美しきかな浄瑠璃寺


古来から仏教の聖地といわれ大寺の僧が修養や研鑽のために訪れた浄瑠璃寺。静かな山の中にこっそりひっそり建てられている。年季の入った石柱に時の重さを感じます。

浄瑠璃寺2021年4月末


1047年、當麻寺(現・奈良県葛城市)の僧義明上人が堂宇を建立し薬師如来を本尊として創建。1107年に薬師如来を本尊とする堂宇を取り壊し、九体阿弥陀如来像を安置する新本堂を建立。


1787年の拾遺都名所図会を見ると、浄瑠璃寺は当時こんな感じだったみたい。小田原別所と呼ばれていたとの事で、なるほど小田原山って書いてあるわ~。

浄瑠璃寺2021年4月末


浄瑠璃寺の古びた門をくぐるとこんな貼り紙が。そばには誰もいなかったのでマスクを外して深呼吸をしてみたらとっても清浄、清々しかったわ~。

浄瑠璃寺2021年4月末


門をくぐると左手には1178年に完成したという鐘楼が見え、眼前には興福寺一乗院門跡伊豆僧正恵信が伽藍や坊舎や庭園を整備し1150年に掘ったという池があり。。。。なんか池のそばに立つと、一斉にお魚さんが集まってきて大口開けて食べ物くれくれって感じなのですが。。。食べ物持ち歩いてませんしねぇ。。。。魚の餌とか売られているでもないし魚の大口姿なんかキモいんですがーーー!! 開けた大口の中にお世辞にも綺麗とは言えない池に浮く葉や自然ゴミみたいのがお魚さんの口の中に入っていくのですが、正直ドン引きでした(ーー; キモイ。

浄瑠璃寺2021年4月末


門をくぐり見える風景はこんな感じ。こじんまりした小さな敷地のお寺だけど一つの完成された絵のようになっていて美しい。池中央の島の祠には弁才天が祀られている。池向こうに見えるのが本堂で9体の阿弥陀如来像が安置されているとか。

浄瑠璃寺2021年4月末


門をくぐり左手には1178年に京都の一条大宮から移築したと記述がある三重塔がある。鐘楼と池に挟まれた小道を通っていくと三重塔に着ける。秒で到着。

浄瑠璃寺2021年4月末


この三重塔の閉ざされた扉の向こう側には、浄瑠璃寺開基の時の薬師如来像が安置されているそう。時々チラ見せしてるみたい。屋根とかすっごい凝ったつくりだなぁ。

浄瑠璃寺2021年4月末


で、三重塔を後ろに池を右手に緑に囲まれた小道を行くと、何体もの石仏とかが道端に置かれていたのですが、誰がいつ作ったのか近くの赤田川改修工事の際に川底で見つかった物だとの事。

数分もかかりませんねぇ、本堂に到着。本堂の横にも小さな石仏が道端の木の茂み入口に置かれていた。

浄瑠璃寺2021年4月末


そのまま真っすぐ行ってここでお金を払うと本堂内に入れる。中は撮影禁止。本堂の縁側を歩き本堂裏からぐるっとまわり入口へ。

浄瑠璃寺2021年4月末


古びた木製の引き戸を開けて本堂内に入ると左手にずらっと像が安置されている。平安時代や鎌倉時代につくられた木造四天王立像や吉祥天立像などがずらり。こういうのを見ると滑らかな身体の線とか服の襞とかよくつくられているなぁと感心してみてしまう。そして本堂内は撮影禁止なので平安時代後期の作という木造阿弥陀如来坐像9体のパンフレットの写真を。

浄瑠璃寺2021年4月末

よく見ると一体一体微妙に違うのだが、やっぱりどれもこれも釈迦如来にそっくりだな~。釈迦如来と毘盧遮那仏の違いは正直よ~わからんが、阿弥陀如来は9つの印形があるが必ず両手の人差し指と親指がくっついているのが特徴。しかしこういう大仏とかつくるのも謎なのだが、しかもこんなにずらっと同じの作って何故に?? っというのも

釈迦の死後1500年もしくは2000年後から末法の世となり、仏法が衰え世は乱れ、幾ら修行しようとも完遂することない乱世が1万年続くとの末法思想があり、その始まりがちょうど1050年とか1052年だったと言われていたんですよねぇ。阿弥陀仏にひたすら祈念すると阿弥陀仏が来迎し死後は極楽浄土に往生できる♪ という他力本願の教えが広まり、日本では貴族も庶民も皆怯え、貴族はこぞって阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂を建てたとか。

実体のない何かに怯えさせ不安にさせた後、単純な何かで救われると旗を振ると皆が大人しくなっていいな。ククククク

でもまぁ確かに今も 末法の世 と言っても納得せざるを得ない世の中ではあるが。。。


何故9体なのか? というのも九品往生(=極楽往生)思想によるもので、阿弥陀如来の住む極楽浄土に生れたいと願う者には9段階(九品)の往生の仕方があり、極悪人から善徳者まで9段階に分けられていてその階層により死後迎えに来てくれる仏様のメンバーや乗り物が違うんですよねぇ。最下位の下品下生でも金蓮花という乗り物だけですが迎えに来てくれるので取り敢えず拝んでおこう♪という気になるのもわかりますねぇ。


中の阿弥陀如来像は、自然による経年劣化か小動物によるものなのか金箔がとれてきていたり台座部分が壊れたりしてきているので一口千円の寄付が募られていた。また、印象的だったのが明治時代廃寺となった護摩堂の不動明王像が安置されていたこと。

このドラえもんの石像はちょっとホラーっぽいような。正直下手(^^;

