時の流れを感じた


近鉄古市駅の辺りは古墳が多い。そして、駅から徒歩10分ほどのところには ”旧石器人のアトリエ” という、えっ、何何?? っと想像力たくましくなってしまうお洒落な名称の地がある。それがここである。到着した瞬間に、えっ? と一瞬なった。だってぇ、手前の植木を見てみてくださいよぉ。この木↓がアトリエ???? んん? ただ生えてるだけやん、アトリエ???  疑問がわきあがってきてしまう衝撃からこの身をなんとか持ちこたえさせ公園内に歩を進めた。

あのへんてこな形の、そうですねぇ、風の谷のナウシカのオウムを思い出させる形のモニュメントの向こう左はスーパーがあり、右手、あの家々の右側には府営団地がデンデンと建っていて、”旧石器人のアトリエ” を眺めていることができるのだが、誰も眺めている人はいなかったし、公園内にも誰もいなかった。

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

ちなみにあの風の谷のナウシカのオウムが想起されてしまうモニュメントは、石器をつくるために割った岩石・サヌカイトをイメージしてつくったらしい。


翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

んんんん、、、、”旧石器人のアトリエ” って言い方は御洒落だが、しょっぼ!!

そして、まさかの、この植木↓もアトリエとナンバーがふってある。単なる植木やんかーーーーい。

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ



翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

んん~、、、ショボ!!ってしか浮かんでこず失望は免れないが、いったい私は何を期待していたのだろう。冷静に考えてみると、氷河期にあたる旧石器時代は、約250万年前~15万年前にあたる前期旧石器時代、15万年前~3万5000年前にあたる中期旧石器時代、そして、約3万5000年前~1万年前にあたる後期旧石器時代に分類されている。

前期石器時代は猿人や原人が生息していた。猿人や原人ですからね~。そして、中期旧石器時代はネアンデルタール人いわゆる旧人と呼ばれる人たちが生息していた時代だ。後期旧石器時代になると、ようやっと我々現生人類と同じ種族であるホモ・サピエンスと呼ばれる新人の時代に入る。イメージ図としてはこんな感じ↓ですかな。

旧石器時代

向かって左側が猿人、右側が旧人いわゆるネアンデルタール人。次にようやっと我々と同じホモ・サピエンス新人の時代に入る。

そして、ここ翠鳥園遺跡、御洒落に言うと”旧石器人のアトリエ” は、後期旧石器時代の遺物である。進化してホモ・サピエンスになりたての方々ですからね、身近にあったもので少しでも暮らしを楽にするために考え出した石器、切ったり、剥いだり、叩いたり、掘ったり等々をより楽にしやすくするために石を加工した。冷静に考えると単にショッボ!とは言えなくなってくる。。。ウーム

後期旧石器時代の遺跡は日本列島の北海道から九州にいたるまで発見されている。が、この翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~は、何がすごいかと言うと、後期旧石器時代の石器づくりの様子が生々しく遺されていた遺跡で、ふ~ん、石器ってこうやって作ってたのかぁ、ふ~ん、とわかるものだから、だそうだ。旧石器時代当時のままで現在に残ったアトリエはここ翠鳥園遺跡の他に例がないとかなんとかかんとか。




旧石器時代の石器の材料は、北海道と関東地方は黒曜石、東北地方は貢石、西日本ではサヌカイト、九州地方はサヌカイトと黒曜石の利用がわかっている。それぞれの地域で産出できる素材、産出できない素材があるので、それぞれの地域で最適な物を活用したのだろう。サヌカイトは、約1200万年前~1500万年前に二上山が噴火した際に出来たガラスのように鋭利な縁辺をもつ岩石で、旧石器時代から弥生時代まで利用されてきた。二上山博物館でサヌカイトがお土産として売られていたのを思い出す。買わんかったけど。サヌカイトは、羽曳野市東部に位置する香芝市の二上山の北麓地域で主に産出される。


翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~では、サヌカイトが38か所に集中して存在していた。石器や加工の際に出た石の欠片など約3万点が発見された。集中部34という場所だけでも2000点の石器が発見されている。なんでも旧石器人のアトリエとやらは、大きく分けて9グループにわけられ、1グループあたり2人~3人で石器づくりを行っていた、という推測もあれば、座った場所が1か所ずつ確認されていることから、それぞれがその集中部で石器づくりを行っていた、という説もある。翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~では、約2万年前の後期旧石器時代から縄文時代早期にかけての石器が発見されている。

そうやって冷静に見てみると、アトリエとか言いながらこれ植木じゃんか、ショッボ!と思った木も、38か所の石器づくりの作業場の1つだったんだなぁ~と温かく見ることができるようになる。クククククク

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

さらにもっと冷静に考えてみると、当時はまだ氷河期ですから、地球温暖化(笑) と騒がれている現代とは違う寒冷気候であり、動植物からして今現在とは状況が違うはずだ。単純にこの植木が旧石器人のアトリエかよww とウケるのはちょいと違うなって、そもそもこの木、旧石器時代からずっと生えてたんかーい! と、天才な私は気づいてしまったのだった。(天才って言わせてくれ言わせてくれ言わせてくれ)



こうしたもの↓も、ホモ・サピエンス新人類になりたての人たちが作ったのか~、と温かくみることができますね♪

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ


翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

当時は地殻変動も激しく、一番ビビるのが、約2万3000年前とも約2万5000年前とも約2万6000年前とも言われている、要するに正確にはよーわからない、って事だろう(笑) とっ、とにかく、鹿児島県の姶良カルデラは、そのころ、数か月以内ごとに大噴火を繰り返していた。そして、最後の超巨大噴火が起こった。なっ、なんと、南九州本土のほとんどの地が火焔流で厚く埋め尽くされ、最大厚さは約150メートルを記録。その火山灰は東北地方にも数センチの厚さの火山灰を降り積もらせたというから驚きだ。

翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~で発見された石器・国府型ナイフは、姶良カルデラ噴火の火山灰よりも上層部で発見されている。よって、姶良カルデラ噴火以降に作られた石器だということがわかる。


後期旧石器時代の人たちはサヌカイトを加工して作ったナイフ形石器をもち羽曳野丘陵周辺で生活していた。この周辺には同様の旧石器時代の遺跡が発見されているが、どれも羽曳野丘陵の東西の縁辺の段丘面に存在している。


私はしませんでしたが、翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~に来て、石器をつくる手 に手をのせてみるのもいいかもしれません。ハハハハ

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ



翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ


このような↑説明版も用意されており、また、この↓風の谷のナウシカのオウムみたいなモニュメントの中にも入ることができる。



翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ



翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

ガラスには府営住宅が映っていますね。モニュメント内にも、このように↑石器づくりの様子が絵入りで書かれていたりしている。そして、これ↓は謎過ぎるので撮った。絶対に普通の人間では手が届かない高い高い上層部の細い隙間に、ペットボトルが置いてあった。投げ入れるにしてもかなりのテクが必要で、果たしてできるかどうか。。。。


翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

余程のもの好きの方や、旧石器時代の研究をされておられる方など以外は、わざわざ訪れる場所ではないと思いますが、私は古市駅から徒歩数分の場所に用事があり、予定より早く到着したので時間つぶしに寄ってみたのだ。。。。めっちゃ小さいし、想像力を働かせるまでは、ショッボ! とシケた感じが全身を覆っていたが、冷静に旧石器時代に思いをはせてみるとすげーな!って素直に思えた。あの、謎のペットボトルもな。

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敵地潜入レポ


石上神宮を気に入り物部氏の味方であり物部側の人間である私としては、元興寺と言えば、蘇我氏が創建! とか蘇我氏の氏寺! とかで、まさに敵寺である。なので、元興寺にはさしたる興味はない。敵寺ですからね。とはいえ、蘇我氏には同情してもいる。歴史上の勝者の常、己の行為を正当化するために敗者を徹底的に極悪人として宣伝記録し歴史に残す。大悪党ばりの人物として蘇我氏は嫌われてきた。

元興寺

しかし、対する中臣鎌足は、後のあの藤原ですからねぇ。。。。。。ただでさえあの藤原は良いイメージがないのに、政治権力を握るために中臣鎌足のやったことといえば、クーデターを起こし蘇我入鹿をぶち殺し、遺体を蘇我蝦夷のいる甘樫丘の邸宅に届け、蘇我氏が日本で最初に造った本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)を占拠し反乱者を募り本陣とした。甘樫丘の邸宅からその様子をみた蘇我蝦夷は戦うことなく自殺し火を放った。

それだけではなく、うま~くそそのかして共に蘇我入鹿斬殺事件を起こさせ蘇我本家滅亡に追い込んだ蘇我倉山田石川麻呂を、クーデター後、用済みとして、政治権力略奪仲間である中大兄皇子(天智天皇)と共に自殺に追い込んだりもしている。

中臣鎌足が蘇我氏滅亡計画を練ったという談山神社は、門から続く参道とかとても味わい深い場所なのだが、普通は神社って入場料みたいのとりませんよねぇ、、、、なのに談山神社は拝観時間も決まっているし拝観料もとる神社であり、金のにおいがする。そして人もいなく寂しい。

また、藤原氏の氏神である春日大社は、車で行き駐車場に停めると、車に貼れる春日大社 交通安全ステッカーを無料で貰える。鹿形で可愛いし交通安全のだしっと貰ったらついつい車に貼りたくなってしまうステッカーである。そして、それを貼った車をよく見かけるが、広告費無料で皆に宣伝してもらっている状態で、頭良いなぁ、さすが藤原の教えを受け継いでいる!って思えてしまうと同時に金のにおいがただよってくるように感じる。



一方、蘇我馬子が埋葬されているといわれている石舞台古墳や蘇我入鹿首塚、蘇我入鹿を祀る入鹿神社など、綺麗に花が添えられ地元の方々に大切に守られ手入れされていることが感じられる。また、蘇我氏の拠点だった一帯は、談山神社のある多武峰の人たちとは交流せず、戦前まで婚姻を結ぶこともなかったという。慕っていたボスをぶち殺されれば絶縁したくなる気持ちもわかる。蘇我氏は物部氏をぶっ殺した敵ではあるが、流布されているほどの極悪人って感じではないようにも思う。





平城京遷都にともない、飛鳥付近にあったお寺たちは皆さっさと移築したが、飛鳥寺(法興寺)は移築を嫌がり無視。仕方なく平城遷都8年後に朝廷は新寺を建立し飛鳥寺(法興寺)の名を改め、元興寺と称した。うぁ~って思ってしまうのが、平城の宮ー天皇が住む内裏を見下ろし眺め渡せる高台に藤原氏は自身の氏寺である興福寺を建て、また、滅亡させ政権を奪い取った蘇我氏の氏寺である元興寺も興福寺の下位置場所にした。

まぁなにはともあれ元興寺は、南北四町、東西二町の広大な寺地に、金堂や五重大塔をはじめ七堂伽藍をもつ大寺院として新天地で再スタートをきった。また、飛鳥にあった飛鳥寺(法興寺)は本元興寺として、15大寺の一つとしてその後も朝廷の保護をうけた。同じく飛鳥から平城に移転した薬師寺の前身・飛鳥の地にのこされた本薬師寺などとは違う待遇である。


元興寺

さて、こちら↑が、東大寺西南院から室町時代に移築されたという国指定重要文化財である元興寺正門東門。そして、これが↓国の重要有形民俗文化財である元興寺極楽堂(本堂)。奈良時代の元興寺の学僧・智光法師が夢で見た極楽浄土を描かせた智光曼荼羅が御本尊。時代の推移とともに平安時代には国からの財政援助がなくなり大伽藍を備え威容を誇った元興寺も次第に困窮そして荒廃を深めていくことになる。平安時代中期には、元興寺金堂や講堂の天井は朽ち雨漏りがしていて、回廊の瓦は落ち、僧坊の一部の建物がなくなり大木が生えていたという。


しかし、平安時代末期には、極楽往生を願う浄土教信仰が広がり、智光曼荼羅への信仰から多くの人がおとずれるようになった。智光曼荼羅がおかれていた僧侶の居住施設だった伽藍僧坊の一室を改築し、鎌倉時代中期、東側半分を極楽坊本堂として独立させ、西側半分を禅室(春日影向堂)と2つに分離させるにいたる。鎌倉時代後期には、来世信仰の中枢となった。

室町時代1451年の土一揆で、元興寺金堂や小塔院、そして、智光曼荼羅原本などが焼失。荒廃はすすみ、戦国時代末からは元興寺境内域に町家がじゃんじゃん建てられるようになってしまった。この周辺の家々を見ると、後の時代にちゃんと買った人もいるのでしょうが、御先祖様が元興寺境内に勝手に家建てて土地ぶんどった人の子孫なんだなぁと見えてしょうがない。いくら荒廃したからとて寺院境内に家建てて住んじゃうんだもんなぁ、なかなかだ。


かつては広大な寺域をもち隆盛を誇った元興寺は、江戸時代初期には極楽堂と五重塔と観音堂のみとなっていた。江戸末期には、極楽堂南徒歩数分の位置にそびえたっていた70メートルの五重大塔も、町屋の火がとびうつり火事で焼失。実にもったいない。興福寺の五重塔でさえ50,1メートルですから。しかし、当時はこのあたりに建つと興福寺と元興寺の五重塔が見えていたんですね。


元興寺



元興寺


極楽堂まえには植木鉢がたくさん置かれてあって、これ、蓮ですよね。つぼみやお花はとても清楚で可愛らしいのですが、種はキモイっす。キモい方が嫌がられ近寄られないから種が守られて子孫を残せて良い、っていうことでこんなキモい姿にしているのだろうか。これからさらにグロテスクに変貌を遂げていくのを思うとゾッとする。怖ぁ~。


