「女性天皇」と「男性天皇」の違いー不公平な待遇に見る女性差別の実態ー


古寺十禅寺へ続く参道。右手には徳林庵(山科地蔵)があり、今や民家が立ち並ぶ細道を数分歩くと、そこには十禅寺が佇んでいる。かつて盲目となり、出家された人康親王の御所・山階宮があった場所で、859年に人康親王が開基とされる古いお寺です。ここには聖徳太子の作とされる聖観音像が安置され、その本尊とされています。

しかし、室町時代から関ヶ原の合戦に至るまで、戦火に巻き込まれ数度の焼失を経験し、寺は荒廃していきました。聖観音像を安置した民家も三度も焼失し、聖なる像は風雨にさらされる苦難の時を続けました。

十禅寺


江玉真慶法師は修験僧として全国を巡り、修行を積んでいました。ある日、京都へ向かう途中、自身の出身地である山科に立ち寄りました。そこで聖観音像が風雨にさらされ、放置されているのを見て、草堂を建て再興しました。しかし、彼自身はよれよれの衣を身にまとい、牛に乗る異彩を放っていたそうです。





後水尾天皇と徳川家康の孫、興子内親王(=女一宮)は、1629年、たった5歳(数え歳7歳)で突然、天皇の座に就くことになりました。称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇としての誕生でした。どれほど彼女が心細く感じたことでしょう。これまでは妹たちや乳母たちと賑やかに暮らし、母である和子も廊下の向こうにいたのに。

しかし、天皇になると、一変しました。突然乳母たちから引き離され、後水尾天皇に仕えていた者たちに囲まれた生活が始まりました。さらに、後水尾上皇の院政下では実権を持つことはできませんでした。




1643年、後水尾上皇から退位を命じられ、翌年にはたった21歳で太上天皇(上皇)となりました。南に建てられた神院御所へ移り、新院さまと呼ばれるようになりましたが、徳川幕府からは厳しい制限を課せられました。朝廷に関する関与を禁止され、御所での催物の自主開催も許されませんでした。血族との接触も限られ、外部から隔絶された生活を強いられました。


5歳の時に突然天皇にされ、完全に象徴的な存在とされた後、21歳で突然、外界との接触を断たれ御所に閉じ込められました。さらに、父である後水尾上皇から、天皇家に婿を迎える前例がないため、また、格式の高い家も国内に存在しないため、結婚が許されないと告げられました。

御付の者も減らされ、人の訪れることのない静まり返った御所に閉じ込められ、京都所司代の許可がなければ近くの内裏や仙洞御所、大宮御所にさえ足を踏み入れることさえ許されませんでした。でも、譲位後は毎年幕府から5千石が給されていたので生活資金に窮することはなかったでしょう。

十禅寺

寂しい時を過ごす中、太上天皇(女一宮)は江玉真慶と出会いました。心身を崩し、不調に悩んでいた彼女は、江玉真慶の訪れによって少しずつ良くなり、快復への道を見出しました。そして、十禅寺のことを知ると、江玉真慶に申し出、お金を出したので再興することもできました。しかし、彼女は酷い監禁生活を送っており、再び気鬱に苦しむこともありました。侍医の治療では改善せず、女一宮自身の強い希望で再び江玉真慶を呼び寄せ、治療に当たらせました。

しかし、ボロボロの服装や汚れた袋、そして異形の姿で訪れる江玉真慶の姿は、周囲から異端者と見られ始めました。次第に、太上天皇(上皇)はまるで孝謙(称徳)天皇そっくりw みだらなことをしている等々噂が広まり、ついにその噂は禁裏にまで広がり、しまいには父母に呼び出され激しい叱責を受け、江玉真慶の出入りが禁じられるようにまで命じられました。



そんな時、彼女は、御所から一歩でも外へ出るときは京都所司代の許可を必要とし、寺社の参拝も代参、と幕府により制限されていた父御水尾上皇が出家し、法皇となり、外出や遠出の自由を手に入れていたことを知りました。彼女は一計を案じ、霊夢があったかのように振る舞い、十禅寺を探させることにしました。そして、その策略により十禅寺が見つかり、霊夢のお告げによって十禅寺は彼女の勅願所となったのでした。