浄瑠璃寺2021年4月末


この浄瑠璃寺、実は猫屋敷でもあるみたい。喧嘩で耳が引きちぎられ片耳先がV字のオス猫が人懐っこくてずっ~とスリスリしてくるので動けなくて30分位ここにいた。ちょっと強めに撫で続けたら去っていってくれた。

浄瑠璃寺2021年4月末


ほら、猫畑。

浄瑠璃寺2021年4月末


この浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺だったそうですが、明治の廃仏毀釈の時に無人寺となり荒れ果ててしまったという。その後、真言律宗に転じて奈良の西大寺の末寺となった。


この浄瑠璃寺は、1047年に當麻寺僧義明上人が開基し、1150年興福寺一乗院僧正恵信が整備し池を掘り、1178年に京都から三重塔移築、その後は1205年に少納言法眼が石を立てるなどして補強、1410年に池の修理、これくらいしか分かっていないんですねぇ。あとは、昭和になって1975年に大規模整備を、2010年に再整備を行った。


年季の入った昔からあるだろうお土産屋さんも短い参道上にある。この御店屋さんもそうだし、浄瑠璃寺の受付や監視をしていた人もかなりの御歳の女性だった。

浄瑠璃寺2021年4月末


そして、埴輪って作って売っていいんだ、って気づいた。

浄瑠璃寺2021年4月末

しかし御店屋さんも大変ですよね。無理矢理脅して買わせるわけにもいかないし、自由意志で寄ってきて気に入って買っていってくれるのを待つだけなのですから。


この辺り35カ所に、鎌倉時代中期から室町時代そして安土桃山時代にかけて作られた90以上もの崖仏とか石仏とか石塔とかが点在していて当尾石仏群と呼ぶとの事。ざっと荒っぽくGoogleマップで見てもこれだけの崖仏や石仏が確認できる。

昔々、沢山の寺院の塔が屋根のように建ち並んでいた事からこの辺りを塔尾→当尾と呼ぶようになったのだとか。今では石仏が山や道端などに祀られているのが当時の面影を感じさせる。が、石仏とかは何気に怖いのでわざわざは見に行っていない。

浄瑠璃寺2021年4月末

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恭仁京址


聖武天皇の実母は藤原不比等の娘宮子であり、聖武天皇の后は藤原不比等の娘安宿媛(光明子)。藤原不比等は聖武天皇(首皇子)にとって実祖父であり舅。ちなみに実母宮子は出産時に精神に異常をきたしたとされ藤原不比等宅に軟禁されており聖武天皇は生母と触れ合うことなく藤原不比等宅で育った。


聖武天皇と言えば生涯で前代未聞の事を次々と成し遂げた人物なのである意味、慣例に囚われない自由な人とも言えるのかもしれない。

<聖武天皇の自由っぷり1>
右大臣となり政権を担っていた政界のサラブレットである長屋王は、天智天皇と天武天皇の孫。長屋王と吉備内親王との間に出来た子どもたちは親王扱いだった。727年、聖武天皇と光明子(安宿媛)の間に皇子基王が誕生。長屋王と吉備内親王の長男膳夫王は皇孫の扱いを受けており既に成人しているのだが、聖武天皇はそれをガン無視し、生後30日の生まれたてホヤホヤの我が子基王を皇太子と任じた。これは前代未聞の出来事だった。とは言え、基王は翌年には亡くなってしまうのだが。



<聖武天皇の自由っぷり2>
聖武天皇と県犬養広刀自との間に安積皇子が誕生したのを機に、藤原不比等の4人の子ども(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)は焦り、自分の妹である光明子を皇后にしようと画策する。が、政界で力を持つ長屋王が、皇族ではない臣下の子の女性が(天皇になる可能性のある)皇后に就くことを反対したため729年、長屋王が呪術で天皇を殺そうとしていると密告させ長屋王の変が起こる。

これにより長屋王と正妻吉備内親王とその4人の子どもが死に至らさせられた。その他の藤原の血を引く側室などは無傷だった。邪魔者長屋王を殺し反対する者がいなくなったので、光明子は無事、聖武天皇の皇后になった。また藤原四兄弟全員が朝廷の最上位である大納言になったり太政官の構成員となった。一つの氏族から公卿一人を出すという慣例を破り、公卿10人の半数近くを藤原氏が独占することになったのだが、これも前代未聞の事だった。



<聖武天皇の自由っぷり3>
長屋王が自殺させられてからというもの畿内では旱魃が起こり度々落雷が発生。数年後には大地震が起こり、また九州の太宰府で沢山の人が亡くなり737年には西日本一帯にもその伝染病が広まった。平城京でも次々と人が死に藤原四兄弟はじめ太政官の議政官の大半も天然痘で死亡。

738年、聖武天皇は光明子との間に生まれた娘阿倍内親王を皇太子に任じた。女性の皇太子は前例どころかこの後も誰もいず阿倍内親王ただ一人だけであり前代未聞である。ちなみにこの阿倍内親王は後の孝謙天皇であり溺愛した道鏡との蜜月ヘデクレ政治で有名である(ーー; 聖武天皇には県犬養広刀自との間に生まれた安積親王という立派な皇子がいたのだがねぇ。。。変ですねぇ。。。

聖武天皇には立派な皇子が既にいるのにもかかわらず自分の娘を前代未聞の皇太子に任じるとは、藤原四兄弟が天然痘で亡くなった後もこのような状態なので光明子は世間知らずの純粋な可愛い子ちゃんではなく、藤原の血をどんな手段を使ってでも天皇にするというどろっどろっの血塗られた腹黒い女性だったのだろうなぁ。長屋王とその邪魔な皇位継承権を持つ子どもをこの世から排除したのも藤原四兄弟の力だけではないのでしょうねぇ。時の天皇は光明子の夫である聖武でしたしねぇ。