元興寺



元興寺

内部は撮影禁止ですが、極楽堂に入ると内陣の柱には文字がびっしりとある。平安時代末期から鎌倉時代の寄進状だという。また瓦には飛鳥時代の瓦が使われている。

戦国時代後期から町屋が元興寺境内に建てられ、それが後に ならまち と称されるようになるのだが、この周辺一帯では家の建て替えや堀崩工事の際に、元興寺でつかわれていた礎石がよく出土するという。さすが荒廃した寺域に勝手に家を建て住んだだけのことはありますな。過去に古美術商が買った土地から出土した礎石などは随分高値で売っぱらわれ土地の購入代金を上回ったそうな。


境内には町屋が次々に建てられ、元興寺は今では3つの寺院、この真言律宗元興寺、五重大塔跡にある華厳宗元興寺、真言律宗小塔院跡と徒歩数分のところにわかれている。売っ払われたり、家々の下に埋もれ未だに眠り続ける元興寺の礎石ではなく救出された礎石はこのように展示されている。


元興寺


この佛足石とやらは、紀元前1世紀ごろのスリランカにあった古代仏足石を模作し2012年に造られたという。仏像がなかった古代インドでは仏の足形に礼拝していたという。なんか。。。。足形に礼拝、足形に礼拝、、、ウーム

元興寺


元興寺

この両脇↑に、そして境内のあちこちに石塔があるのだが、映していないが写真右側には石塔が所狭しと整然と並べられちょっと異様な感じがし、一瞬ギョッとする。禅室(春日影向堂)の北西部石舞台に積み上げられていた石塔を昭和63年にこうして並べ、浮図(仏)田と呼ぶらしい。僧侶の名が刻まれていたり、この近辺の当時の金持ちが金にものをいわせて造った石塔である。各々の思いのこもった石塔が昭和63年まで適当に積み上げられて放置されていたというのには苦笑してしまう。


こちら↓が、国宝である禅室(春日影向堂)。なんでも、禅室の経蔵に智光曼荼羅があったころ、修学している空海のもとに鹿に乗って春日明神が現われたという。空海はその姿を春日曼荼羅に描き、春日明神を拝する己の姿像を彫り経蔵におさめたという。空海が彫ったのかーーーー!っと感動するその像は境内内にある法輪館でみることができた。

元興寺

昔々は、禅室って大部屋で共同部屋だったそうですが、時代と共に僧坊も個室化していくんですね。この禅室はその変貌を感じられる遺構だという。今では、東側3部屋が大部屋で古の僧房の様子を伝え、西側1部屋だけは個室化した僧房時代を復元している。飛鳥時代の瓦が使われていて、法興寺から運び込まれた飛鳥時代の瓦は赤みがかった色をしているものが多いという。そうでないのは奈良時代以降の瓦。


元興寺総合収蔵庫である法輪館にも入ることができ数々の国宝や重要文化財などを見ることができる。境内に勝手に町家が建てられ土地を分捕られていく前の、興福寺五重塔をしのぐ高さの五重大塔をいだく大寺院だった頃のかつての元興寺の古地図やジオラマで当時の大伽藍元興寺の光景を偲ぶことができる。目をひくのが、奈良時代後期の国宝である高さ5,5メートルもある五重小塔。

そして、平安時代中期10世紀末の作品と推定されている国指定重要文化財 阿弥陀如来坐像。あとは、室町時代1381年に書かれたDV夫からの離別を願う離別祭文なども展示されていて、いつの世も人のすることは変わらないんだなぁと溜息がでた。






非常に面白い解釈で唸ってしまったのを思い出したので、良い機会なので、関裕二著 ”奈良・古代史ミステリー紀行” をここで紹介しておく。

=引用開始
元興寺の前身の飛鳥の法興寺は、蘇我氏の寺だった。その蘇我氏は、天皇家を蔑ろにした一族。だから蘇我入鹿は皇極天皇の面前で殺されたのだ。ところが、蘇我入鹿はその後鬼のような格好をして、祟って出ていたようだ。祟りは祟られる側にやましい心がなければ成立しない。蘇我入鹿は罪なくして殺されていたのではないかと察しが付く。興味深いのは法隆寺など(法興寺や元興寺も含まれる)聖徳太子ゆかりの寺々で、聖徳太子が童子の姿で祀られている例が多いことだ。これは大きな謎とされてきた。けれども、童子は鬼なのだから、ある時期、聖徳太子を鬼とみなしていたことがあったのではないだろうか。蘇我氏を滅ぼすことで権力を勝ち取った8世紀の藤原政権は、蘇我潰しを正当化するために、蘇我氏を悪人に仕立て上げる必要があった。そこで、聖徳太子という蘇我系の皇族を捏造し、蘇我氏の功績をすべてかぶせ、蘇我=悪人設をでっちあげたのではなかったか。つまり、聖徳太子とは蘇我氏の本来の姿なのであり、だからこそ、祟る鬼の姿で祀られ、また、蘇我氏の寺=元興寺は、鬼の寺になったのではなかろうか。
=引用終了


ひじょーに唸ってしまう面白い解釈だ。確かにそう考えると、ここ法輪館にも祀られている不思議でならない聖徳太子の童像、なぜわざわざ童姿の像がそこかしこにあるのかも納得できるし、聖徳太子一族も蘇我一族も共に滅亡してしまったのもうなづける。


元興寺

ガゴゼ(童子、鬼)伝説の伝わる元興寺には、境内にユニークな姿をした鬼の像がところどころにちょん♪と置かれている。人食い鬼を退治するときに道場法師がむしり取った鬼の頭髪は、長らく元興寺の寺宝としておさめられていたというが、今はなくなってしまったという。

元興寺

あと、面白いなって思ったのが、境内におかれている蛙石。豊臣秀吉が気に入り献上された巨石・蛙石は、大阪城落城後は、大阪城乾櫓の対岸に投げ捨てられた。その蛙石だが、

蛙石から堀に入水する人が相次いだ。また、堀で溺死した人の遺体はすべて蛙石に流れ着いたという。たまたま水の流れと堀の形状上そこに流れ着いているだけなんじゃないの?って思うのだが、しかし、昭和15年に、大阪城の堀で溺れているところを救助された人のニュースが新聞紙上をかけめぐった。蛙石でスケッチをしていると十二単の女性が現われ導かれたので着いていくと堀に転落していたという。この不吉な蛙石には淀君の怨霊がとりついているという噂だったがこの事件で再び脚光を浴び、見物人で大層にぎわったそうだ。

わざわざ不吉な噂のたつものを群がって見物に来るというのも面白い。やっぱいつの時代も人間のすることは変わらない。大阪城に司令部があった陸軍は、大量の見物人がウザ過ぎて蛙石をどこかに捨てた。行方不明になっていた蛙石だが昭和32年に大阪市で発見された。発見者は知人の元興寺和尚に相談したところ、元興寺和尚は供養をしてくれ、いわくつきの蛙石は極楽カエルへ成就し元興寺に置かれることになった。極楽堂に向って誓願をたてた極楽カエルは、今では信仰対象になっている。

