伝承されている。しかもとても力の強い人物で、素手で角をへし折ったり、曲がった釘を伸ばしてしまうほどの怪力だったとの事だ。力は強いが、大変に心根が優しい人物だったので、里の誰からも好かれ慕われていたという。


第11代垂仁天皇が當麻の里に使いを出したところ、里の人々は皆口々に自慢げに答えた。「當麻蹴速様のお蔭で皆平穏無事に暮らしています。日本一の力持ちで、国広しと言えども、蹴速様にかなう者はありますまい♪」 と。




使いの者が帰り、天皇に 「(當麻の里の當麻蹴速は) いつも人に語るのに、日本の国ひろしといえども、とうてい自分の力にかなう者はあるまい、なんとかして力の強い者にあって命懸けで力比べをしたいものだ、と豪語しております。」 と報告したと日本書紀に記されている。

尋常ならぬほどに里人たちが安心して暮らし、里人たちに慕われて愛されている蹴速のことを、腹立つわーー! と近侍たちが妬み僻みで嫌~な感じで垂仁天皇をそそのかしたのかねぇ。垂仁天皇は、「當麻蹴速に勝る怪力を探し出して相撲をとらせてみてぇーー!」 と言った。

すると、家来の一人が 「出雲の国(奈良県桜井市出雲)に野見宿禰という怪力がいてどんな大岩でも持ち上げると評判」 という事で、「おもろそっ! 二人に相撲を取らせようぜっ。」 っとなった。




當麻蹴速と野見宿禰の相撲決戦の日は7月7日。天皇がご覧になる天覧相撲ということでとても多くの人が集まってきたという。二人とも互角に戦っているところ、一番前にいた子どもが突然泣き出した、とも、土俵に飛び出してきたとも伝えられているが、とにかく心優しい蹴速は、その子どもに気をとられ動きが一瞬止まってしまった。その隙に、野見宿禰は當麻蹴速の手を払いのけ、當麻蹴速に飛び蹴りをくらわし、あばら骨を折り、腰の骨を踏み砕き蹴速をぶち殺した。



垂仁天皇は、「あぁおもろかった! 當麻蹴速の領地ぜ~んぶ没収するわ~。宿禰、おめえに全~部やる♥」 と、當麻蹴速の領地をすべて野見宿禰に与えた。


心優しく慕われていた當麻蹴速の事を、里人たちは里の誇りとして今も伝承し続けている。かつて當麻蹴速の領地だった地では、このように當麻蹴速がとても優しい人物だったこと、里人たちに慕われていたこと、とても力が強かった事、などが伝わっている。


當麻蹴速

この二人の戦いの行われた日、垂仁天皇7月7日が、相撲の起源とされている。で、ここ↑が、相撲館。



でも、実は、蹴速と宿禰の戦いよりもずっと前に、葦原中津国(出雲)をおさめていた大国主命の二男建御名方神と、天照大神から命じられた国譲りの交渉役建御雷神との 国譲りの大相撲 の話が古事記におさめられており、これが、日本の相撲史の最初だ。相撲に敗れた側の建御名方神は信濃国(長野県)の諏訪に移り、彼は祭神として諏訪湖畔にある元官幣大社、諏訪明神に祀られ、武神、相撲の神、農業の神、などとして尊崇され、その地では古くから奉納相撲が行われている。


この時、相撲に負けた建御名方神は、相撲の試合でぶち殺されたりはせず、国を譲り自分の根拠地の信濃国に居住をうつした。建御名方神と建御雷神との相撲試合が、日本の相撲史の一番最初の記録となるのだが、相撲と言えど負けた方の命を奪う、などいう事はなかった。

が! 當麻蹴速のあばら骨を折り、腰の骨を踏み砕きぶち殺した野見宿禰ををよくみせようとする勢力がいたんですねぇ。。。当時の相撲は、相撲といえども、どちらかが死ぬまで行った、そういうものだった! 等とまことしやかに伝えられているが、な~んか変だと思いません? そもそも建御名方神は殺されていないし、しかもこの蹴速と宿禰の相撲が日本の相撲の起源!なのだとしたら、以前にそんな試合なかったのですから、相撲はどちらかが死ぬまで行う事!なんていう取り決めもなかったんですよねぇ。ねー、変ですよねー。

