正木坂陣屋跡


近頃はこの柳生地区、天乃石立神社の柳生一刀石 が、アニメ ”鬼滅の刃”の名シーンを再現するのに最適♪ っと コスプレイヤーたちに一躍脚光を浴びているようだ。なのに柳生の方々は、先人の名を使い柳生観光で積極的に金儲けしてやるぞ(*`▽´*)ウヒョヒョ とかはあまり思っていないような印象。

綺麗に手入れされているのにほぼすべての史跡が無料で見れるだけでなく、先日行った芳徳寺でも入り口に拝観料入れる箱が置いて有るだけで完璧人を信じているし、神社の賽銭泥棒なんかもいる世の中では見ているこっちの方が心配になってくるくらいだ。

みたところあまりお店も無いんですよね。柳生茶屋とか十兵衛食堂とかあるんですが開いてなかったしなぁ。あっ、あまりの早朝にちょろちょろ移動してる私が悪いんか(^^; ”柳生殿様めし” とか食べたい(笑)

心が美しい人の住む所とは、こんなん↓ 太陽に見られて困る事はしない!そういうところ。

柳生陣屋跡


ここ↓は、愛洲移香斎の陰流 の流れをくむ上泉信綱から新陰流を学んだ柳生新陰流創始者の柳生宗厳(石舟斎)の5男にして徳川家兵法指南となった柳生宗矩が建てた正木坂陣屋の跡地。

柳生陣屋跡


1641年に宗矩がこの正木坂陣屋の建立を始めた頃は、ちょうど厳しい築城禁止の時で、屋敷替や石垣が立派過ぎるとか表門の造りがどうのこうのとあらぬ風聞がたち老中から尋問を受けるほどだった。ならばと、素直に 竹の枝折門に造り直し1642年に一応の完成をみ、1644年に書院も竣工した。

柳生陣屋跡


1643年と1645年秋には宗矩が大和の柳生屋敷でのんびり暮らした記述が残っている。春と秋には近郷近在の郷士、僧侶、農商人まで呼んで申楽を開催し見物させ珍膳をふるまい、1月1日から9日までは家臣たちと闘鶏に興じたりもしていて、まぁ一言で言うとリア充ですわな。剣だけでなく風雅の道にも詳しくその分野のお友達も沢山いて諸大名家へもよく出入りしてたり。

柳生陣屋跡


宗矩とよく対比される宮本武蔵とは同じ剣豪とは言え生まれ育ちもそうだしまるで違う生き方だなぁ。チャンスを活かし売り込んで政権中枢に入り多くの人々と家族子孫に囲まれて賑やかに過ごす宗矩。霊巌洞にこもり書物を執筆したり、禅に没頭したり、木彫りをしてみたり、ひたすら内に向かう武蔵。

柳生陣屋跡

その後、柳生藩3代目宗冬が増改築したが、7代目俊峯の代の時1747年12月10日の夜に発火し全焼。復興にとりかかったものの完成をみることなく明治維新となり、明治6年には奈良県によってこの大和正木坂陣屋の建物石垣の一切を競売にかけられ売却されてしまった。

さきほどの坂を下りてぐるっと道に沿って歩いて2分くらいでしょうか、正木坂陣屋へのもう一つの入り口↓がある。ダッシュで駆け上っていくのにちょうどいい階段。頂上までのぼりきると上でさっきのところとつながっている。今は史跡公園としてこうして跡地が大切に保存されているのが嬉しい。柳生って良い所だわ~。「十兵衛が好きでさぁ、来るの夢だったんだ」 っと嬉しそうに語る60代後半くらいのリュックを背負い帽子をかぶった男性もいた(笑)

柳生陣屋跡

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伊賀上野城


ここはむか~し、伊賀衆の結集の場であり、無量寿福寺(下神戸)や大光寺(寺田) などと共に、”伊賀惣国一揆” 同盟を結んだ土豪らの評定所だった地で、織田信長の伊賀侵攻時に伊賀衆の評定軍議が行われた地。ここには平楽寺と薬師寺の2つのお寺を東西に建てた大寺院があったが、1581年、織田信長軍の侵攻により焼き払われ破壊された。