無事帰る♪ 福帰る♪ お金が帰る♪



人々が元興寺境内に好き放題勝手に町家を建て、土地を分捕られめっちゃ狭くなってしまったので、現在の元興寺は、世界遺産ではあるものの近くに来た際のちょっとした隙間時間に気軽に散策できる良スポットとなっている。

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恋焦がれたが失恋 VS 引き裂かれた恋




昔、全国の郡司は、娘や息子を朝廷に貢進する、という義務を課せられていた。貢進といえば聞こえはいいが、実際は義務であり強制的に差し出さなければならない決まりだった。各郡あたり1人ずつ娘や息子を強制的に天皇に貢がされたのである。


ただし、どんな人物でも差し出せばよいというわけではない。息子の場合、兵衛として、宮城の護衛や行幸の護衛供奉などの任にあたらせられ武官となる。故に、生贄として選ばれるのは、無役で身体強健、弓馬の術に優れた者を選び差し出せ、と決められていた。郡でも役立ちそうな立派な若者が奪われていく。


一方、娘の場合、天皇の食事の配膳や祭祀の奉仕という名目だが、実際は天皇と寝食を共にする役目だった。そうですね、エロエロ目的と言っても過言ではないでしょう。そのため、13歳以上30歳以下(後に16歳以上20歳以下と変更)で、郡少領以上の未婚の姉妹や子女で、厳選すべきは容姿端麗であること、だった。

息子の場合は武力を重視、娘の場合は外見を重視、ということっすね。郡司は嫌でも、朝廷への服従の証として娘や息子を差し出さなければならなかった。。。兵衛と采女の割合は3対1だったので、娘を寄進した場合は息子を差し出さなくてよい、と決まっていた。




さてさて、現在の福島県郡山市安積から差し出された采女さん、帝の寵愛を受け純粋に帝に恋をしてしまった。しかし、全国の選び抜かれた美女に囲まれた帝は、一途に彼女を愛する義理も義務もないですし、一度食ったらさっさと次の采女に乗り換えた。まぁその一回で帝の心をグッとつかむことができなかったというのが惜しいですねぇ。。。


天皇からの寵愛を失ったその采女さんは、失意の中、猿沢池に飛び込み入水自殺をした、という。なんでそんなマジになったんだよ、、、、と純粋過ぎて泣けてくるが、ここがその現場っす。って、そんなところの写真載せんなよっ!って感じですよね。すんません、ほんと。まぁそうでなくても猿沢池はいろいろとありますしね。でも猿沢池の畔に建つスタバでは、猿沢池を眺めながら飲食できるよう席が設置されているんですぞ。

猿沢池 采女伝説

この石の隣には、采女が猿沢池に身を投げるときに衣を掛けたといわれている衣掛けの柳があり、今は、衣掛け柳の碑がたっている。

一度だけ食った後ポイ捨てした采女が猿沢池で入水自殺をした、と知った帝は、「猿沢の池もつらしな吾妹子がたまもかづかば水ぞひなまし(=猿沢池の水が恨めしい、愛しい乙女が池に身を投げた時、水が乾けばよかったのに)」 と歌を詠んだというが、ポイ捨てしておいて”愛しい乙女”はないだろう嘘くせぇww と思うのだが、、、、とっ、とにかく!

猿沢池のほとりに小さな社を建てた。きっとこれは私の想像ですが祟りを恐れたのでしょう。それが証拠に、天皇は一夜にして池に背を向けたという。そして、采女神社の社は、鳥居と反対側を向くように建てられているが、これは采女を祀ったものの一夜にして池に背を向けた、という言い伝えをあらわしているという。

次々に美女が寄進されとっかえひっかえでき誰からも文句すら言われない立場からすると、一度だけ味見した采女が自殺したことを知り心を寄せ社を建てたというだけで立派なことなのだろう。




さて、時は過ぎ、ある旅の僧が春日大社にお詣りしていると、境内で木を植えていた若い女性が僧を猿沢池に導いた。その若い女性曰く、「ここは、昔、帝の愛を失った采女が投身自殺をした池で、私はその幽霊です。」 と告げ、池に姿を消したという。僧は池の端にある采女神社で読経し懇ろに彼女を弔った。すると、再び彼女が姿を現し、在りし世を語り舞を舞い、再び猿沢池へ沈んでいったという。死後、池に住んでんかい、、、、なんと痛々しい。

神社を真正面から写真に収めるのははばかられたので遠くから撮ったのだが、この写真↓の端に采女神社が映っているのだがわかるかいな?

こんな悲惨な失恋の神社を、いやいや、失恋しただけではなく自殺し他界してしまった人を祀った神社が、今では、縁結びの神様♪ だそうで、恋する女性や婚活女性に人気だという。意味わかっているのだろうか???? なんで縁結びやねん、なにが恋の神様やねん。意味わかんねー。


猿沢池 采女伝説

猿沢池は奈良時代749年に興福寺の放生池として人工的につくられた池だ。水深は池の畔が1メートルで池の中央が1,5メートルだという。たったそれだけの水深で死ねるのだろうか。ちなみに奈良時代の女性の身長の平均は152㎝だという。いくら必死になって頭を水につけたところで、苦しくなるとどうしても顔が出てしまうと思うのだが、首と手足に絶対にほどけないように重しでもつけていたのだろうか??

いや、お風呂で溺れ死ぬなどもあるし、たった50センチの深さでも人は溺死すると言われているので水をなめてはいけない。それに池の底はヌルヌルだろう。やめようと思っても脱出できず水を飲み溺死してしてしまったのかもしれない。南無



では、その采女の出身地である、福島県郡山市に伝わる彼女に関する伝説をみてみよう。陸奥の国安積の里は冷害続きで朝廷に貢物ができなくなっていた。そこで、東北巡察使としてやって来た葛城王に里人たちは窮状を訴え貢物免除を頼んだが聞き入れられなかった。聞き入れないのはいいが、持ってない物をどうやって出せというのだろう。まぁつまり、お前らの食い分なんかどーでもいいから全部出して勝手に飢え死にしろや、っていう事なのでしょう。

が、葛城王は、郡山市安積の里長の娘・春姫を見かけ心動かされてしまった。そこで、葛城王は、「春姫を采女として差し出せば年貢3年間免除だじょ♪」 と言った。そして、春姫を奈良に連れ帰り宮廷に仕えさせた。帝の寵愛を受け手籠めにされたものの、しかし、春姫は故郷で心を通わせあった許婚の次郎のことがどうしても忘れられない。

春姫は、中秋の名月の日、猿沢池畔の柳に衣をかけ入水自殺を偽装し故郷へ逃げ帰った。だが、恋する春姫を奪われたのを苦に次郎は安積山の山ノ井の清水に身を投げ自殺してしまっていた。悲嘆にくれた春姫は病に伏し、雪の降る寒い夜に、次郎の後を追い安積山の山ノ井の清水に身を投げた、という話だ。春になると安積山の山ノ井の清水の周囲一面に名も知れぬ薄紫色の美しい可憐な花が咲き誇ったという。後に、花かつみ(ヒメシャガ)と名づけられた花である。

