安土城4


さてさて、大手道に戻りさらに石段をのぼっていくと、信長の長男である織田信忠邸跡地があった。本能寺の変の時、勝ち目無とみて自刃した彼の最期を暗示するかのようにめっちゃ狭いうえに暗くて草木で覆われ、ひどい扱いだと思った。おまけに写真までぶれているため扱いの悲惨さに拍車がかかってみえるであろう。まぁぶれた写真を撮ったのは私なのだが。

とはいえ、その近くにあった同じく酷い扱いとしか思えない武井夕庵邸跡の写真は載せないので、写真がぶれていても許してほしい。ウーム ちなみに私は、武井夕庵氏とっ~ても気に入ってる♪ なんかとっ~ても好きなんですよね~キャッキャ💗💕 信長の右筆であり信長への諫言をよくしたことで知られる武井夕庵邸跡地からは信長家臣団の屋敷跡と思われる廓の中で唯一、井戸が見つかっている。

安土城202310


そして、さらに石段をのぼっていくと、今度は左手に、織田信澄邸跡と森蘭丸邸跡が、全くひでぇ扱いだよ、と嘆息してしまう状態であった。周囲は草木が生い茂り、しかもほぼ同じ場所に2つの表示である。でもまぁこうして表示してもらっているわけですしねぇ。。。明智光秀邸跡なんちゅうもんはどこにも見当たりませんでしたし・・・・。

本能寺の変の時、信長と共にいた森蘭丸は信長を守るために壮絶な最期をとげた。生きた時代が悪かったよなぁと非常に気の毒に思うが、織田信澄も悲惨過ぎて名を見るだけで泣けてきますね。信長との家督争いで2度謀反を起こしたとされ謀殺された信長の弟(織田信勝=信行)の嫡男が信澄だが、信澄は信長に信頼され重用されていた。しかも明敏と後世まで名高い明智光秀の娘婿でもあった。

そんな信澄氏は、本能寺の変勃発時、四国遠征軍の副将として大坂城にいた。が、光秀の娘婿+実父を信長に殺された=光秀と共謀して本能寺の変を起こした、という噂が広まり、織田信孝(信長の三男)と丹羽長秀により攻め入られぶち殺され、謀反人として堺の町はずれに梟された。全くの無実だったようなのですが。。。。とばっちりにしてもあまりにも凄惨過ぎますね。酷い時代だ。

安土城202310


さて、もっとのぼっていこう。

安土城202310




ここまでに続く石段の両脇には家臣たちの家があったが、ここ↓黒金門を通った先は、信長が日常生活を送っていた場となる。防衛機能を備えた通路を屈曲させたつくりの食い違い虎口となっており、そこを抜けると左右に道が分かれる。右へ行くと本丸へと続くが、左へ行くと長谷川秀一邸である。残念ながら黒金門は、天守と共に燃えてしまったのだが、金箔瓦などで造られていた。

安土城202310

信長の側にいつもいる=森蘭丸 ってイメージがわくが、森蘭丸邸よりも長谷川秀一邸のほうが天守閣に近くしかも黒金門内にあるんですね。

本能寺の変勃発時、長谷川秀一は、信長に命じられ徳川家康の接待をしていて堺滞在中だった。本能寺の変を知ると、家康を守りながら共に伊賀越えをした。



更に行くと、いよいよ天主、本丸、二の丸、三の丸などで構成される、信長が日常生活を送っていた場所となる。おおよそ東西180メートル、南北100メートルの範囲を高石垣で取り囲んだ御城。

二の丸跡には、秀吉が信長供養のために信長の太刀、烏帽子、直垂等の遺品を埋葬し本廟とした織田信長本廟がある。そしてこの道↓を行くと、本丸跡、そして天守台へと続く。

安土城202310


安土城202310

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安土城3


石段をさらにのぼっていくと、右手に徳川家康邸跡地がある。徳川家康邸跡地ですから、秀吉邸跡地だったと伝わる場所よりももっと盛大に整備され観光できるようになっているのかなと思いきや、今現在は摠見寺が移設され使われている。徳川家康への扱いもなかなかのように思えた。