その後、伊勢国主織田信夫(信長次男)家臣で伊賀国守護となった滝川雄利が砦を築き支配。砦ですからね~砦。

伊賀上野城2020

そして、1585年、豊臣秀吉家臣 筒井定次が、大和郡山城から移封となり伊賀上野城を築城。

ここ↓は ”城代役所跡”なんだけどもこんな親切なお城、初めて見た気がする。こんな風↓に ちょうどこの場所は ”居間周辺” ですよ~。とか ”長屋群” のあった所ですよ~、ここは ”広間” ここは ”次書院” っと看板や地面直付けのプレート等で説明されていて非常に分かり易い!! おっーーー!!ここがーーー!!みたいな感じでよく分かるわ~。

伊賀上野城2020


筒井順慶の養子となった筒井定次は、信長の死後は人質として大阪城に赴き、順慶35歳で死去すると家督を継ぎ大和郡山城主となってからも数々の戦いで奮戦。伊賀上野に移封後も得意の軍学を武器に大阪城を守るための城として伊賀上野城を築城し、この上野の地を整備した。筒井定次の評判は地元では今なお高く慕われている。ただ家臣の中坊秀祐がなぁ。。。。

中坊秀祐と灌漑用水を巡って争った島左近はじめ数々の重臣が筒井家から離反。中坊秀祐を封じる事が出来ず有能で忠実な島左近らがこぞって離反するということは筒井定次がその器ではなかったとも言えるが。。。

伊賀上野城2020

有力家臣団がごっそり筒井家から去った後、城主である筒井定次も家臣である中坊秀祐に はめられる形で徳川家康により改易となり、挙句の果てには切腹を命じられ自害させられている。筒井家をひっちゃかめっちゃかにした中坊秀祐ご本人はその後 ちゃっかり取り立てられているんですがねぇ。。。いますよねーこーゆー人物 (-_-)ウーム

伊賀上野城2020

ここ↑が ”台所門跡” ここにもやはり ”柴小屋” とか ”米蔵” とか ”塩噌蔵” とか各場所にプレートが付けられていてイメージわくレベルが他のお城よりも違い過ぎるわ~。ここがっ!!みたいな。こんな風にここ↓は ”裏門” があった場所か~って誰にでも分かるようにしてあるところが凄い!

伊賀上野城2020

筒井家改易後の1608年、藤堂高虎が伊賀,伊勢の領主として、伊予今治城から伊賀上野城に入城。伊予から高虎を慕ってやってきた寺院工商の人達もいて伊賀、伊勢国にわけて住まわせたというほどの人望っぷり。築城の名手として名高い高虎だが、下調べも凄いんですね。では、忍者達を全国の百五十城に潜入させ構造調査した上で、大坂城を包囲する為の豊臣家討伐に備えた攻撃用の城として造り替えた伊賀上野城に入ってみよう。

伊賀上野城2020

高虎が秀吉から拝領した唐冠形兜をはじめ数々の鎧や兜、とにかくすっごい数。面具や喉輪、こういうの見てると本当に身体張って戦って命の奪い合いをして生きる時代だったんだなぁとおどろおどろしい。軍扇や羽織や駕籠や刀などなど当時の物が所狭しと陳列展示されている。で、伊賀って事で天井にはこのように↓忍者も! あっちの方にはピンクの忍者装束に身を包んだ くノ一 人形も壁をはっていましたよ~。遊び心があっていいですね~♪

伊賀上野城2020

2階にも展示物が沢山。錦絵や書や絵の掛け軸、巻物、陶器などを見た時は戦国時代終わったか~って感じでホッとしたんだけど、そこでいきなり現れたのが ”敵方の首級を包んだとされる母衣絹” という物。うわ~~、これで血だらけの首を包んで持ち帰って褒美をもらうために運んだのかぁ~~っと生々しかった。陣鍋なんかもありましたよぉ。

”大阪の陣の足軽などの行装についての覚書” とか ”贈り物への礼状” とかそんな巻物も広げて展示されていた。高虎仕様の膳部や蒔絵手箱とか家具調度品などなども展示されていて満足度高い。