しかし、当時、うら若きしかも美人な女性が奈良から福島まで一人で隠れながら移動するのは、、、、無事だったのが不思議だ。奈良から福島まで徒歩で美女がたった一人で見つからないように移動をする、、、、、一体。。。。

奈良市側の話と郡山市側の話と、どちらが真実だかはわからんし、どちらが正確なのかも知らんが今ではそういう事になっている、としか言えん。だって、例えば天変地異が起きて人類が滅亡し、何千年後かに私の書いているこのブログだけがどういうわけか残っていて発見され、このブログが歴史書となる可能性もあるのですからねぇ。。。ククククク そうしたらこのブログが人類代表でっせ`∀´)ウシシ


福島県郡山市には、采女通りという名の通りがあり、毎年、采女祭りが開催される。安積から郡山駅前にかけ長い行列で采女踊り流しをする行列も続く。

一方、奈良では中秋の名月に春日大社采女祭りが毎年開催される。猿沢池に龍と鳳凰の形の船が浮かべられ、花扇とともに池を周回する。その後、花扇奉納行列などもあり最後は采女神社にて春日大社神官による厳かな神事の後、花扇が奉納される。

いずれにしろ、悲恋の采女・春姫の供養になっているのならよいことだ。




私が猿沢池畔で写真を撮っていたら、観光中らしいおば様が石碑に気づき、「あっ、伝説があるんだ!」 と楽し気に石碑に近づき文を読み始めた。その後、ドン引きして無言のまま俯き肩を落としながらしずしずと去っていったのが印象的だった。この石碑には、奈良側の言い分、帝に一回だけ遊ばれその後ポイ捨てされた采女が自殺した説明が書かれている。



某政党の副代表さんは、「女性天皇反対です! 天皇に側室をもっていただき子どもを沢山作ってもらう。」 などと発言されていた。側室をもつようになると裏で女同士の命を懸けた戦いが繰り広げられるのは確実だろう。狙われるのはもちろん子どもの命だ。表面的には和やかだが一皮むくとドロドロとした血みどろの陰謀策略、そしてバレないように策を凝らした男子●害や、●をもり病弱にしていくなどなど。故に、週刊誌はネタに困らなくなり、暇な国民の中にはそれをネタに楽しめる人が出てくるのも事実だろう。

また、ハーレム状態が好きなタイプの天皇だったら側室welcome♪ ヒャッハー!状態だろう。だが、あの戦国時代ですら一人の妻だけを生涯愛しぬいた奇特な武将もいた。しかも、自身の子どもができないのにも関わらず妻一人のみを愛し側室を持つのを拒否した武将もいた。故に、男性だから必ずしもハーレム状態を好む、というわけではないようだ。

もし、天皇がハーレム好きな御方ではなかった場合、子ども作れ子ども作れって裸体の女に囲まれて、まるで自分は種馬だな、、、、朕は男の子を作るためだけに税金で飼われてんだな、、、っと鬱になってしまうんちゃうか。なんか酷いよねぇ、男の子生産機械みたいな。

ご自分の意志そっちのけで、あぁだこうだぁと勝手に決められて、皇室男子として生まれないで良かった、とつくづく思う今日この頃。

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生き様




ここは奈良市山町にある圓照寺。御水尾天皇の第一皇女梅宮こと文智女王が開山した尼寺である。

関ヶ原の合戦で勝利した家康は、豊臣家と親しい後陽成天皇を譲位させ、豊臣秀吉の養子となった過去がある後陽成天皇の賢い実弟八条宮智仁親王を退け、後陽成天皇の第一皇子の良仁親王14歳を力づくで出家させ追い出し、既に出家していた第二皇子は捨て置き、1611年、豊臣氏のろくに息のかかっていない第三皇子である政仁親王を16歳で天皇の位に即位させた。御水尾天皇である。

1612年、家康の孫の徳川和子6歳の入内交渉が朝幕間で開始され、1614年に正式決定。

圓照寺

そんな折、御水尾天皇と兼ねてから心通わせていた女性・藤原与津子との間に、第一皇子賀茂宮が誕生。翌年1619年6月にはその女性を母として第一皇女梅宮誕生。御水尾天皇は皇子賀茂宮のことを春宮(皇位の第一継承者)と呼びたいそう可愛がっていたという。これが幕府にバレた! よって、公家家臣6人が配流や出仕停止などの処分を受け、御水尾天皇と与津子との接近は禁止され、愛する二人は権力によって無理矢理に引き裂かれてしまう。2人の子どもは宮廷で育てられることになった。


1620年、天皇25歳、和子14歳で結婚。御水尾天皇はその後も次々と新しい女性と関係を持ったそうだが、小さな新しい命は芽生えるたびに次々と殺されていったそうな。御水尾天皇の第一皇子賀茂宮も5歳で死亡。和子との間にだけは皇子女が誕生している。

後水尾天皇突然の譲位後、調査を頼まれた細川三斎も強引な譲位の理由の一つとして幕府にこの子殺し疑惑を報告している。和子が産んだ以外の子で、生き残ったのは梅宮ただ一人である。

天皇の位を和子との間に産まれた皇女に譲位し後水尾院となってからは次々と和子以外の女性との間に子どもが生まれ、最終的に御水尾の子どもは生涯で33人もいる。

圓照寺

そんな梅宮は13歳で、鷹司教平のもとへ嫁いだ。が、4年ももたず離縁されてしまう。御水尾院は梅宮を引き取ったが、禅僧一絲文守が上皇に語る法話を聴き涙を流し、22歳のときに一絲文守から得度を受け出家し、法名を文智、号を大通と称するようになった。

この一絲文守は、沢庵宗彭に帰依していて紫衣事件で幕府に反抗した沢庵が出羽に流された時は沢庵宗彭に付き従い共に出羽国に配流された。赦免されると沢庵は、将軍家光の側近となり東海寺の主となった。それに反発し、生涯、沢庵との関係を断絶し続けた、という気骨の人物である。一絲文守は39歳で病没するまで後水尾院のブレーンとしてつくした。

一絲文守と文智尼は次第に互いに惹かれ合い、どうやら相思相愛だったみたいなんですよねぇ。私の勝手な予想ではプラトニックラブってやつですかねぇ??知らんけど。一絲文守38歳の時に文智尼26歳に宛てた長~い手紙が残っているんですね~。ロマンチック〜(ღ*ˇᴗˇ*)。o♡♡




この木↓すごい。木の洞っての?空洞のところからも草が生えている。この溢れる生命力!