自然災害や伝染病蔓延が頻発する中、政治登用に不満を持つ藤原広嗣の乱が起こると、聖武天皇は乱が起こっている最中に突然旅に出てしまった。740年、山城国相楽郡恭仁郷に入るとここに宮を造営することを決め、741年の拝賀の儀もこの↓奈良寄りの京都府にある恭仁京で行われた。規模は平城京の4割ほどであり、聖武天皇の一言で大規模な工事が始められ大極殿は平城京のを移築させた。重機やトラックなど無い時代、解体し運ぶだけでもどれほど大変だったことか。五位以上の貴族は強制的に恭仁京への移住が命じられた。

恭仁京址2021年04月


741年2月、聖武天皇は国分寺建立の詔を発し、諸国にそれぞれ七重塔を有する国分寺と国分尼寺を造ることや、その僧尼や水田町の規模も命じ、また金光明最勝王経と妙法蓮華経を一部ずつ写経し塔に納めるよう命じた。聖武天皇はこの後、泉橋院に自ら赴いて、さんざん朝廷が弾圧してきた僧侶行基と一日懇談している。


15歳で出家し37歳まで山中で始業した行基は、705年に山を下り労役や重税で苦しむ民をみた。庸や調などの国家へ納める税は農民自らが都へ運ばねばならず、彼らの多くは、税を運び終えるとその辺で野垂れ死となった。平城京建設で強制労働させられていた民も食糧が乏しく飢え死にする者も多かった。

行基は、彼らを救済するため布施屋を次々につくり、食事を提供し、薬草知識などをいかして病人を治し、それが噂になり多くの人が救いを求めて行基の周りに集まるようになった。

朝廷は717年に行基を名指しして指弾した。行基はそれでも活動をやめず718年から隆福院や石凝院など困窮する人々を救う救済寺院を建てていった。下級官僚も行基たちを信奉する者が現れ始め、722年には朝廷はさらに厳しく行基を弾圧した。

その数年後には行基は信者達と各地で道路や溜池や橋や溝、灌漑施設などをつくっていったので各地の豪族は行基一行が来るのを大歓迎するようになった。ついに朝廷も731年に行基のことを認めざるを得なくなったという行基と朝廷はそういう過去がある。その行基に聖武天皇が自ら赴いて懇談してもらった。



で、続く743年、聖武天皇は大仏造立の詔を発した。実は740年に聖武&光明は、行基の信者たちが自ら力を出し合い建てた河内の知識寺の本尊を礼拝し、甚く感銘を受け、自分も人々の力でこういう廬舎那大仏(東大寺大仏)をつくろう♪ と思いついたとか。

行基に憧れ自分もこんな風になりたい♪ っと思ったとしても 人が自然に集まり喜んで自発的に各々の力を出し合いそれを結集し世の中を救っていく、そういう人が雲集し慕い付き従う徳を持っているでもないのに、強引に力で抑えつけ人を強制労働させることが可能な組織体制のトップが無理強いして物事を進めても周囲が不幸になるばかりなのだが。。。。

なにしろ当時の貴族(5位以上の人々)は、日本に約125人程で、そのトップの年収は現在でいうと6億円を超えていたという。最下位の少初位は年収2百万程度で、実家からの仕送りやアルバイトで食いつないでいたとか。正倉院文書に100通近い役人の借金証文が残っているのは痛々しい。

更に、庶民は成人男性は租・調・庸・雑徭・出挙などの税が課され成人男性の3人に1人は兵役としてとられていた為、重税に苦しみ本籍地から逃亡する人が続出し国家財政は非常に苦しかった。聖武天皇はそんなのもとのともせず気ままに遷都してみたり、国分寺や国分尼寺の建立を命じ、更に大仏を造るとまで言い出したのだった。聖武天皇曰く 『私は天皇として民を慈しんできたが、仏の恩徳は天下に行きわたってはいない。』 だから大仏を造るんだと。

民を慈しんできたとはこれまた驚きだが、仏の恩徳を天下に行きわたらせたかったら衣食住をくれ、と民は思ったことだろう。

ここで、長屋王が生きていたらこんな事にはならんかったんかいなぁとも思ったが、長屋王は、平城宮の東南角に総面積6万平方メートルの大邸宅を構え、国内外の有力者を招待し盛大豪華な宴会を度々催していた金持ちだったんですよねぇ。大和国やその周辺に広大な田や薬園や乳牛を育てる牧場、塩倉や炭焼き場、そして天然の氷を溶けないように保管する小屋である氷室なども所持していたが、民は重税に苦しみ竪穴式住居に住んでいたとかで長屋王もやはり金持ち過ぎて聖武天皇と同じで民の苦しみをわかっとらんな。


聖武天皇は行基に力を貸してほしいと懇願し行基は受け入れ積極的に働いたという。



<聖武天皇の自由っぷり4>
743年12月、遷都に物凄い費用をかけた上、造営途中だった恭仁京の建設を中止した聖武天皇は、744年2月に官人から庶民に至る人々に『都は難波と恭仁京どっちがいい?』とアンケートをしている。こんなアンケートは前代未聞だった。結果は恭仁京! だが聖武天皇はアンケート結果を無視し一週間後に難波宮に遷都を強行した。意味わかんねー、情緒不安定だったんかいな?