そして、このように大きな鐘があり、自由に鐘をつけるようになっていた。折角なので鐘を打つと、深い響き渡る良い鐘音が響き渡った。が、そんな深く澄んだ鐘の音の余韻に浸る間もなく左側から御高齢女性と思われる人の怒鳴り声が聞こえてきて内外の静寂を一瞬でぶち壊された。耳を澄ますと「どうやって入ってきた!」だとか「信じられない!」だとか大声で言い、人ともめているようだ。

安土城202310

鐘を突く場所から正面を見ると、蛙さんやらの置物やら石仏やら石やらがびっちり置かれ、人が通れる状態ではとてもなかった。またそれだけではなく、更に、進入禁止の貼り紙がなされてあった。だが、鐘を突く位置から斜め左手を見ると、両脇に石が置かれてあったがその中央は人が普通に行き来できるようになっていた。そして、進入禁止などの貼り紙も何もない。それで、人がそこに入っていってもめたようだ。

呆然としていたら、左手から数人の観光客らしき人達が「なにこれわかんないよね?」とか語りながら出てきて、「ここ行かない方がいいですよ」と教えてくれた。

まぁ確かに、この状態では知らずに中に入ってしまう人も一定数いるだろうなぁと思えるおつくりだった。そして知らずに入ってきた観光客を怒鳴りつけている日常なのだろうか??? 超一級の釣り師じゃねぇか、と思わざるを得ないおつくりにしか見えなかった。「さぁさぁどうぞ、おこしやす~♪」みたいな わざわざ人を招き入れるおつくりなのだから。怒鳴られた方々がとても気の毒に思えた。巧妙な罠にかかってしまった尊い犠牲者の御蔭で、私は侵入することなく怒鳴られずに済んだのだった。

罠としか思えない、釣り師としか思えない、そういった状況を作り出してしまう心理状態というのが確かあるはずなんですよねぇ・・・・。人と人のコミュニケーションって難しいですねぇ(白目)



そういえば入り口付近にも、今現在この特別史跡安土城址の全域は、宗教法人摠見寺の所有地である。そのご厚意により安土城跡を見学できるようにしてやってる、旨が書かれてあったのを思い出した。

ん?と思ったのでその場でスマホでググってみたら、入山料も徴収しているのだが、さらに寄付金も募集しているようだ。なっ、なかなかだな。

安土城202310
出典:摠見寺HP




本能寺の変が起こると明智軍は安土城を占拠し、光秀は安土城にある財宝を家臣たちに分配。が、山崎の戦いで光秀軍が敗れた直後、火があがり安土城天守と本丸が焼失。その後、秀吉は焼けずに残った二の丸などが存する安土城に信長の孫である三法師(織田秀信)らを入城させたが、小牧長久手の戦い1年後に安土城を廃城とした。

その後、焼失を免れた摠見寺が安土城跡を守ってきたそうで、今では安土城址全域は、宗教法人摠見寺の所有地となっている。まぁ現民法でも占有開始時に善意無過失で所有の意志を持ち平穏にかつ公然と10年間占有すると所有権を得られますしね。それに、安土城はもともとは織田氏の居城だったわけですし、歴代住職さんの名をみると、織田姓や津田姓でほぼほぼしめられ織田家一族なんですねぇ。。。



安土城202310
出典;Wikipedia摠見寺

まぁ何はともあれ、余計なお世話かもしれませんが、まるでワナをかけ誘い込んでお前が悪い!と怒鳴りちらす、そういう一流の釣り師みたいなことをしていると評判悪くなるから、立ち入り禁止ならもっとわかりやすくきちんと表示するとかした方がいいように思うんですよねぇ。本当に防止したいのであれば、誰しもがわかるように明確に拒絶しますよねぇ。まっ、わたしゃぁどーでもいいっすけど。(言われた人達のなにかがうつったような気がするなぁ。。ここまで書いてるから。。。。本当に私が書いているのかな。)