圓照寺

得度をした文智尼は修行し、托鉢の行などもしたそう。その後、修学院につくった草庵・圓照寺で暮らしていたが、離宮を作るのに情熱を燃やす父・御水尾上皇が、ついに見つけた!修学院こそが理想の地だ!ここに離宮造っていい?同じ敷地に一緒に住もっ♫みたいな感じで懇願された彼女は、一絲文守が言っていた 親族近く住むのは修行の妨げになる、との言葉を思い出し、速攻、興福寺一乗院の当覚法親王(文智尼の叔父さん)に頼んで土地を探してもらい、1656年、37歳の文智尼は奈良へと旅立ったのだった。


修学院の圓照寺建立も文智尼のために裏で和子が喜捨していたからできたというし、東福門院和子は修学院を去る文智尼のために移転費用千両を喜捨。その上、文智尼に圓照寺領地2百石を与えてもらえるよう徳川家に頼みこみ叶えてもらっている。更に11年後には100石加増され、圓照寺の寺領は合計三百石となった。

この世の春を謳歌する徳川家の出なのですから高飛車で威張り散らし高慢ちきで陰険な嫌な奴になってもしゃーないかと思うのですが、そうですねぇ、梅宮の命を狙うまではせずともチクチクねちねちといびり倒したりもできたのですが、なんて慈愛のある方なのだろうと感動してしまう。

子どもの頃、児童文学・小公女を読んでセーラの人物像に惹かれ、彼女のように生きようと心に住むセーラと共に成長した私だが(現実は違くても心意気だけは我立派だった也w)、和子はセーラとだぶってみえるほど聖女に思える。

圓照寺


参道はとても綺麗に手入れされている。道路から参道に入ると空気が一変し、静かな空間に涼やかな鶯の声が響き渡っている。


圓照寺


圓照寺


こんな風に竹林に続く道が何本か用意されている。この竹林の道を通っていくと、圓照寺宮墓につきますかね~。


圓照寺


右手に結構大きめの池があった。手のひらを思いっきり広げたくらいの大きさの蛙さんが5匹ほど一斉にピョーンと飛んで大きな音をたてながら水の中に消えた。お魚さんも住んでいるもよう。看板にもあるように圓照寺は、拝観を受け付けていない。なので関係者ではない一般人が行けるのは入口まで。生まれてきてからの文智女王の歩んだ道や取り巻く環境を思うと天真爛漫に無邪気に過ごせる幼子ではなかっただろう。数年間の結婚そして別れ、そして心に大激震を起こした法の教えに出会い生涯の道を決めたそんな彼女が、何百年も前にこの道を歩いたのかと思うと感慨深い。文智尼と東福門院和子のこと私、な~んか好きなんですよね~。


圓照寺



この生け垣を超えるころからは、空気が一段と変わり厳かで、とても気軽に写真を撮るのが自然と憚られた。


圓照寺




圓照寺


参道の左手にある小道、ここを行くと、祟道天皇陵に行くことができる。山の辺の道って書いてある。三輪山麓から石上布留を通り奈良へと続く日本古道。縄文時代に生きていた人たちの時代から使われ続けている古道。大大大大御先祖様たちがここ歩いていたんですね。感動だー☆

しかし、崇道天皇こと悲劇の皇子早良親王を思ってみても、皇族に生まれたからとて、とても幸せだとか安泰だとかは到底思えませんねぇ。とりあえず当時の庶民のように飢え死にすることはないだろうが、権力争いから殺されたり、早良親王などのような悲しい最期を迎えたり、死んでから崇道天皇♪天皇♪とかおだてられてもなんだかなぁ、だったら生きてるうちにチヤホヤしろよ!って感じしかないし。


そして、圓照寺の黒門の名残だろうかの手前右手には、関西三十三霊場との石碑が立ち、古びた階段がある。のぼっていくと、関西三十三霊場の各寺の御詠歌が刻まれた三十三の石柱とお地蔵さまたちが立ち並ぶ。そして小さな御堂がある。

圓照寺


しかし、この黒門の名残とでもいったらいいのか、ボロボロである。ボロボロとは関係ない話だが、ここは住所を見ても奈良市山町というだけあって山深い。昔は山に住む動物さんとかと普通に遭遇していたのではないだろうか?危険はなかったのだろうか。熊さんとか来てたのかなぁ。尼寺で女だけだし、こんな人里離れた所に住んで怖くなかったのかなぁ?

圓照寺


圓照寺


奥に見えるのが圓照寺の山門。奥に建物が見える。拝観禁止というのに門はまるでwelcome!って感じで開け放たれていた。あまりにも開放的で呼ばれているような気もしたので一瞬入っちゃおうかなっても思ったが、でも、禁止って看板に出ているのに図々しく突っ込んでいくのはないですよねぇ。相手が嫌がっているのにあまり近寄るのも嫌がらせですし、ってことで、これより先は足が進まなかった。なのでこんな離れたところから写真だけ撮ってみた。

圓照寺

文智尼の信仰にはゾワッとする鬼気迫るものを感じる。生い立ちを考えると澄み渡る青空のようにはいかないのはなんとなくわかるが、圓照寺に宝として残されていると記録されているものの一例をあげると、文智尼が自身の血と墨を混ぜ書いた自筆の般若心経だとか、父である御水尾の切った爪を集めそれを板に貼り付け南無観世音菩薩と表したり、忍と組み立てたりしたものが残されているとか。なんかちょっと異常性を感じてしまう。素直な感想を述べると、キモ〜。ヤバ怖っメンヘラちゃんみたいな感じがしてしまうが、信仰の強さ故の作品なのだろう。ウーム 私にはまるで分らん境地である。ウーム

爪と言えば、当時は、御神体に刃を向けるのはよくないと天皇はお灸だとか爪切りだとかもしてはいけなかったという。爪切り禁止ってことで、女官が天皇の爪を噛みちぎっていたという。マジっすかーーー!? 爪切りはいけないけど噛みちぎるのはいいんかい!って思わずツッコミをいれたくなってしまう。


でも、そんな文智尼は79歳でお亡くなりになるまで、同じ奈良市に住む腹違いで31歳年下の弟・一条院真敬法親王と親しく交流をしていたという。心温まるエピソードだ。そんな文智尼が歩いた参道を思いをはせながら歩くことができ感無量。人は誰一人すらおらず草木がそよぐ音と鶯の声、池の水が跳ねる音だけが響き渡っていた。厳かな参道である。合掌。

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感動冷めやらぬ




MIHO MUSEUMの春季特別展「美の祈り Universal Symphony」の宣伝画像を見て、その美術品のあまりの素晴らしさに心奪われ、行こう!と決めていたが都合つかず続きだった。が、ようやっと少し時間ができたので念願のMIHO MUSEUMへ向かった。天気予報を全く見ないで出かけたので途中で突然のやむことのない雨に遭遇。

琵琶湖の南、湖南アルプスの山の中にあるMIHO MUSEUMにたどり着くには、バスで行く方が断然安心かも。眺めているだけでも楽しいお店が並ぶ信楽の道路は快適だが、なにしろMIHO MUSEUMはさらにさらに離れた山の高み奥深くに離れてある。そこに行くまでには、車一台しか通れない狭い道が続くところが数か所あり、なかなかスリリング。そこをようやく無事通過するとMIHO MUSEUM周辺は広々とした見晴らしの良い道路となる。