伊賀上野城2020

これ↑は3階に展示されている天井絵巻。1612年の大暴風で倒壊した天守閣を川崎克氏が昭和10年に復興。天守閣竣成を祝い、横山大観や著名な画家、書家、政治家などから寄贈された46枚の書画。それぞれ1メートル四方紙なので結構大きいですね。細川護立や尾崎行雄の名が何故か頭に残った。理由は知らん。

ではいよいよクライマックス。危険地帯に行って見よう。危ないですからねーヤバイわー。

伊賀上野城2020

これ↓が高虎マジック! あーこれじゃぁ登れないわって見た瞬間思ってしまった。高虎は、西に巾30mの深い堀を作り、高さ30mの石垣を南北押し廻して築き、南北の両隅に櫓台を作り、筒井定次時代の本丸と合せて新本丸とし3倍の大きさに拡張。南に面して二つの出入口を開き、東は古き空堀とし、西側には、大坂城よりも見事!と記述される南北280mの大石垣を新しく築いた。これがそれ↓

伊賀上野城2020


座って景色を眺めるのにちょうど良い石♪

伊賀上野城2020


これお城の裏側なんだけども、この松↓凄い。地面すれすれを斜面に沿ってのびている。倒れているのではない、こういう生き方 (´ ▽`).。o

伊賀上野城2020


高虎は、天嶮ノ要害 ってことでこの伊賀上野城を根城とし、津城を交通の便を考慮し居城とした。何度でも訪れたい場所だ。

伊賀上野城2020


よいお城だった~。藤堂家家訓とか天井絵巻の写真つき説明本とかも販売されていて家訓集にはぐらっときましたね。

伊賀上野城2020

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密談その真意は??


いろいろな説もあるようだが。。。聖徳太子没後、山背大兄皇子(聖徳太子の息子)を攻め滅ぼした蘇我入鹿、蝦夷親子は更なる実権を誇るようになり、そんな世の中に疑問を持ち国家の理想像を強烈に思い描くようになった中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、飛鳥の法興寺で開催される蹴鞠会で19歳の中大兄皇子(後の天智天皇)が参加する情報を入手し自身も参加。

中大兄皇子の靴が脱げ毬と共に転がった靴を一早く拾い掌に置いて捧げた中臣鎌足。丁寧に礼をのべ敬して受けた中大兄皇子。2人は意気投合し(ダメだ、詐欺師がよくやる手法だよね、とか思ってしまう私は心が穢れているかも)645年5月、この多武峰の山中にて二人で大化の改新の密談を行うにいたる。

談合神社2020年

ここでその密談が行われたのか。。。故にこの山は、”談い山”とか ”談所ヶ森” と呼ばれるようになった。桜や紅葉の季節は絶景で関西の日光と呼ばれるほど美しい噂だが今はこんな感じ。早朝のスケジュール後、折角なので近くにあるこの談山神社に来てみたのだが、怖いくらいの真っ暗の山中の細い道を通り辿り着きようやっと日が昇り明るくなったところ。誰もいませんよ~。あの円柱型赤ポストと電話ボックスが昭和時代にタイムスリップしたかのような錯覚誘発。

談合神社2020年

ここでの中臣鎌足と中大兄皇子の談合により、蘇我入鹿を一か月後に暗殺することに決定。その一ヶ月の間に、蘇我入鹿、蝦夷に不満を抱く蘇我倉山田石川麻呂(蘇我馬子の孫)を同志に加えるなどして仲間を増やしていった。

645年6月、中大兄皇子は、三韓進調の儀を飛鳥板蓋宮で行うと公言し、百済からの上表文を読む役割を演じる蘇我倉山田石川麻呂の読唱中に蘇我入鹿を斬り殺した。翌日には蘇我蝦夷は家に火を放ち自決。

この談山神社の拝殿には、刀を振り上げ襲い掛かる中大兄皇子と、弓を構え動きを制する中臣鎌足、そして蘇我入鹿の首が飛ぶ様子が描かれた蘇我入鹿暗殺シーン ”多武峯縁起絵巻”が展示されている。んんー。。。

この働きにより蘇我本家に代わって分家の蘇我倉家が重用されるようになったが、蘇我倉山田石川麻呂は異母弟日向の讒言によって謀反者とされ自決に追い込まれる。死後、彼の身の潔白が証明され、讒言した日向は筑紫に追放されている。