恭仁京址2021年04月


案内看板が英語のみで記されていて、日本はアメリカの植民地なんだなって実感する一枚。

恭仁京址2021年04月

こうしてイミフな行動で名をはせた聖武天皇は恭仁京を出て難波に向かった。が、聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれた安積親王は脚の病で具合が悪くなり恭仁京に引き返したが2日後に死亡している。恭仁京には藤原仲麻呂が残っていたが、その後、特進しているのが謎い。安積親王は皇位継承者なのだが、先に聖武天皇と光明子の娘阿倍内親王を皇太子に任じているのだが念のため消しておいた方が光明子としては安心だろう。

情緒不安定疑惑満載な聖武天皇は難波宮には40日だけいてその後、紫香楽に向かい紫香楽への遷都を宣言する。どうも怪しい不自然な山火事が頻繁に紫香楽周辺で起こるようになり、美濃の大地震の余震で紫香楽も激しく揺れたため、745年5月、聖武天皇は『どこが都にいい?』っとまたアンケートを実施。全員一致で平城京!となり聖武天皇は平城京に戻った。

恭仁京大極殿址の隣には小さな木造の小学校がある。その茶色い建物がそれ。牡丹桜の花吹雪が綺麗だったのですが安物スマホでは撮れませんな ((*´∀`))ケラケラ

恭仁京址2021年04月

聖武天皇が放り投げ放棄した紫香楽宮には盗賊が蔓延り、山火事も起こり続けたので、聖武天皇は仕方なく役人を派遣して官物を収納させたという。なんかだらしない人だったんですね。ちゃんと片付けてから次いけよ、ってツッコミを入れたくなる。

かつての恭仁京はこんな感じ↓だったみたい。聖武天皇が紫香楽から平城京に遷都すると、恭仁京跡地には山背国分寺が造られ平城京から移築された大極殿は山背国分寺の金堂になった。今は大きな石くらいしか残っていず草原が広がっている。

恭仁京址2021年04月


施薬院や悲田院をつくり千人の垢を洗い落とすのを発願し最後の千人目の重症癩病患者の膿を口で吸い出したところ病人は阿閦如来の正体を現したなどの伝説を持つ光明皇后だが、その施薬院や悲田院は、朝廷が長らく弾圧していた行基のつくった救済小屋を真似して作ったものだ。

施薬院や悲田院を作って皇后自ら民の体を洗った等というこのような美しい伝説で塗り固められた聖女光明子は、己が皇后になるため長屋王を自殺に追い込み、自分の娘を皇位に就かせるため聖武天皇の別腹皇子安積親王を殺害させた疑惑の人。また、

重税で困窮し生死の苦しみを味いのたうちまわっている民を嘲笑うかのように大仏建立や東大寺建立を聖武天皇に勧めたのも光明皇后だった。ちなみに東大寺が建てられた場所は、生まれて1年で亡くなった聖武&光明の唯一の息子基皇子を弔うために光明子が金鐘寺を建てた場所であり、東大寺は金鐘寺を拡大させたのが実態だ。根強い自己満が感じられる。

また、正倉院に納められている楽毅論にも44歳だった光明皇后が、”藤三娘(=自分は藤原家の三女)” と自署している。どんだけ藤原なんだよ、っと唖然とする。光明皇后の藤原への想いは強い。彼女が本当に心美しい聖女だったのか非常に疑わしいと私個人的には失笑している。聖女としてまつりあげ称賛する為に慈愛に満ちた伝説つくって必死やねーってしか思えん。どこが聖女やねんww 私は長屋王の方が好きだ。ベー

恭仁京址2021年04月

でも749年には、聖武&光明は行基から受戒し法名を授かっている。752年、約一万人の僧侶が集まり盛大に大仏開眼供養が行われた。この時は大仏の頭部のみが鍍金されていて、台座は制作が始まったばかりで大仏の後背の完成は20年後だった。756年、聖武天皇は56歳で永眠。

大変失礼ながら、活動的な馬鹿より恐ろしいものはない、というゲーテの言葉が脳裏に浮かんできてしまう。重税や強制労働で塗炭の苦しみを味わった民。そんな思いをして建てられた大仏は、1180年、源平の戦いで平重衡に焼かれ、源頼朝が再建。次は1576年に松永久秀に焼かれ、後に徳川綱吉の母桂昌院が再建した。


碌な事をしなかったとしか思えない聖武天皇だったが、その東大寺の大仏は、新型コロナウイルス騒動前までは、観光名物として小中高生の遠足や修学旅行を始め、国内外からも大仏を一目見ようと訪れる人も多く、経済活性化に一役買っていたのは事実だ。この恭仁京址も登山の格好をした御高齢男女グループが訪れていたし、あちこち遷都したのも後世に多少の経済効果をもたらしているのだろう。

この恭仁京で安積親王が亡くなったのかぁと無念を感じる。東大寺大仏に思いを馳せると、行基にひれ伏す思いと同時に行基の生き方を思い自らを正そうという気に自然になる、また命懸けで当時を生きた大仏造立に関わった民たちの血と涙と汗の結晶だなと涙がこぼれそうになる。



まっ、実際のところ昔からこんなんだったのですから、近頃は工作員にたぶらかされメッロメロ♪なMちゃん的噂がたっていますが、それが事実だったとしても、Mちゃん姉妹やそのご両親だけが特別におバカってわけでもないと思いますね。昔から変わっていないですよね。逆に今は、跡継ぎ不足だから己が権力を握ろうと邪魔者を殺害する必要もなくなり昔よりすっごいマシになったなぁと思う。ってことでMちゃんも今まで通り堂々としていれば良いと思う。