女一宮は、十禅寺を頻繁に訪れ、天満宮と鐘楼を奉納するなどしていました。そして山本素軒に師事し、その教えを受けながら、渡唐天神の絵を描き十禅寺に献納しました。彼女は渡唐天神の絵を数多く描き、その作品を十禅寺をはじめとする神社や仏閣にも奉納しました。そして1683年、江玉真慶は天に召されました。




額字を寄進し、公武和合を祈念するなど、彼女は善行を重ねました。1695年、病に倒れた彼女は床に伏せ、江玉真慶の冥福を祈るため山本素軒に十禅寺の再興縁起を命じました。翌年、再興縁起絵巻が完成し、それを十禅寺に収めたのを見届けた2か月後、74歳で亡くなりました。女一宮の遺言により、彼女の遺品や幼少期から共に過ごした這子と天児も十禅寺に納められました。彼女の崇高な思いやりと慈愛が、最期まで十禅寺に寄り添ったように感じられます。




彼女が亡くなった後も、彼女は称徳女帝の再来などとの風評がいつまでも消えず、諡号についても称光院がふさわしいのではないかという意見が出されました。男性ならハーレムを築いても問題ないのに、女性がたった一人の男性を心に抱いただけで、その後も嘲笑されるなんて、酷いことですね。その関係が下劣なものではなく、女一宮の純粋な愛情に基づく輝く関係だった可能性もあるのに。周囲の妄想や偏見によって、彼女の心が誤解されたことは残念なことです。



これこそ女性差別の現れだと感じます。最近では、女性向けのセルフプレジャーアイテムやラブグッズが公然と売られているのを目にしますが、そうした状況の中で軽々しく「愛子様を天皇に!」とか言うのはどうかと思います。

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地域の記憶 - 松村輿三郎氏と地元有志の奮闘記


民家と民家の間には、まるで見逃してしまいそうなほどの細い小道がそっと広がっている。その細道を進むと、

琵琶琴元祖四宮大明神

四ノ宮泉水町広場ー史跡 目の神様ーと書かれた看板がひっそりと掲げられた場所に辿り着く。広場と聞くと広々とした場所を想像しがちですが、ここは山の麓にあって、とても小さな小さな一角だ。四宮大明神はかつて、徳林庵の境内社として大切に保たれていたようだ。昔は現在地よりも50メートルほど山のふもと北側に位置していましたが、明治時代の琵琶湖疏水の建設に伴い、四宮大明神は少し南に移され、徳林庵は街道沿いの六角屋根の山科地蔵の後ろに移され、そのまま放置されたようだ。



大正時代、鉄道の敷設に伴い、四宮大明神は一段と南に移され、今の場所で静かに佇んでいる。しかし、放置され、年月が経つにつれて衰退の兆候が見え始めた。そんな時、やましな飴の製造で財をなした地元の松村輿三郎氏が、大正4年(1915年)にその場所を発見した。彼は泉の石垣を修復し、清掃を行い、かつての栄光を取り戻すために人康親王を祀る祠を再建した。

しかし、後に再び放置され、荒れ果てていたところを地元の有志さんたちが祠を修理し、境内を清掃した。そして平成27年(2015年)、この場所は天台寺門宗総本山である三井寺に寄進され、今では三井寺の境内地として大切に守られている。


琵琶琴元祖四宮大明神

看板の矢印が示す方向にある、祠の奥右側には、人康親王ゆかりの泉である「御足摺池」がある。伝承によれば、人康親王が目を患い、悲しみに暮れながら山荘の庭で足をなでたところ、涙と共に泉が湧き出たとされている。この御足摺池は名前の通り、泉というよりも直径7~8メートルほどの大きな石垣で囲まれた池だった。鯉や亀など様々な生き物が生息し、生命を育む場としても知られていた。

しかし、周辺の工事が何度も行われ、その泉は消え去り、今では小さな泉の面影しか残されていません。それでも、わずかながらでも今も水は湧き出ている。この泉は泉水町の名前の由来ともなっている。その美しい姿が保存されないまま失われたことは、非常に残念だ。