利用され用済みになったので死に追い込まれた蘇我倉山田石川麻呂、邪魔者の日向も追い出し上手く唆し諮り蘇我氏一族同士討ちに成功したとしか思えない中臣鎌足と中大兄皇子、黒々とした何かを感じてしまう私なのであった。

談合神社2020年

中臣鎌足の死後、唐から帰国した長男の定慧和尚が678年、この地にお墓を移し十三重塔を建立。680年に拝殿と講堂が建立されて ”妙楽寺” と号された。701年には、神殿が創建され藤原鎌足の木像を祀り、後に本尊として釈迦三尊像が安置され大化の改新発祥の地、として今に至る。神仏分離令の発令により廃仏毀釈によって神社となった。

この↑談山神社と刻まれた石柱の隣辺にある大木、御神木なんかいな~。身が引き締まるような感じ。素敵な神社だ。そして鳥居のもっと先の入り口に設置されている手水舎は流水が龍の口から流れ出る素敵な造り。浄めさせていただきましたー。可愛い龍ちゃんだわ〜っと思い感動しながら中に進もうとしたら。。。

談合神社2020年

はい! 早朝過ぎて無理ーーーーー! 後1時間ちょい待てば正々堂々、鳥居をくぐる事が出来るだろう。拝観料を受付台に置き勝手に入って参拝と見学をする事もチラッと脳裡に浮かんだがバチが当たりそうに思え即却下。あの入り口の大木はきっとすべてを見ている(; ̄ー ̄川 で、帰りましたよ~~ww なんかここまででもうお腹いっぱいな感じ。ここまでですっごい変な満足感がある神社だ。

そういえば、鎌足の聖霊がこの地に降神して以降は、国家・藤原氏に異変が生じる時、藤原鎌足氏のお墓である御破裂山が鳴動し神像に亀裂が入り時には異光を発し、その光は三笠山まで至ったという伝承がある。その数なんと35回!まで記録がある。

談合神社2020年

国指定の重要文化財がわんさかあり、鎌足の墓塔である日本唯一の木造十三重塔(高さ17m)が現存している。春秋には、古式ゆかしいけまり祭が行われていたりもするし、予約が必要だが けまり体験 もさせてもらえるようだ。まっ、もっとも拝観時間外に来たら入るのも躊躇われ けまり体験どころか鳥居すら通れないが(--; って事で、下山。

談合神社2020年

この石垣やこの道は当時のままのようだ、ここ通ったんだぁ。。なんか感動する~。と、言うのも、この談山神社は、藤原氏の菩提寺である興福寺とは宗派が違うという事で仲が悪く、焼き討ちにあったりもしてて、その後も更なる焼き討ちや戦乱の舞台として存在し続け、落ち着いたのは徳川の世になってから。権力の奪い合いとか本当嫌だわ〜。宗派が違うと争うのも変くない? 宗派や宗教は違えども、神という存在を信じている、よりよく生きる事を求めている仲間、同志のはずなのに。

かなり下った所に保存されている談山神社東大門。社寺の表門に城郭風の門が用いられた数少ない遺構の一つとして貴重なもの。今は談山神社の向いや隣にも家や御店が建ち並んでいるがこの辺りから一体がその境内だったんだなぁ。もう実物見ると感動しまくりの門ですわ〜。

談合神社2020年

しかし、乙巳の変、応仁の乱の後、唐から帰国した留学生らと共に天皇を中心とした新しい国づくりを行ったということで ”改新の詔”なども発令されてるが。。。。

天智天皇は、我が子可愛さに継承順位を故意に変えようとし、弟を追い出したりして、中臣鎌足と共に抱いた ”正しい国家の在り方” の理想とらはどこへいってしまったのだろうか? その理想の為に蘇我一族をぶち殺したのに結局は、私利私欲、己が権力を握り好き放題したかっただけの結果になったように思えてしまってならない。