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木彫りキーホルダー


この勝手神社、金峯山の入り口にあるので山口神社ともいわれているそうな。鳥居をくぐると単なる空き地が広がっていた。焼失し再建されたものの また焼失と繰り返しているもようで最後の火事は2001年だったみたい。こんな山の上では火事になって消防車が来るのにも時間がかかり過ぎるだろうし全焼して当然だとも思う。

金峯山

672年に大友皇子に対抗し吉野に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)がこの神前で琴を奏でていたら天女が袖を翻して舞いながら後ろの山から現れたとか言われている。それが縁で、芸の神様とされ嘗ては猿楽や能が盛んに奉納されたそうだ。

時は下って1158年、源義経と別れた静御前は義経がつけてくれた従者に金銀を奪われ山中をさまよっていたら追手に捕まった。あからさまには語られていないが、義経に見初められるほどの女性が金銀を奪われただけで済んだのかなぁ?こんな吉野の山奥まで連れてきちゃってこうなることも予想できなかったのかなぁ?って、言っちゃあ悪いがやはりそのあたりがなんていうかやっぱり義経なんだよなぁ。追手に捕縛された静御前は奥深い山中で一人さまようより追手に捕まってホッとしたような気もする。荒ぶる武将たちに請われ、勝手神社で舞を舞ったそうな。義経関連の話はどこかいつも痛々しい。



役小角の小さな木彫りのキーホルダーが欲しかったのだがそんなのどこにも売っていなかった。桜をモチーフにした可愛かったり素敵だったりするキーホルダーやらは選り取り見取りあったのだが役行者はあまり人気がないみたいだ。唯一見つけたのが8万円ほどする卓上に置く比較的大きい木彫りの役行者像。こうなったら自分で木彫りをするしかなさそうだった。役行者は怖い顔をしているとの事で像マニアにもあまり人気がないそうだ。私には大人気なのだがのぅ。。。

で、吉野と言えば桜って事で、桜ソフトクリームの御店がそこかしこにあったが、桜餅ソフトクリームは売ってませんよ、ここくらい。これは自家製との事で300円で買った。う~ん、ピンク色で可愛いのだが気持ち普通のソフトクリームよりもっちりしている気もするがよ~わからん。味はほのかに桜の香りがするような。

金峯山


陀羅尼助だけを扱っている重厚な店構えの専門店藤井利三郎薬房が配っていたパンフレットの中に試供薬がついていた。ラッキー♪ 今から約1300年前に役小角がここ大峯山で自生するキハダの樹皮を煮込んだエキスが胃腸病はじめ内臓、外傷にも薬効があるのを発見し名薬となって健胃整腸薬として賑わっている。役行者は、7世紀末に疫病が流行した時、大和国葛城で大釜にてキハダを煎じ病に苦しむ多くの人を救済したと伝えられている。

山伏・修験者と言えば西洋の魔女みたいな感じで、山野に自生する薬草などを煎じ 薬の調合などに長けていたのもあったでしょうし、更に不思議な力を持つ役小角は手をかざしたり祈祷をしたり等々でも多くの人々の病や痛みをとり払っている。まるでキリストのおこしたという奇跡みたいだなぁ。

藤井利三郎薬房では、役行者の製法秘法を拝承した自家製の陀羅尼助を販売していて化学薬品、防腐剤も一切使っていず自然の生薬のみで作られているので安心して飲むことが出来ますね。

金峯山


この一帯には蛙の置物などもそこかしこの御店で売られている。そもそも金峯山蔵王堂では 蛙飛び行事 なんてのもあるんですねぇ。嘗て、蔵王権現の悪口や山伏をバカにした人が大鷲にさらわれ断崖絶壁に置き去りにされてしまい反省して神仏に懺悔したところ山伏の法力で蛙の姿になり救い出され、蔵王権現堂で高僧による読経功徳により人間の姿に戻ることが出来た、という伝説があるらしい。”すべて国産”の文字がなんか面白い、けど大事なポイントですよね。

金峯山

こういうバカにしたら酷い目にあうかんな! 的な脅しともとれる蛙伝説などははっきり言ってはぁ???って失笑してしまうのだが、また、役行者やその関係者の詳細を突き合せたりするとどう考えてもその役小角不思議伝説は辻褄があわないよね?っていう明らかに後世の人による作り話で修験道の権威付けに利用してんなって思える個所もある。役小角ご本人はなんらあずかり知らぬところで後世の人に利用されているだけで失笑しているような気もしている。やべぇ~蛙になっちゃったらどーしよーーーーー!!

しかし、欲しくてたまらなかった役小角の小さな木彫りキーホルダーはどこにも売っていず非常に残念だった。結局、本当に欲しい物って自分で作らないと無いものなんですよね~。


あと気になったのが、桜ラムネはそこかしこで売られていたが、桜コーラはこれまた一店舗でしか売られていなかった。それがこれ。

金峯山


う~ん、なんとな~く桜の香りがしたような。裏を見たら製造場所が静岡県だったので急に白けた。ドヤ顔で撮ったこの↑上の写真、なかなか素敵に撮れたと思うのだがショボい写真で十分だったような気にもなった。

金峯山

あっ、そうそう、一攫千金を狙う方は乾坤通宝を探すといいかも。後醍醐天皇が1334年に造った新貨幣である乾坤通宝は鋳造されていたことは確認されているものの一枚も見つかっておらん。乾坤通宝一枚でなんと時価1億円になるそう。この吉水院に後醍醐天皇が運び込まれたとも言われているので要チェックですな。私も最低でも10枚くらいは見つけて手にしたいものですわ。