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安土城跡2


さて、安土山入山料を支払う受付には、戦国武将漫像図とやらが飾ってあった。これを見ると、織田信長氏は格好良い。

安土城2023108


安土城2023109


近郊の山々から採取した石や石仏や墓石等を使ってつくられた大手道↑。両側には幅1メートルはある側溝もある。そして、階段の所々にはこのような↓説明書きと共に、お金を入れるための小鉢まで用意されていた。説明書きには、有難い石仏様の石なのだから拝んで金いれていけ!とでも催促するかのように、”趣旨をご理解の上、見学して下さい。” と書かれていて、思わず苦笑いしてしまった。アハハハハ

安土城20231010


安土城20231011

右手には前田利家邸跡地だという場所↑があったが狭いし木々が生い茂り暗くて鬱蒼としていてなんだか不気味である。石垣が残っているので想像することはできるが、手入れも何もされていないようにしか見えず前田利家への扱いがなかなかひどいなと思った。説明看板がかろうじてあるのがせめてもの救いのように感じた。そして、大手道を挟んで左側は、羽柴秀吉邸跡地↓だ。こちらはきちんと整備されていて広々とすっきりしている。

安土城20231012


安土城20231013

石垣の上にものぼれるように整備されていて、このように看板も出ている。石垣をのぼって見える光景がこちら↓

安土城20231014


安土城20231015

羽柴秀吉邸はこんなんだったらしい。しかし、秀吉と利家の扱いの違いには心底ビビった。

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安土城跡


長篠の合戦の翌年1576年から築城が開始され、3年後1579年に織田信長が移り住んだといわれている安土城。その3年後に本能寺の変が起きたそうで・・・・3という数字になにかあるのだろうか・・「おぼろげながら浮かんでくるな。3という数字が」(笑)


さて、当時はここ↓に、東西110メートルにわたり石垣が積み上げられ、4か所の出入り口が設けられていたそうな。安土山入山にはお金がかかるが、広い駐車場とこのエリアは無料。

安土城2023101

視線をこの写真にそって真っすぐ向けたあたりからは、数基の竈や井戸や洗い場の跡のようなものが見つかっている。そのお隣上が羽柴秀吉邸だったと伝わる場所だ。

そして、視線を手前にもどして右側の石段の上には、当時は賓客を招き入れる建物があったと考えられている。この写真では見えないがその隣上は、前田利家邸だったと言われている。つまり前田利家と羽柴秀吉は、天守へのぼる石段(大手道)を挟んだお向かいさんだった、ということですね~。万が一、敵が押寄せてきたときは真っ先に打って出ないといけない場所でもあるなぁ。


今はこうして安土城跡ってことで、綺麗に整備されているけれども安土城廃城後には、この辺りは開墾され畑や水田として使われていたという。


かろうじてこのような↓石垣がのこされてはいるものの、石塁の大半はどこぞに再利用されたのか消えてなくなっている。しかし、小さな石を隙間に入れる間詰ですが、こうして間近で見るとまるでパズルみたい。

安土城2023106



さて、嘗ては賓客を招き入れた建物があったと言われる場には・・・今はこんなん。思わず笑っちまったが、草刈りをしている人は誰一人いなかった。

安土城2023102


安土城2023103


はて、ちょっと想像してみると、もしかしたら、長年真面目に草刈りを仕事にしていた御方はある日突然に菓子折りを手渡され解雇を言い渡されたのかもしれない。それで、せめてもの腹いせにこうしたちょっとユーモアを交えたコーン状のを芝の上に置き去っていった。そして、今のところまだこの物体がバレていないのか、「おもろいからこのままでいいやん」みたいな感じでそのままにされているのかもしれない。んん~、なかなか人間界の闇を感じますねぇ・・・・知らんけど。真相は如何に!?