又、中臣鎌足(後の藤原鎌足)も、蘇我親子が実権を持ちほしいがままに世を操るのに疑問と不満と危機感を持ち中大兄皇子を煽って乙巳の変に持ち込んだのに結局は、藤原一族が蘇我氏と同様に実権を持ち好き勝手出来る世を作るべく奔走し支配を満喫するようになり、結局のところ、鎌足が蘇我氏に抱いた想いは全くの己の投影であり、同族嫌悪みたいなものだったのではないか、と思えてしまうのが残念なところだ。自分もあーやって権力握りてぇーーー!みたいな。ご本人と会ったことすらないのにホント好き勝手言って申し訳ないですが、

後々も藤原一族が真に国家国民の事を考える一族だったなら国にとって有用な人物を死に追い込むなどしない。私利私欲極まれり。結局は己が権力を握りたいって事なんだろか。そう感じるのはそれこそ私の心の闇なのだろうか?(--; まぁもっとも自分が権力握るのが正しい国家のあり方♪あいつが権力握ってるのは正しくない!って事だったのかもしれんしな。。。とそこまで思うのはやはり私に問題があるのか。。。

談合神社2020年

この素敵な橋↑は、昔から談山神社の参道に架かっていた ”屋形橋” の名で親しまれてきた神社の神域入口に架かる橋で、昭和54年に再建されたもの。本居宣長も書き記している橋だ。えっーーー、この橋、渡ったんですかー!きゃぁ~♪って思うほど素敵にそして再建とは思えないほど年代物のように見えるその橋造りテクも感動的。川の水はとっても綺麗。

談合神社2020年

今度はちゃんと時間をとって拝観可能な時間に来たいとも思うが、しかしその一方で、これだけでももうお腹いっぱい胸いっぱいなくらいに感動的で満足しちゃった不思議。もう十分堪能しました~感が凄い。拝観したらもう何もかもがいっぱいいっぱいになっちゃうかも~。かえってここまででラッキーだった気がする満足感。これは一体なんだろう。

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源之丞


大阪の陣で2代将軍徳川秀忠を守り7人の敵を瞬時に斬り、柳生新陰流の名を世に轟かせた柳生丹馬守宗矩。宗矩臨終時の希望により、1638年に開基した柳生家代々の菩提寺 に向かう橋↓ 素敵な橋なんですわ。下を流れる川の水も澄んでいてとても綺麗! 今は杉が植林されているけれども、嘗てこの古楓橋から芳徳寺へのぼる坂の途中には柳生石舟斎の屋敷があった。

神護山芳徳寺


んん~、なんかしびれる~(*ฅ́˘ฅ̀*)♡ 剣を携えこの道、通っていたのかと思うと感動。落ち葉に埋もれた下には石畳が残っている。

神護山芳徳寺


柳生石舟斎の屋敷の離れには、石舟斎をもまた十兵衛をもしのぐほどの剣の使い手とも言われた柳生源之丞が2年ほど暮らしていた。柳生源之丞は石舟斎の4男、柳生五郎右衛門宗章の子だが、柳生家の記述、系図には載らず抹消されている(((º▽º ;;) 柳生の地の者に語り継がれている人物でそれ故にこの辺りは源太夫屋敷と呼ばれている。何があったーーーー!!って感じなのだが。。。。ここでは私がなんか好きで気になってしまう源之丞について語ろう。

父柳生五郎右衛門宗章が廻国修行中に出来た子である源之丞は、母親が病死したことにより10歳で初めて父宗章と対面。剣の指南を父から受け天才的に上達した源之丞。父宗章の主君であった備前岡山城主の小早川秀秋が没し小早川家が廃絶。その後、父子で身を寄せた横田内膳が、主君である伯耆国米子城主中村忠一の手の者により殺される。

中村側と横田家一族郎党との戦いが起こり、忠実で義理深い父宗章は横田家の一員として奮戦し壮絶死を遂げる。戦いの前夜、宗章は息子源之丞(17歳)を柳生石舟斎の元に逃がした。