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吉水院


明治新政府の神仏分離令、廃仏毀釈によって吉水神社と名称が変わったが、寺院の矜持 という感じでここに残された”吉水院”という石碑が好き。力で強引に抑えつけても結局無理があるんですよねぇ。

金峯山 吉水神社


金峯山 吉水神社


吉野山の桜は山桜で、奥千本、上千本、中千本、下千本と群生地が続く。ここ吉水神社は中千本に位置する。今を4月上旬ていうのか中旬というのかは知らんがとにかくこんな感じ。桜の季節には混むから来たくないのだが秘仏開帳のためなので仕方がない。案の定凄い人出で、ここは上千本の桜まで一望できると人気のスポット。この看板を背景に自撮りしまくっている中年女性軍団がずっ~と占領してていてめっちゃ邪魔だったー。

金峯山 吉水神社


弁慶の力釘が。源頼朝に追われ逃げた義経は弁慶や佐藤忠信ら数人と、懐妊していたという静御前を連れ1158年、ここ吉水院に隠れたが、追手がやってきたのを知った武蔵坊弁慶は、そばにあった釘を二本抜き取り、石にその釘を親指で打ち込み、それを見た追手達は恐れをなして逃げ帰ったというその現場。

金峯山 吉水神社


わかりやすいように弁慶が親指で押し込んだという釘に印をつけておきましたよ~。冷静に見ると何かのご利益を期待しているのか硬貨が投げ込まれているところがウケます。アハハハハ 石に釘が打てるなんて初めて知った気がする。

金峯山 吉水神社


世界遺産にもなっている吉水神社の書院に拝観料600円払って入ってみました。役小角に心がメロメロにとろけているのですがこの書院に役小角の木像があり写真を撮れるようなのですよ~。ここは義経一行が隠れたお部屋でもあり、静御前の着物とかが残されている。ここ吉水院は義経と静御前が最後に過ごした別れの場所。

金峯山 吉水神社


そして、ここで弁慶が思案したんですねぇ。お金を取られるこの書院に入ってくる人は0,1割にも満たないようでガラガラ。

金峯山 吉水神社


40歳で子どもがいなかった楠木正玄は信貴山に登り、毘沙門天(役小角が作り安置したもの)に祈ったところ正成を授かった。足利尊氏勢と戦闘になったら新田義貞は必ず負けてしまうからと後醍醐天皇の隠し場所を探していた楠木正成は、吉野山に登り役行者を思い祈った。”百万の大軍が攻めてこようと登るのは難しい”と険しい山頂の平地を皇居に相応しいと教えてもらったという。楠木正成は戦死してしまったが、1336年、後醍醐天皇は吉水院の宗信法印の力添えもあり、ここに逃げ込み吉水院を南朝の皇居とし、56年間続く南北朝時代の幕開けとなった。

ここが豊臣秀吉が修理したという後醍醐天皇の玉座。百人一首の絵札にこういうところに座っている人の絵がでてくるな~。

金峯山 吉水神社


こじんまりした平屋建てなのですが、山深く木々に囲まれ眺めはよく落ち着いた良い所。後醍醐天皇の御物や楠木正成公の所持品、空海や最澄の作品や狩野永徳や狩野山雪の作品、一休和尚の墨書などなど南北朝時代、安土桃山などの宝物が展示されている。それは分かるのだが、不思議なのが弁慶の槍。未だ未だ追っ手をまきながらの逃亡は続くはずなのにここに置いていった??

金峯山 吉水神社


更に謎いのが、やはりこのような身体を守るグッズも展示されている。

金峯山 吉水神社


もっと衝撃なのが、義経のこんなんまで。ぼろくなったから捨てていったんか??? 頭はずっと?のままだった。

金峯山 吉水神社


634年に現在の奈良県御所市茅原で生まれた役小角は、舒明、天智、天武、持統、文武天皇の時代に大和葛城を中心に呪術者として名をはせた人物で、7世紀の飛鳥時代に確かに実在した人物なのだが、彼自身、書物も残していないし教団も率いていないし名誉欲も栄華も欲しがらなかったし、様々な日本の古記にも役小角を記したものはあるもののその生涯は実際のところ謎に包まれている。

役小角の母親は大和の高加茂の白宣女とはっきりしているが、3歳で父親と死に別れているがそもそも役小角の父親には諸説あり、役小角は舒明天皇の子だったとか、出雲国の雅楽を行う加茂氏出身の大角が役小角の父親とか、天から黄金色の独鈷が雲に乗って降りてきて母親の口に入り妊娠したとか、

ここ”布留の高橋”に出てくる平群鮪とは平群真鳥の子だが、平群鮪と契りを結んでいた影姫を武烈天皇が見初め平群親子を殺害したのだが、役小角は武烈天皇に殺された平群真鳥の子孫であるという記述もある。

金峯山 吉水神社

出産時には五色の雲が産室を覆い、一枝の花を握り生まれてき、言葉を話すこともできたという。比べる者がないほどの博学で4歳からは常に泥土で仏像を 草茎で堂を造り花・水を献じ、身を地に投げ出して礼拝していたとか、7歳の時に自ら梵字を書き、言葉を発することがなくなり葛城山に登り法喜菩薩の姿を拝んでいたとか、人間の患みを除きたいとの志を13歳でもち、教えられるでもなく不動の真言を諳んじ、孔雀明王経を読み習い、毎晩葛城山にこもり夜明けに帰宅した。17歳で藤の皮の衣を着、松の葉を食し葛城山で修行し、19歳で金峯山で修行をし30歳で孔雀の呪法を修め非凡な験術を得、空や海を自由自在に飛べたという。