琵琶琴元祖四宮大明神

琵琶・琴の祖として尊ばれる四宮大明神は、人康親王の霊を讃える神聖な場所だ。その祠には格子戸があり、修験道の祖である役行者の石像も静かに佇んでいる。

ここには人康親王の山荘の庭園にあったいくつかの石が残されている。また、四宮大明神の祠の隣には、大正時代に松村輿三郎氏が再興した際に、諸羽山や近隣の山々にあったお地蔵様をまとめて祀った場所がある。その中には鎌倉時代に作られたお地蔵様も含まれている。

琵琶琴元祖四宮大明神

どこからお金を容れたらいいのだろう???と迷ってしまう浄財入れもあった。

土地開発が進む中、物事は混沌としていた。人々の記憶が風化し、歴史的な場所ですら消えゆくかのようだった。しかし、泉や祠を整備し、後世に残すために努力した松村輿三郎氏の尽力には感動を覚える。このような用途に対してお金を使いたい、と考えた。

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地獄からの生還ー詩人、彫刻家、政治家: 小野篁の不朽の遺産ー


小野篁はまさに多彩な才能を抱えた人物だった。その弓馬の腕前や武芸の才能、政務能力の高さ、そして天下を驚かせた詩才や書道の秀でた能力。彼は古代政権において蔵人や東宮学士などの要職に就き、その重要な役割を果たしてきた。また、遣唐副使にも任命されが、2度の唐への航海は失敗に終わった。そして3度目の航海では、遣唐大使である藤原常嗣の考え方に対し反対し、彼の行動を非難して船に乗らないという大胆な行動をとった豪胆な人物でもある。


嵯峨上皇の激しい怒りによって、小野篁は地位を剥奪され、隠岐島へ追放された。しかし、彼は赦免を願いつつ、仏像を彫りながら、島の人々に愛される存在となった。しかもその魅力で多くの女性にも愛され複数の女性と恋仲になったりもしていたようだ。隠岐島で流罪の身でありながら、彼の豪胆さが際立っていますね。



そしてある時、彼は大病に倒れ、死の淵に立たされた。その際、彼は地獄の猛火の中で苦しみに喘ぐ人々を救う僧侶の姿を見た。驚くべきことに、その僧侶こそが地蔵菩薩だったといわれている。地獄の苦しみや自らの経験を人々に伝えるよう地蔵菩薩からの使命を受け、そして奇跡的に生還した。回復した後、小野篁は木幡山の桜の大木を用いて六体の地蔵菩薩を彫り上げた。

流罪となったのは838年のことだったが、840年には赦免されて都に戻り、その後も再び重要な役職に就き、最後まで活躍し続けた。小野篁の人生はまさに天命に導かれたものであり、彼の存在はこの世において特別な意味を持っていたのだと感じずにはいられない。





また、この一帯はかつて人康親王の領地だった。人康親王は2月17日に亡くなりましたが、その死を偲んで、毎年2月16日には近隣の四ノ宮川の河原に当道たちが集い特別な儀式が行われた。彼らは河原の石を集め、琵琶石の上に積み上げ、そして1万巻の心経を唱える儀式を行った。その中で琵琶を奏でながら、催馬楽を歌ったりもした。また、四ノ宮川手前の街道には、六角堂が建てられた。今では徳林庵の門前に位置している。



旧東海道(三条通)沿いにあるのは、1550年に創建された徳林庵である。このお寺は南禅寺の雲英正怡禅師が、尊い先祖である人康親王を弔うために建立した。この場所は山科地蔵や四ノ宮地蔵とも呼ばれている。


ここには、非常に大切にされている地蔵菩薩が祀られている。それは小野篁によって彫られた6体の地蔵菩薩のうちの一つである。街道の出入り口六か所(大善寺の伏見地蔵、浄禅寺の鳥羽地蔵、地蔵寺の桂地蔵、源光寺の常盤地蔵、上善寺の鞍馬口地蔵、徳林寺の山科地蔵)には、小野篁が彫刻した地蔵菩薩像がそれぞれ一体ずつ置かれている。1157年、京で疫病が流行した際、御白河天皇の勅命により、平清盛や西行法師が地蔵菩薩像を分置した歴史がある。