MIHO MUSEUM


これはMIHO MUSEUMの敷地内にある木。紅葉でしょうが、緑とほんのり薄い赤色でなんか可愛い。


MIHO MUSEUM



MIHO MUSEUMに到着した時も雨は止まず、駐車場から5分くらいかなぁ受付まで歩かないといけないので、ずぶ濡れ覚悟で屋根付きの駐車場から出ると、気の利いたことに無料で使える傘がたくさんあった。それも、山の緑にあう薄緑色一色の地に小さくMIHO MUSEUMって書いてある上品な傘。売ってたら買いたいくらいに気に入った。



受付でチケットを買って、美術館の建物まで徒歩7分程度だそう。傘もあるし7分程度ならっと歩いて出発。遠くの方に白いボワッとした物体が映っていますが、あれはレセプション棟と美術館棟の間を走っている、無料で乗れる電気自動車。歩いていたら途中で抜かされた。

MIHO MUSEUM




MIHO MUSEUM


素敵なトンネルが! しかもこのトンネル、コンクリート製のごっつい無機質な素材ではなくメタリックでキラキラしててめっちゃ素敵~、洗練されててこんなところまで全部ひっくるめて美術館なのね、って感じ。しかもこのトンネル、3月春分の日と9月秋分の日の前後の晴れた日の日没後には、太陽光がトンネル内をパッーと照らして輝くつくりだという。自然を最大限に利用し見た人に並みならぬ感動が生み出されるように造られた建築物。より光が美しく光り輝くようにだからメタリック加工されているのか、と感心した。

こういうのを聞くと、アイルランドの世界遺産であるブルー・ナ・ボーニャ ボイン渓谷の遺跡群が頭に浮かぶ。素材は、石・巨石であるが、ブルー・ナ・ボーニャ ボイン渓谷の遺跡群の一つであるニューグレンジは、冬至の日に日の出の太陽光が中央道をまっすぐに通り奥にある十字架型の石室を照らすおつくり。また、ニューグレンジの隣にあるノウスは、春分の日に通路に太陽光が差し込むように設計されている。しかもこれら遺跡群は紀元前3000年前後のもので、あのエジプトのピラミッドよりも500年以上も前につくられている。

MIHO MUSEUM


MIHO MUSEUM

写真の撮り方が下手で感動的な魅力が伝わらずとても残念ですが、実物は、美術館棟に行くまでの間も既にすべて芸術品じゃん!なんかもう凄いなぁ、って感動の嵐。後で知ったのですが、それもそのはず、ここの建築設計は、イオ・ミン・ペイ氏が手掛けたものだった。I・M・ペイ氏の作品では、ルーブル美術館のガラスピラミッド、ファウンテン・プレイス、ジョン・ハンコック・タワー、ロックの殿堂とかどれもはぁっとただただ感心して眺めてしまうまさに芸術品でとても好きだ。ここMIHO MUSEUMの設計テーマは桃源郷だったという。あぁ言われてみるとなんかわかる。こんな山の中にこんな素敵な美術館が、って純粋に思うし。


こちら↓が目当ての美術館。なんでも建築容積の80%以上を地中に埋没させ建物の上にも自然を復元させているおつくり。


MIHO MUSEUM


MIHO MUSEUM

中に入ると、結構強めの雨の日だったからでしょう。自由に使えるタオルが用意されていて心憎い演出。こんな細かいところまで行き届いているなんて。。。。

そして、入るとこの光景。あぁってただただ感動してしまう。

MIHO MUSEUM

MIHO MUSEUM創立者の小山美秀子氏は宗教家だったんですね。もともとキリスト教に感化されていたものの世界救世教の教祖である岡田茂吉氏との出会いから信仰は加速。世界救世教の中で最大の派閥というか教会である世界救世教秀明教会の開祖であり会長となってしまう。賢く人を惹きつける魅力のある人物だったのでしょうね、1970年に独立し神慈秀明会という宗教法人をたちあげ今に至っている。だが自分は教祖とはならず既に他界していた世界救世教教祖岡田茂吉氏を神慈秀明会の教祖とした。

”美しいものを求め、それにふれることは精神の高みをもたらし、ひいては美しい社会をうみだす” その思想からこうして思わず息をのんでしまう素晴らしい美術品コレクションへとなったそうだ。I・M・ペイ氏と出会ってからはそのコレクションは日本のみならず世界の古代美術に広がり、約3000点もの古代美術品を収蔵しているという。常設されているのは約250点のみである。もう多すぎて飾れないんですね。で、こうして時々特別展を開催し公開しているのだろう。

宗教ときくと、ちょっとヤバいかなって気がしたりもしますが、MIHO MUSEUMは宗教の勧誘や宣伝もなく純粋に見たこともないような感動的な美術鑑賞ができる素晴らしい場所である。



MIHO MUSEUM

MIHO MUSEUMは、古代美術品が展示されている南館、特別展が開催されまた日本美術も展示されている北館から成り立っている。

限られた時間の中でようやっと来ているので、来館すれば見ることができる常設展よりもまずは春季特別展に向かう。その廊下↑なのだが、右手に少し横壁がへこんで見えるところがありますよね。それはこれ↓ 入口から来た時に、どうしてもちょっと武骨なイメージがしてしまう消火器・消火栓の扉が見えないように工夫されている。こんな工夫も実に奥が深い。


MIHO MUSEUM

展示品の撮影は禁止。まず入った瞬間に、紀元前3千年後期から紀元前2千年初期の西中央アジアの作品。当時こんなの作れたんだ!しかも綺麗に着色もしてある、と驚いた。吹きガラス技術が開発されたのは紀元前1千年紀末期だが、紀元前14世紀のガラス製のファラオ頭部なんてのも展示されていた。描かれた目は生きているようで鼻は潰れている。当時のエジプト人の鼻は横に広く潰れていたのだろうか???

展示物はどれもこれも素晴らしく、心震えた。宣伝の写真や動画をみて感動してここにやってきたが、しかし、やっぱり実見したほうが断然良い。展示室の中を暗めにしてスポットライトで美術品を光らせる、その視覚効果、心理的効果もあるのかもしれないけれども、やっぱり写真と実見は違う。これは如実に感じた。また展示されている説明文を読むと普通の美術館とは少し違うような文章の最後の方がどこかなんとなく宗教的というか思想的というか、隠し切れない宗教香とでもいうのかが出ているのを感じた。


どれもこれも素晴らしく感心してしまう古美術品ばかりだが、その中でも特に印象に残ったもの数点あげると、紀元前12世紀から紀元前11世紀の中国の作品、鴟梟卣はなんか可愛かった。また、紀元前4世紀のアケメネス朝ペルシャの馬型リュトンとか、ライオン・グリフィン形リュトン。紀元前1世紀のパルティアの山猫形リュトンとかもなかなか興味深かった。紀元前7世紀の前アケメネス朝ペルシャの野生山羊形容器はめっちゃ可愛くてとっても気に入った。