更に不思議な話は続くのだが、15世紀に修験道が教団として形を整えていく中で役小角が修験道開祖としてまつりあげられたが、役小角については正直よ~わかっていないのが実態なんですよねぇ。しかし、いずれにしろ常人ではない事は確かだ。役小角の出生は賀茂の役君であり、賀茂氏は神武東征の際に神武を吉野から宇陀へ先導した八咫烏を祖としているようだし、この氏族から賀茂大社の賀茂(鴨)氏や、安倍晴明を弟子として育てた陰陽道宗家賀茂氏が出ているので不思議な能力を持つ血筋なのかもしれない。

役小角に付き従った夫婦の鬼、前鬼・後鬼も可愛い。


ここ金峯山寺の僧房であった吉水院は1594年、太閤秀吉が催した吉野の花見本陣の地だ。関白秀次をはじめ徳川家康、伊達政宗、宇喜多秀家、前田利家らの戦国大名や公家、茶人、連歌師など総勢5千人を引き連れた盛大なものだった。秀吉は甥の関白秀次らと共に能を演じたり、内陣2本の金箔張り化粧柱や須弥檀を寄進したりしている。

この吉野での観桜会の翌年1595年、秀吉に切腹を命じられた豊臣秀次は高野山で没することとなる。ちなみに千利休は1591年に秀吉の命で切腹して果てているし賢弟豊臣秀長も同じ年にお亡くなりになられているので二人とも吉野の観桜会に姿はなかった。

金峯山 吉水神社

吉野で花見が行われた4年後、秀吉は没する。約1300年前に役行者が創立したと言われている修験道僧坊はこうして今に至る。深い歴史のある地。  ↓もしよかったら押してね↓  
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金剛蔵王権現


念願叶って全てがうまくいき行ける事になった金峯山寺蔵王堂の金剛蔵王権現秘仏ご開帳! 今では、車や電車や観光バス等でピューと行けますが昔々は金峯山に参詣するためには、短くても37日、長ければ50日、百日の間、世俗を離れ、酒肉五辛を絶ち、勤行三昧と厳しい潔斎を経てやっと金峯山詣でへの出立が許される、という厳しくも神聖な場所だった。

駐車場は満車で、近畿圏や中国地方はもとより関東地方や中部地方ナンバーの車がずらり。むろん観光バスも何台もとまっていて、人出は賑やかで皆マスクは付けているもののコロナ危険の煽り報道と実際の人達の行動とのギャップをこんなにも感じたのはきっと初めてだったかも。コロナ対策費用って事で駐車場が2千円に値上がりしていた。

吉野と言えば桜が有名ですが未だ咲いていた。金峯山での一千日の苦行の末に役小角が祈り出した金剛蔵王権現。その御姿を桜の木に彫り刻み、後に蔵王堂となる場所に祀り、「桜は蔵王権現の神木だから切ってはいけない」と里人を諭したことから ”桜一本首一つ、桜一本指一つ”と言われるほどに桜の伐採が戒められた。また、桜を献木する信者も多かった。1579年12月には大阪平野の豪商・末吉勘兵衛氏が1万本の桜苗木を寄進している。吉野に逃れこの山に皇居を開いた後醍醐天皇も「役行者の威徳だ」と多くの桜を植えさせた。

吉野 桜


駐車場やロープウェイ駅を降りると細い参道に小さなお店が両側にずらっと建ち並んでいるし屋台も出ているし観光地化している。ここは江戸時代に創業した御店ですね。何軒か破産勧告の貼り紙がしてある閉まった店舗も見かけた。中には露天風呂をウリにしていた御店も破産していた。

吉野 金峯山


1333年1月、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が、鎌倉幕府討幕にむけ6万人の幕府軍を相手に3千人の兵で吉野山で挙兵。敵の進入を阻む掘がつくられていたこの大橋のあたりは激戦となったようで ”攻めが辻” と呼ばれている。1週間持ちこたえたという。蔵王堂に立て籠もった大塔宮護良親王は、討ち死にの覚悟を決め蔵王堂の広い庭で最後の酒宴を催した。嘗てここでそんな事があったなんて想像もつかないくらいのどかでほのぼのした場所。

金峯山 大橋

この写真↑ 人の流れがキレたわずかな一瞬で撮ったんですよ~。山道は下り坂だったり上り坂だったり舗装されて整備されていなければどれだけ険しい山だったのだろうと震える。役小角の人生の過ごし場所はほぼほぼ山で修行三昧だったし、その後の人達も馬や徒歩でここまで来たのかと感嘆する。

金峯山寺の総門である黒門。昭和60年に改築されたそうですが、昔々は公家大名でもこの門からは槍を伏せ馬をおりて通行したと看板に記載してあった。衆生を救う事を願いひたすら修行に生きた役行者から始まり自然に彼を祖として修験道が広まり、明治元年から始まる廃仏毀釈や修験道廃止令などの明治新政府による嫌がらせが行われるまでは、蔵王堂を中心に山上に36坊、山下に百数十坊の堂社が建立している壮大なものだった。

金峯山 大門

明治元年、金峯山寺に対し明治新政府は、”蔵王権現を神に改め、僧侶は神職になるか僧侶をやめて還俗しろ” って通達。明治4年には、境内以外の朱印地や除地を政府が強奪。明治5年には修験道廃止令を出し権現信仰を禁止し、”神社にしねぇなら廃寺なっ” とほざき、明治6年には、”吉野山蔵王堂を金峯神社口ノ宮、山上蔵王堂を同じく奥ノ宮とするべきこと”と通達してきた。神社に変えさせようとしたんですね。天皇陛下を中心に日本国を一つにまとまらせようと必死だったのですかねぇ、そうとしか思えんのだが。