石舟斎に天才と言わしめるほどの剣の才を持つ源之丞は、石舟斎から徹底的な指導を施され型を矯正された。石舟斎の教えにそむき奈良市に出向いた事やイチャモンをつけてきた坂崎伴内をやむなく斬り殺した事が石舟斎にバレ勘当される。執拗に命を狙いにくる裏柳生を倒し剣の腕を更に上げながら母の故郷若狭小浜に到着。春がくる頃、石舟斎から密命を受けた柳生兵庫助利厳と剣を合わせ、「柳生の剣ではなく独自の進化を遂げた剣なので殺す必要無」 と許され、その後の源之丞の消息は定かでない。新流派を立ち上げたとか山伏になったとか何とかかんとか。

活人剣をもろ実践する柳生兵庫助利厳は格好良すぎてたまらんが(*´˘`*)♡ 柳生源之丞もな~んか好きなんですわ~。祖父石舟斎とは相容れず憎しみの念すらむけられていたような気もする源之丞だが、父親には間違いなく愛されていたと確信できるところが救われる気がする。あまりにも卓越した剣の腕を持つ源之丞の身を父親は早くから案じてもいた。

神護山芳徳寺


これ↓が柳生家代々の菩提寺である神護山芳徳寺。以前から宗矩と深い親交があった沢庵宗彭が神護山芳徳寺と命名し開山。宗矩の遺言で4男六丸(11歳)は、京都紫野の大徳寺の天佑和尚の弟子となり、その後、柳生家菩提寺芳徳寺の第一世座主となり列堂と号した。良い話だわ~って感じなのだが。。。。実際の列堂は、「手にあまれば押し込めるなりうち捨てるなりいたせ」 と江戸柳生当主宗冬が遺言状にしたためるほど荒れた生活を送っていて朝夕の看経すらしなかったという(--; ビビる。。。

神護山芳徳寺

後醍醐天皇を笠置山に迎えてからは朝廷の間諜として働き、家康の兵法指南役となってからは徳川家の諜者としての役目もはたしてきた江戸宗家だが、44歳の柳生列堂は芳徳寺を飛び出し柳生谷に根城を構え、その江戸宗家を脅かすほどの勢力の柳生忍群を組織。世に聞く裏柳生とは実はこの事だとか。ちょっと悪っぽいところがなんか格好良い気もするが、しかし・・・坊さ~んヽ(´~`; ォィォィ 煮えたぎり燃え盛る留める事の出来ない流れる剣の血が溢れだしてしまったのだろうか。

拝観料一人200円。門入り口にあるお賽銭箱に入れてから門をくぐる仕組み。これはいつ頃、作られた看板なのだろう。相当の年代物だ。

神護山芳徳寺

この看板から左に行き建物に添うように歩いて行くと、”歴代住職塔所” とそこから更に下に坂をくだった正面には ”柳生家墓所” がある。柳生家のお墓80数基がたちならぶ ”柳生家墓所” は何か感動的だった。本当の昔の昔の古いお墓ってこういうのなんだぁ。。って実に壮観。深い時の流れを感じた。墓石の一つ一つも墓所を囲む土壁の崩れ具合も風化して傾いて削れた瓦屋根もただただ圧巻。

先ほどの看板の所に戻り看板から右手に行くと芳徳寺本堂の資料室がある。戸が開け放たれていて自由に入れる。これが凄い充実度だった。

神護山芳徳寺


甲冑鎧、柳生藩札、柳生藩印、柳生宗冬の刀も展示されてた! 5巻の印籠巻物とかもう本当に年代物で広げて見たい衝動にかられましたね。柳生新陰流竹刀や柳生杖、短冊 掛け軸などの他、血判つき柳生藩一般稽古人起請文とかマジで血ついてるんですわ~、あとは広げた巻物には柳生新陰流の型、身体の構えなどの図解入りのもあって見入ってしまった。あ~感動的だわ~。

こちら↓お堂には、”列堂和尚木像” ”沢庵宗彭禅師木像” ”柳生但馬守宗矩公木像” が鎮座していてみることができる。廊下には古い年代物の木札に ”無言” と書かれている。厳粛な気持ちになる。沢庵和尚はかなり頓智の効いた人って印象なのだが、列堂和尚の真実は如何に!? マジで裏番ならぬ裏柳生の暴れん坊だったんですか~い? 格好良いけどさ。