美術品を見てここまで感動したことあったかなぁ?? 現代美術よりも古美術品の方が好きだなぁって感じた。いや、古美術品だから感動するのではない。日本のではなく地中海あたりヨーロッパとかの古美術品が私の心にどストライク!なのだ。思うと、日本の骨董品には仕事で触れてきた過去があるが、日本の骨董品を正直良いと思ったことはなく感動したこともない。単なる金儲けのために価値があるということにしてお金を回す、単なる投資の対象、金持ちの道楽としか思えなかった。

MIHO MUSEUMの展示物はどれもこれも素晴らしい。ただ、日本のコーナーもあったのだが、普段見慣れているからか、日本の物はしょぼく感じてしまった。但し、例外はある。鎌倉時代 13世紀の作品、飛天像はとても可愛くて気に入ったし、鎌倉時代13世紀の金銅製蔵王権現像も動きがあって面白くてこれもいい!って思った。日本の仏像系は動きや表情があるのが多く面白いですね。しかし、あの本阿弥光悦の山月蒔絵経箱も、一瞬オッと目と心を惹かれたが、でも要らないな、やっぱ日本の物は見慣れているからどうしても感動が薄い、しょぼく見えてしまうと本阿弥光悦好きな私ですら思ってしまった。

ロストテクノロジーとして名高い日本の古刀は、人や自分をぶっ殺すという点では恐ろしいが、その技術には感心している。日本古刀が展示されていれば、外国かぶれと言われようがどうしても日本の古美術品をしょぼく感じてしまう私の心すら動かすことができたかもしれない。


説明書きを読んでちょっとイラっとしたのが、めっちゃ短く要約しまくると、”奈良時代には上生信仰が盛んになり、平安時代後期には末法思想が流行り下生信仰が主流になった” これですね、イラっときた。今を生きろよ!神様神様ってばっかりすがって救い助けを求めて夢ばかり見てないで今を生きろ!!っとちっとイラっとした。でもまぁ貧困飢餓戦闘などなど地獄のような世の中では、救われるという夢がないと生きていくことすらできなかったのかもしれない。イラっとくる、ということは何かあるのだろうw

言葉では表現しきれない感動に包まれながら、南館へ。廊下の片隅やはりちょっと陰になるところに消火器が置かれているがあのどぎつい赤色ではなく銀色でおしゃれ。この美術館にふさわしいなって思った。

MIHO MUSEUM


さて、MIHO MUSEUMには、美術館棟にカフェ、レセプション棟にレストランがある。食材はどれも嬉しい自然農法で育てたもので安心して食べられる。なんでも、教祖岡田茂吉氏の教義の一つに自然農法ってのがあったらしい。除草剤、農薬、化学肥料、有機肥料を使わず、堆肥のみ、または完全無肥料で育てた農作物を農家の信者が育て教団内で流通させているそうだ。ここなら食べてもいいな~って思えた。


MIHO MUSEUM

一枚板のベンチ、高価そうですね~。さて、南館に入ると、やはり、ボギャ貧の私ではとても言葉を尽くせぬ感動の嵐に包まれっぱなしだった。その中でも特に印象に残ったのは、紀元前1世紀から紀元後1世紀のエジプトのモザイクガラス。めっちゃめちゃ可愛くて欲しくなったほど。あと、なかなかだなと思ったのが、アッシリア/前アケメネス朝ペルシャ紀元前7世紀の銀に鍍金でつくられた戦勝図杯。まぁ戦勝図杯はわかりますよ。でも、

アケメネス朝ペルシャ紀元前5世紀の作品、銀製の帝王闘争文様鉢。そんなのが展示されていた。おいおいおいおい、帝王闘争を文様にして鉢に残したんかい!とちっとビビった。でもまぁ日本も戦闘の様子とか描いたのとか残してるか。


さて、一般的な邸宅に装飾として吊るされていたという1世紀ローマの大理石製のオッシラ。2点展示されていたが、これがもう気に入った。実に味わい深い。まぁ現代でいうと、スタバの看板みたいな感じ? スタバ画像所持していないのでアマゾンのSTARBUCKS ネオン看板の写真使ってます。でもやっぱりね1世紀ローマで作られたオッシラは重厚感がまるで違う。現代の一般的なこうした看板が安っぽく見えてしょうがない。



1世紀ローマでつくられた庭園図(フレスコ)。室内や庭園の壁等を飾る装飾絵なのですが、よく見ると、絵の真ん中上に設置され吊るされている見えるように正面がくりぬかれた箱には、2つの生首が描かれている。下にはその血を受ける杯みたいのがあってそこから下に滴る血を羽の生えた誰かが浴びている図柄。なんて悪趣味なって感じだが、説明によると”永遠の生を象徴するナツメヤシ及び守護霊スフィンクスと言った楽園のイメージが込められ” と書かれてあるが、これが楽園??? 永遠の生?? 生首2つをどんだけポジティブ解釈しているのだろう、とまぁそんな感じ。


っと、ここで緊急連絡が入り、現場に向かわなくてはいけなくなりMIHO MUSEUMをあとにせざるを得なかった。みれなかったのは残り一つのエリア”中国・西域”だけだったのでまぁ中国はなんとなくわかる気がするからそれほど惜しい気もしなかった。多分見慣れているからだと思うのですが、日本、タイ、カンボジアその辺の古美術品は、あっそっ、って感じでどうしてもショボく感じられ心動かされなかったし。東アジア、東南アジアはショボく感じてしょーがない。感性の問題だからどーしよーもない。


同じアジアでも西アジアとか中東というのかなアフガニスタン、パキスタン、ガンダーラとかの美術品はただただ感動感心してしまうのだが。。。しかし、安心安全で裕福な生活の中で生み出されたものではなく、いつ命を奪われるかわからないそんな状況下でこんなに素晴らしい芸術品を作っていたなんてと驚愕する。


MIHO MUSEUM

帰りは、レセプション棟まで無料電気自動車に乗ってみることにした。歩いていたら抜かされたし電気自動車の方が早いのだろう。しかも10分間隔で来るというし。ここがその待合場所。ここも芸術品。天井からは光が差し込むようになっていて、写真では写らなかったのですが天窓からは緑の葉がちらちら揺れているのが見えた。

MIHO MUSEUM

実に何から何まで見事な美術館で通いたいところだが、あの細道を回避するにはバスを使うしかないのだろうで、なかなか通うには地理的ハードルが高い。MIHO MUSEUMで幼稚園生くらいの子どもを連れてきている人を見て、「あんな子どもこんなところに興味あんの?」 と大声で言っている人がいた。それで、思い出したが、

長子が幼稚園生や小学生だった頃、黙ってじっーと凝視して作品をひとつひとつ丁寧にじっくり興味深げに眺めている様子を見て、当時住んでいた所からわりかし近くだったし無料だったし、上野公園エリアにある美術館、博物館にしょっちゅう通っていた。長子の芸術的感性はその時に自然に養われたのかもしれない。美術館・博物館にめっちゃ興味のある子どももいるので、美術館=子ども興味ない と決めつけるのはやめろw

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