吉水院は吉水神社となったが、後に、東南院、竹林院と桜本坊、山下蔵王堂に金峯山寺の寺号が戻り、喜蔵院が仏寺に復興したがあとは修験寺の復興は許されず全部潰された。修験道廃止によって無職となった山伏は約17万人もいた。

まるで現在のどこかの国の某政党と同じような事してますよねぇ? 突然、こんな酷いことをされたのにその新政府が後々に徴兵制とかでしょっぴいたり、「天皇陛下万歳♪」とかって国を守るためとはいえ突然そんな気になるかいな? 美しくつくられた話なんだろうなぁと思ってしまう。

金峯山 蔵王堂


すっごい凝った造り。修理しないと危険だからか仁王門は閉鎖されていた。

金峯山 蔵王堂


蔵王堂は、出雲大社や東大寺大仏殿と共に国宝建造物として日本三大建築と誉れ高い。落雷や南北朝の戦い等で過去5回焼失している。その度に建て直されてきたわけだが、杉、松、欅、ツツジ、梨などの様々な材木をそのままの状態を活かして使い68本の柱で天井を支えている。天井から何から微細な技術を使った丁寧な造りに見えた。もっと簡単な作りにすることもできるのにここまで凝った建造物にする理由はなんだろうか? 権威付け周囲への威嚇誇示なのだろうか???

金峯山 蔵王堂


蔵王堂の中は、撮影禁止の立札があった。パンフレットで見るとこんな感じ。なんと中央の像は7M越えで超巨大。3体の中央が釈迦如来で過去、向かって右手が千手観世音菩薩で現在、左が弥勒菩薩で未来を表していて、ずっ~と衆生を救いますよという事をあらわしている。この三尊が融合して一体の仏となった御姿が金剛蔵王権現。

大峯山上ヶ岳の山頂にある巨石に座し人々を救う神仏を祈りだすために孔雀明王経や不動明王経を一心に唱えた役行者。釈迦如来、千手観世音菩薩、弥勒菩薩と順に現れたが、恐ろしい様相でないとなめ切った人々を救えないと 怖いのを!って祈ったんですよね。金剛蔵王権現の御姿を見た時これだ!っと悟ったのだそうなのだが、人間って全く優しくされるだけではダメなんですねぇ。

金剛蔵王権現


実見すると自然とひれ伏してしまうような威厳ある神聖な力を感じるこの金剛蔵王権現は、蔵王堂が1586年の火災で焼失したため宗印仏師が制作し1592年頃に完成したもの。宗印仏師といえば、京都市東山区の方広寺の大仏制作を手掛けた人物。ちなみに豊臣氏滅亡のきっかけとなったのはその方広寺の梵鐘だ。

金剛蔵王権現さまが右手に持つ三鈷杵は天魔を粉砕し、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切り、左足で地下の悪魔を抑えつけ、右足で天地間の悪魔を払っているとう。極めつけの背後の炎は大智慧をあらわしているという。

実物をよ~く見ると、真ん中の像の足の下には眠る虎がいて、隣の像にも足の下に虎がいるんですわ。法衣を着て監視や誘導をしておられる方に質問してみたら、「本当だ、虎だ! 知らなかった! 虎のパンツじゃないかな」と仰っていたが、虎模様のパンツ??? よ~わからんがバイトの僧侶だったのだろうか?(笑) そんな若い感じではなくどんなに若く見ても30代には突入しているだろう御方だったのだが。。。。

明治政府の神仏分離令の時、蔵王権現像は大きすぎて持ち出せないので蔵王権現像の前に大きな鏡をおいて神としておまつりしていたという。山上の本堂は、本堂前の広場に新堂を建てて本堂内の仏像を全部移し、管理を檀家寺に託した。その山上本堂は後に大峯山寺となり現在に至っている。女人禁制でしたよね。差別がー(≧∇≦) ギャハハハ

そして、金剛蔵王権現さまの現在の姿がみれる木像がありますよって事で奥に入ってみた。大きくてびっくりだしよく見ると木の継ぎ目が見えたので丸々一本の木を彫っただけの作りではないんだなぁと。。。鎌倉時代の作品だった。明治政府の廃仏稀釈で壊されたお寺、奥千本の安禅寺蔵王堂のご本尊だった蔵王権現像をここ蔵王堂に逃がしたのがこの像なのかな。

他にも聖徳太子孝養像や、世尊寺の本尊だった釈迦如来像や役行者と前鬼・後鬼像、峰の薬師堂から移された薬師三尊像などなども安置されていた。


印象に残ったのが、理源大師が所持していたという笈(山伏が山野を跋扈するために必要な、用具を収納して運搬できるようにしたもの)。今でいうバックパックみたいなもんなのだろうが、ごっつい小型箪笥みたいなのなんですよ~。理源大師聖宝は、真雅(空海の実弟)に従い出家し若い頃から金峯山で修行をし醍醐寺を創建したり、吉野川に渡り船を設け行場を整備し金峯山に堂を建立し、確実な記録として金剛蔵王菩薩像を造立した最初の人物だ。

金峯山 蔵王堂

この秘仏本尊特別ご開帳!は、1600円。靴を入れる為の金峯山寺ロゴの入ったバックと蔵王権現様祈祷済みの木札がもらえるんですよ~♪ 嬉しいわ~。念願の蔵王権現像がみれ夢が叶った♪

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