神護山芳徳寺

激動の時代を生き、日本国の礎を築いた先人たちに合掌。

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本薬師寺跡


壬申の乱で勝ち673年に即位された天武天皇が680年、皇后(後の持統天皇)の病気平癒祈願の為に薬師如来を本尊とする薬師寺の建造を始め、686年、天武天皇が崩御されたことで、持統天皇が建造を引き継ぎ文武天皇の時代についに完成!!した本薬師寺跡に来てみた。が。。。。

本薬師寺跡2020


どうやら撮影スポットだったようだ。大和三山( 香具山・畝傍山・耳成山)に囲まれた地の上、時期が時期なら一面にお花が咲き誇るのとの事で山を背景に写すとさぞかし美しいのだろう。なのにこんな写真でスンマセン(^^; しかしどうやら私のパソコンはヤバイ奴のようで、”さぞかし” とキーボードを打ったら ”誘餓死” と変換されたw 一体どーゆー事???

本薬赤いコーンとか置いて有るあの師寺跡2020


しかし今はこの季節。な~~んにもお花など咲いとらんわ。このとーり↑ で、特別史跡に指定されているんですがぁ、この畑らしきあたりも本薬師寺跡で藤原京の一等地に築かれた大寺院だったんですよね。あの向こうの空き地、って言っちゃぁなんだが赤いコーンとか置いて有るあの場所に看板が出てましてね、あー本薬師寺跡なんだわ~って分かるんですわ。お花の季節だったら写真家さんとかの駐車場になっているのかな?

本薬師寺跡2020


藤原京以前の寺院で正門の状況が分かる例は非常に少ないとの事なんですが、本薬師寺正門にあたる南門が地下に遺存している事が去年秋に発掘により確認されたんですね。中央に金堂、その手前に左右対称の東塔と西塔があって、門の両側から回廊が全てを四角く囲むように金堂の後ろにある講堂の両側に続いている。こんな感じ↑ 講堂があった辺りは、今現在は家々が建ち並ぶ為、発掘はなかなか出来ない状況。

本薬師寺跡2020


持統天皇時代の688年には本尊が完成されていたとか、697年に薬師三尊像の開眼供養がなされたとか、698年にはほぼ完成されていたとか何だかいろいろ諸説ある藤原京の薬師寺の跡地。金堂土壇の上に残された巨大な礎石↑ 立派な石でしたわ~。

本薬師寺跡2020


平城京への遷都に伴い伽藍は本薬師寺から平城京薬師寺に移築されたとか、伽藍配置が全く同じ薬師寺が西ノ京に建造されたとか諸説あるが、西ノ京にまるで同じ薬師寺が出来て以来、ここは本薬師寺と呼ばれるようになったそうな。

藤原不比等のハングリーさは嫌いではないが、しかし彼の絵図に元明天皇(女帝)がのらなければ藤原京遷都17年後に平城京遷都をし国力を民を疲弊させることも、興福寺を隆盛させ藤原家の力を天下に見せつける事も、もしかしたら長屋王の悲劇もなかったかもしれない。

平城京遷都につき藤原京の建造物などが移築や分解され運ばれもぬけの殻となったこの地に旧都藤原京の守り役である留守司として残された人物がいる。

壬申の乱で大友皇子側の忠臣として最後まで付き従ったが許され天武天皇から元正天皇の治世でも重用された石上朝臣麻呂だ。

藤原不比等との政権争いでは位は上だったものの実権は不比等側が握り旧都に残され負けたということなのだろうが、しかし当時78歳とかなりの長命で天寿を全うし、民百姓から慕われ、朝政を中断し元正天皇が長屋王らを駆けつけさせたことから人に好かれる人徳ある人物だったのだろう。私もなんかこの人、好きだ。。

ひたすら出世街道を駆け抜け最高位を手にしそして晩年が綺麗。

蘇我氏に敗れ没落した物部氏の子孫が下級官人から最高位にのぼりつめ人に慕われながら古都を守り天寿を全うする物部氏残党出世物語。


本薬師寺跡2020

石が見れたから想像に拍車がかかり楽しめたけどな~んもなかったな。

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ブログタイトルのあまりのヘボさに我ながら辟易していますwヘボいブログタイトルの大壁を乗り越えご訪問いただく方々を尊敬しています。いつもありがとうございます。

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