安土城2023104


安土城2023105


見渡すと、実際に草刈りをしているのは、天下布武の旗を掲げた自動芝刈り機だった。こういう状態↓のところまでくると、くるっと角度を変えて落ちないようになっていた。これは便利だなぁ。

安土城2023107

ググってみたら、これか。普通に売られていた。

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感想(4件)



値段を見ても、こりゃまぁ確かに、人を解雇して自動草刈り機に仕事任せたくなるかもなぁ・・・・・。ウーン 知らんけど------。

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時の流れを感じた


近鉄古市駅の辺りは古墳が多い。そして、駅から徒歩10分ほどのところには ”旧石器人のアトリエ” という、えっ、何何?? っと想像力たくましくなってしまうお洒落な名称の地がある。それがここである。到着した瞬間に、えっ? と一瞬なった。だってぇ、手前の植木を見てみてくださいよぉ。この木↓がアトリエ???? んん? ただ生えてるだけやん、アトリエ???  疑問がわきあがってきてしまう衝撃からこの身をなんとか持ちこたえさせ公園内に歩を進めた。

あのへんてこな形の、そうですねぇ、風の谷のナウシカのオウムを思い出させる形のモニュメントの向こう左はスーパーがあり、右手、あの家々の右側には府営団地がデンデンと建っていて、”旧石器人のアトリエ” を眺めていることができるのだが、誰も眺めている人はいなかったし、公園内にも誰もいなかった。

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

ちなみにあの風の谷のナウシカのオウムが想起されてしまうモニュメントは、石器をつくるために割った岩石・サヌカイトをイメージしてつくったらしい。


翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

んんんん、、、、”旧石器人のアトリエ” って言い方は御洒落だが、しょっぼ!!

そして、まさかの、この植木↓もアトリエとナンバーがふってある。単なる植木やんかーーーーい。

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ



翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

んん~、、、ショボ!!ってしか浮かんでこず失望は免れないが、いったい私は何を期待していたのだろう。冷静に考えてみると、氷河期にあたる旧石器時代は、約250万年前~15万年前にあたる前期旧石器時代、15万年前~3万5000年前にあたる中期旧石器時代、そして、約3万5000年前~1万年前にあたる後期旧石器時代に分類されている。

前期石器時代は猿人や原人が生息していた。猿人や原人ですからね~。そして、中期旧石器時代はネアンデルタール人いわゆる旧人と呼ばれる人たちが生息していた時代だ。後期旧石器時代になると、ようやっと我々現生人類と同じ種族であるホモ・サピエンスと呼ばれる新人の時代に入る。イメージ図としてはこんな感じ↓ですかな。

旧石器時代

向かって左側が猿人、右側が旧人いわゆるネアンデルタール人。次にようやっと我々と同じホモ・サピエンス新人の時代に入る。

そして、ここ翠鳥園遺跡、御洒落に言うと”旧石器人のアトリエ” は、後期旧石器時代の遺物である。進化してホモ・サピエンスになりたての方々ですからね、身近にあったもので少しでも暮らしを楽にするために考え出した石器、切ったり、剥いだり、叩いたり、掘ったり等々をより楽にしやすくするために石を加工した。冷静に考えると単にショッボ!とは言えなくなってくる。。。ウーム

後期旧石器時代の遺跡は日本列島の北海道から九州にいたるまで発見されている。が、この翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~は、何がすごいかと言うと、後期旧石器時代の石器づくりの様子が生々しく遺されていた遺跡で、ふ~ん、石器ってこうやって作ってたのかぁ、ふ~ん、とわかるものだから、だそうだ。旧石器時代当時のままで現在に残ったアトリエはここ翠鳥園遺跡の他に例がないとかなんとかかんとか。




旧石器時代の石器の材料は、北海道と関東地方は黒曜石、東北地方は貢石、西日本ではサヌカイト、九州地方はサヌカイトと黒曜石の利用がわかっている。それぞれの地域で産出できる素材、産出できない素材があるので、それぞれの地域で最適な物を活用したのだろう。サヌカイトは、約1200万年前~1500万年前に二上山が噴火した際に出来たガラスのように鋭利な縁辺をもつ岩石で、旧石器時代から弥生時代まで利用されてきた。二上山博物館でサヌカイトがお土産として売られていたのを思い出す。買わんかったけど。サヌカイトは、羽曳野市東部に位置する香芝市の二上山の北麓地域で主に産出される。


翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~では、サヌカイトが38か所に集中して存在していた。石器や加工の際に出た石の欠片など約3万点が発見された。集中部34という場所だけでも2000点の石器が発見されている。なんでも旧石器人のアトリエとやらは、大きく分けて9グループにわけられ、1グループあたり2人~3人で石器づくりを行っていた、という推測もあれば、座った場所が1か所ずつ確認されていることから、それぞれがその集中部で石器づくりを行っていた、という説もある。翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~では、約2万年前の後期旧石器時代から縄文時代早期にかけての石器が発見されている。

そうやって冷静に見てみると、アトリエとか言いながらこれ植木じゃんか、ショッボ!と思った木も、38か所の石器づくりの作業場の1つだったんだなぁ~と温かく見ることができるようになる。クククククク

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

さらにもっと冷静に考えてみると、当時はまだ氷河期ですから、地球温暖化(笑) と騒がれている現代とは違う寒冷気候であり、動植物からして今現在とは状況が違うはずだ。単純にこの植木が旧石器人のアトリエかよww とウケるのはちょいと違うなって、そもそもこの木、旧石器時代からずっと生えてたんかーい! と、天才な私は気づいてしまったのだった。(天才って言わせてくれ言わせてくれ言わせてくれ)



こうしたもの↓も、ホモ・サピエンス新人類になりたての人たちが作ったのか~、と温かくみることができますね♪

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ


翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

当時は地殻変動も激しく、一番ビビるのが、約2万3000年前とも約2万5000年前とも約2万6000年前とも言われている、要するに正確にはよーわからない、って事だろう(笑) とっ、とにかく、鹿児島県の姶良カルデラは、そのころ、数か月以内ごとに大噴火を繰り返していた。そして、最後の超巨大噴火が起こった。なっ、なんと、南九州本土のほとんどの地が火焔流で厚く埋め尽くされ、最大厚さは約150メートルを記録。その火山灰は東北地方にも数センチの厚さの火山灰を降り積もらせたというから驚きだ。

翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~で発見された石器・国府型ナイフは、姶良カルデラ噴火の火山灰よりも上層部で発見されている。よって、姶良カルデラ噴火以降に作られた石器だということがわかる。


後期旧石器時代の人たちはサヌカイトを加工して作ったナイフ形石器をもち羽曳野丘陵周辺で生活していた。この周辺には同様の旧石器時代の遺跡が発見されているが、どれも羽曳野丘陵の東西の縁辺の段丘面に存在している。


私はしませんでしたが、翠鳥園遺跡~旧石器人のアトリエ~に来て、石器をつくる手 に手をのせてみるのもいいかもしれません。ハハハハ

翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ



翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ


このような↑説明版も用意されており、また、この↓風の谷のナウシカのオウムみたいなモニュメントの中にも入ることができる。



翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ



翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

ガラスには府営住宅が映っていますね。モニュメント内にも、このように↑石器づくりの様子が絵入りで書かれていたりしている。そして、これ↓は謎過ぎるので撮った。絶対に普通の人間では手が届かない高い高い上層部の細い隙間に、ペットボトルが置いてあった。投げ入れるにしてもかなりのテクが必要で、果たしてできるかどうか。。。。


翠鳥園遺跡公園 旧石器人のアトリエ

余程のもの好きの方や、旧石器時代の研究をされておられる方など以外は、わざわざ訪れる場所ではないと思いますが、私は古市駅から徒歩数分の場所に用事があり、予定より早く到着したので時間つぶしに寄ってみたのだ。。。。めっちゃ小さいし、想像力を働かせるまでは、ショッボ! とシケた感じが全身を覆っていたが、冷静に旧石器時代に思いをはせてみるとすげーな!って素直に思えた。あの、謎のペットボトルもな。

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