徳林庵 人康親王御墓


六角堂の奥には、六体の尊い地蔵様が整然と祀られている。これらの地蔵は、仏教の六道輪廻のそれぞれに対応し、人々を救済するとされている。琵琶法師たちが尊ぶ聖地なだけあって、一番右に立つ地蔵様は手に琵琶を抱えている。琵琶を奏でる地蔵様は、人康親王の魂を偲ばせるかのように、静かに佇んでいる。



昔、旧東海道は京都と関東を結ぶ交通の中心地で賑わいを見せ、山科地蔵は旅人たちの安息の場だった。ポンプ式の井戸が現存しており、荷馬のために石で作られた水飲み場も設けられていた。この地に立つと、その当時の光景が今もなおありありと思い浮かんでくる。

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石造りの愛らしい守り神たちー狛犬と人々のほのぼのエピソードー


人康親王の山荘跡のそばにある諸刃神社、もしくは同じ敷地にあると言った方がピッタリかな。とにかく、この神社の大鳥居は、実際の神社から数分離れた場所に立っている。今では大鳥居の中から始まり、人康親王の山荘跡として保存されているところギリギリ、諸刃神社境内ぎりぎりまで民家がぎっしりと建ち並んでいる。

諸刃神社


諸刃神社

でも、周囲には民家が建っているけれど、ひっそりとしていて人通りもほとんどない。でもね、この辺りってもしかしたら治安が悪いのかしら? たとえばこの看板、「この水は飲めません」って書いてあるのは、山から流れる湧き水で安全♫だと思って飲んでしまう人がいるのかもしれないですね。



さてさて、狛犬さんを見るのも楽しいですね。狛犬さんはもともとは屋内で雨に濡れないように飾られていましたが、室町時代末期から次第に屋外にでてくるようになり、江戸時代になると今のような姿で神社を守る存在になった。

狛犬はもともとは古代オリエントの獅子が日本に伝わった物。平安時代に宮中の調度品として御帳台の前に置かれていたが次第に寺院や神社の境内にも置かれるようになった。日本に伝わった時は金属製だったのが、木彫り製となり、鎌倉時代には陶製、江戸時代になって今のような石造りの狛犬となった。

諸刃神社

平安時代末期、獅子・狛犬ブームとなり、金属製のものを作るのが大変になったみたい。仏師たちが木彫りで獅子・狛犬を量産した。最初は、獅子と狛犬だったんですね。獅子は角があって色も違ったみたいだが、次第に角がなくなって、今では阿吽の2つの狛犬さんスタイルが主流になっている。日本には獅子がいなのだからしゃーないよね。

狛犬さんたちは神社や寺院の境内に飾られて、風雨にたえられるよう素材は木製ではなく石製となった。



諸刃神社の狛犬さんはゴージャスな巻き毛と堂々とした体躯、そして愛嬌のある可愛らしい姿が特徴である。特にこれ!と言った決まりがないから、神社に行くとそれぞれの狛犬さんを見るのが楽しい♪ 狛犬ではなく神社の由緒にそった狐さんやイノシシさんやウサギさんなどが狛犬さんの代わりをしていることもあって興味が尽きない。

諸刃神社


諸刃神社

でもね、さっき治安が悪いのかしら?と心配したのは、こういうところ。柄杓で犬さんとかにお水を上げる人がいるみたいだし。

それだけではなく、砂利道を自転車でこいでいく人もいるようで、砂利の上ってけっこう乗りにくいように思うのですが、きっと運転がうまいのでしょうね・・・。

諸刃神社


はっきりしたことはわかっていないが、諸刃神社の創建は862年。しかし、応仁の乱からはじまり3度の火災で社殿ほか古記録のほとんどが焼失している。19世紀中ごろに造られたという社殿には、色付きの龍なども飾り彫られており小さいながらも落ち着く素敵な神社だった。

人康親王が座って琵琶を弾いたと伝わる琵琶石も置いてあった。

諸刃神社

社殿前に飾られている狛犬さんも同じように可愛らしい♪ 後ろから見るとやはり尻尾がすごい!