この地に伝わる伝承では、當麻蹴速と野見宿禰の試合の時に従者がかけた言葉が、「どちらかが降参するか、精魂尽き果てて倒れるまで相撲を取り続けろ」 との事だったそうですねぇ。降参するか、疲れ果ててぶっ倒れて闘う気力をなくせば、済む話だったんですがねぇ。宿禰はそれをぶち殺した。

つまり、残虐な野見宿禰が、當麻蹴速の腰骨を踏み砕いてぶち殺したのを、さぞ当時はそれが当たり前だったんだからしゃーないやんけ~♪ と思わせているという事ですよねぇ。まぁ生き残ったのは野見宿禰の方ですからねぇ。




そうでなければ、もし本当に当時の相撲はどちらかが死ぬまで行う事! という取り決めがあったのを知っていて相撲をとらせて楽しんでいたのだとしたら、どちらかが死ぬのをわかっていて天覧相撲を行わせた垂仁天皇があまりにもバカで軽薄軽率すぎるあまりにも物を考えないパッパラパーの人物だったという事になる。それか、根っからの残虐好きで人が死ぬのを見て楽しむサディスティックな病んだ人物だったのか、それとも人々に愛され慕われている當麻蹴速に己の心の醜さから勝手に脅威を感じて、ぶち殺しておかねぇと俺ヤベェな! と策を練ったのか、どれかという事になる。




では、ちょっと中に入ってみよう。なっ、なんと! 相撲の伝統的な稽古方法の一つで、柱に向かって左右の突っ張りを繰り返す、これを体験できるとの事だ。

當麻蹴速


當麻蹴速

ハハハハハ。マスクさせてらー。大草原

コロたんが危険!ってことで受付で個人情報の提出を求められた。うわ~、旗がいっぱい! 

當麻蹴速


この土俵↓は、国技館の土俵と同じにつくられているとの事。「ただ、神様も祀られてないので女性もあがっていいんですよ♪ 塩もまいていただいて大丈夫です♪ 写真も撮っていただいて構いません。ごゆっくりしていってくださいね♪」 と、とても優しく感じの良い受付の方だった。感じの良い方と会うと気分良いですね~(^^♪

當麻蹴速

そして、こっそ~り塩を手にとり撒いてみたり、土俵にのぼってみたりした。意外と小さな丸で、ここから出ちゃ負けかぁと、こりゃすげぇな、と体感した。

このような丸い土俵ができたのは江戸時代に入ってからで、それ以前は、観覧人がつくる丸型の人垣だったそう。江戸時代になり相撲興行が盛んになり、四本の柱を立てて紐で結んだリング状土俵となり、それが次第に丸い現在の土俵に変化していったという。




1階に土俵があり、左右に観覧席が階段状にずらっ~とあり、2階の回り廊下っちゅうのとも違うし、キャットウォークとでも言うのでしょうかね、体育館の2階にある細~い廊下みたいな所は展示室みたいな感じで、写真や資料などがずらっと細かく展示されていた。

これ↓は、十両以上からしか所有できない! と説明書きに書いてあった。自分の化粧廻しや締め込み、下がり等を入れておく行李で、巡業の時には旅行鞄になるんですな。でけぇーー!

當麻蹴速


ここ↓は、相撲館から車で10分かかるかな?数分の所にある 相撲発祥伝承の地、腰折田だ。腰折田って地名になっているのですが、どう思います? 野見宿禰の人柄がよーくわかると思いません? 蹴速をぶち殺し、蹴速の領土を全部もらいウハウハの宿禰。その蹴速の領地に、わざわざ腰折田なんて地名にしているところが性格の悪さが露呈し過ぎているように感じませんか?