治安が悪いのではないのかしら?と言ったのには、もう一つ理由がある。最寄りの地下鉄駅ですが、どうやら自転車に乗ったままスロープをくだる人がいるようです。

駅

駅

なっ、なんかこの辺り怖いんですけどーーーーーー! っていうか、自転車でこんな細い急なところを乗って下って行くって、しかも一番下で人と衝突する危険もあるのにもか関わらず・・・・っということなどから、余程、自転車の乗りこなし技術が凄い人が多い地域だということもわかった。その自転車テク、まるで、湘南爆走族2代目リーダーとしてスカウトされる時の江口洋助君みたいじゃないっすかー! わかるかな?(笑)

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失われた視界、照らされた心― 人康親王の音楽と慈愛の軌跡ー


平安時代前期、第58代仁明天皇の第四皇子、人康親王。彼は学問と和楽器の才に恵まれ、多くの親王や貴族など身分の高い家柄の青少年(=公達) たちに尊敬された存在だった。彼の元には、多くの公達たちが訪ねてきて教えを請うたという。


輝かしい非凡な才能をもち、さらに人からも慕われるという人康親王だったが、なんと、28歳の時に、両目を患い盲目となってしまった。彼の人生は一変した。学問好きだったのにもう書物を読むこともできず、どれほどの絶望の中にあったことだろう。

人康親王山荘跡


それでも人康親王は、出家し、法性禅師として新たな人生を歩み始めた。公達たちとの交流を絶ち、隠棲生活を選んだ。しかし、京都や大阪の盲人たちを集め、管弦や詩歌を教え共に奏でたり、自分の所領米や持ち物を分け与える優しさを持ち続けた。

人康親王の人生はまるで感動的な音楽のような旅だったように感じられる。彼の輝かしい才能と人々の尊敬を集める姿、そして盲目になった後も自らの道を切り拓いた勇気には、ただただ感嘆せざるを得ない。



ここは、人康親王が隠棲し静かな山荘で暮らした場所。今は静寂と緑に包まれた公園となっている。山科宮と呼ばれたその場所は、当時、川や滝なども流れ大自然を模した風情溢れる山荘だったと伝えられている。

人康親王山荘跡


山荘での静かな生活、そして最期の時には、琵琶法師たちが心を込めて演奏し、人康親王はその美しい調べに包まれながら穏やかに旅立ったという光景。人康親王の旅立ちが、まるで音楽の調べが天に届くような美しい物語のように感じられる。彼の偉大なる魂が、琵琶の音色と共に穏やかな永遠へと還っていった光景は、心に深く響くものだ。まるで天と地が調和するような美しい絵画のようである。

人康親王は40代初めの歳でこの世を去った。琵琶法師たちが愛情と感謝を込めて彼を送り出した姿は、まさに絶え間ない友情と尊敬の証であり、その一瞬が永遠に語り継がれるだろう。彼らの音楽が、不滅の絆を紡ぎ、最期の瞬間まで心を満たし続けたことだろう。


さらに、彼の死後、母である藤原澤子氏は彼を支えた者たちに検校(=盲人の最上級の官位) や匂当の官位を与え、琵琶・三弦・箏  ・鍼灸などの技術を庇護し職業を占有させた。これを当道という。当道座の官位は、検校・別当・匂当・座頭である。

人康親王山荘跡


彼の盲目になった運命には、天の意志を感じずにはいられない。彼は特別な使命を背負い、高貴な身分を持ちながらも、盲人たちを支え、生活の保護をした。それがなければ、彼らに公的な支援は得られなかっただろう。


人康親王の人柄に心打たれます。彼の偉大さと人々への尽力に思いを馳せ、感慨深い気持ちに包まれた。彼の山荘を訪れ、その場に立つことができて、感慨無量である。

人康親王山荘跡

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いつも仕事を頑張っています。筋トレや楽器をひいたり、史跡巡りと自然を楽しんでいます。あと、読書も好きです。仲良くしてください。よろしく!

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