當麻蹴速

蹴速は里の人たちに愛され慕われ、今でもこの地の方々は蹴速のことを大切に敬い伝承し続けている。でもそれを5000歩譲って、この里の人たちが 「蹴速、弱っ! ダッセー! 腰が折れて死んだから、蹴速を侮辱し続け宿禰を持ち上げるために、ここ、腰折田って地名にしようぜ!」 となったとする。

仮にも宿禰は、蹴速の領地を全部譲り受けた人だ。自分の領地で里人たちがそんな性格の悪い意地悪な地名をつけて、自分と戦った蹴速のことを嘲笑っていたとしたら、叱り飛ばすところだろう。本来なら命をかけて闘った蹴速を尊重し、「今後ここは、蹴速 という地名とする!」 などと宣言すべき立場だろうよ。まぁ、もうこれで野見宿禰の性格の悪さはもうバレバレですね。腰折田とは、宿禰がつけたんだろうねぇ。あばら骨と腰の骨折って蹴速をぶち殺したから、腰折田♪ ざまぁ、ププププ ってこんな感じだろかな。まぁこの地名がいつからなのかは知りませんが、


ほれ↓ 蹴速亡き後も、里人たちは未だにずっと當麻蹴速の事を大切に思い続けている証拠。

當麻蹴速




いやいやいや、野見宿禰はそんな奴じゃねぇぜっ! 人型埴輪考案し、殉死を止めさせたの宿禰だろっ! 宿禰は優しい奴だぜっ! 等と仰せの方がおられるかもしれません。

まぁ、いいですよ、そもそも殉死ってあれ酷くない? 位の高いとされている人が死ぬと、生前その人の従者だった人たちをその貴人とやらの御墓のまわりに生き埋めにしていたというではありませんかい。その人たちの泣き叫ぶ声が昼夜関係なく聞こえていたというではありませんか。酷っいよね。


まことしやかに伝えられているところによると、垂仁天皇の皇后日葉酢命が崩御した際、殉死に胸を痛めていた垂仁天皇が、周囲の者に相談したところ、野見宿禰は土器製造家300人を招き、粘土で人や動物など様々なものを作らせ、殉死させる代わりにこれらの埴輪を一緒に埋めましょう♪ と上奏し、垂仁天皇は喜び、これを機に殉死の風習がなくなった、等と言われている。


まぁ、殉死が酷すぎるだけに、殉死に胸を痛めた垂仁天皇だとか、人型埴輪を考案し殉死をやめさせた野見宿禰だとかが、良い人ー! 英雄ー! 機知に富んだ人ー! 優しいー! とかなってしまいますよねぇ。まぁ本当の事言っちゃうと、垂仁天皇が 殉死制度禁止! って命令すれば済んだ話ですよねー。殉死制度がおもしろいからってさー。


當麻蹴速

でも、ここはひとつ、冷静に考えてみましょう。Wikipediaにも記載があるように、人型埴輪が出現するのは5世紀後半以降、というのが考古学上から導き出されている。では、優し~い垂仁天皇や賢~い宿禰が生きていた時代というのは、まぁいい、5世紀後半とはいわない、せめて5世紀だったのだろうか。。。。

いや、違う。彼らが生きていたのは4世紀前半ではなかったかな?

はい、バレましたーww

野見宿禰が人型埴輪を作り殉死をやめさせたー! だとかは捏造だという事が。あまりにも有能な當麻蹴速に脅威を覚えた垂仁天皇が、そうですねぇ蹴速が会場に向かう途中に罠をしかけて怪我させたりした可能性も考えられますねぇ。。。ケケケケ で、野見宿禰と相撲を取らせ、あばら骨と腰の骨を折らせ殺させたと。蹴速の領地を全部取り上げ宿禰にあげ、宿禰は垂仁天皇のコマとして働き続けた、という事だ。

里人に慕われ愛された當麻蹴速をぶち殺しただけでは体裁が悪いので、優しく賢い垂仁天皇と野見宿禰♪ との印象付けのために、人型埴輪を考案した! だとか、殉死をやめさせた! だとか捏造したんだね。考古学が全てを語っているねー。

最後に一つ言っておく。私は、當麻蹴速の味方だ!!

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